13話「地獄の第3課へようこそ」
暗かった。
照明が、二つとも消えている。窓からの光だけが、白い壁をぼんやりと照らしていた。
その暗がりの中に、赤い光が二つ、浮かんでいた。
ルカは、目を見開いたまま動けなかった。
赤い光が、目だった。
赤い目の上に、角があった。二本の角が、暗がりの中に影を作っていた。黒い鎧が、かすかな光を反射している。大きい。自分の倍はある。壁のように、こちらを覗き込むように目の前に立っていた。
ルカの頭が、一つの結論を出した。
死んだ。
過労で、死んだ。
書棚の隙間で仮眠を取って、そのまま起きられなくなって、死んだのだ。そしてここは―
「あの、大丈夫ですか」
声が降ってきた。低い声。暗がりの中から。赤い目が、少し近づいた。
ルカは壁に張りついた。背中が書棚に当たった。本が一冊落ちた。
「ひっ―」
「あ、すみません。怖がらせるつもりは―」
「地獄―」
「え?」
「ここ、地獄ですか」
田中が、固まった。
颯が、壁際で額を押さえた。
「地獄じゃないです。ここは第3課です」
ルカの目が、部屋の中を見た。
暗い。照明が割れている。ガラスの破片が床に散っている。書類の山が崩れて散乱している。
「……地獄の、第3課……」
「違います。天界の第3課です」
「天界に、地獄の課が……」
「ないです」
ルカは赤い目を見た。角を見た。黒い鎧を見た。
「第3課に、こんな方は……いません」
「いないですよね。すみません。自己紹介が遅れました。田中誠と―」
「田中魔王…」
「誠です。まあ合ってはいますが…」
「名前が、あるんですか」
「……はい」
「魔王に…」
颯が口を挟んだ。
「あります。人間です。見た目はこうですけど」
ルカの目が颯に向いた。剣が見えた。腰に差した剣。
「……処刑人ですか」
「違います。勇者です。敵じゃないです」
「魔王と……処刑人……」
「勇者です」
ルカの目が、部屋の惨状を見た。
暗闇。割れたガラス。崩れた書類。その真ん中に立つ、角の生えた巨体。
「過労で死んで……地獄に落ちて……整理しても整理しても書類を散らかされる刑に……」
「…刑じゃないです。散らかしたのは俺です。すみません」
「田中さん。今それ言わなくていいです」
「でも、この方の書類を俺が―」
「事実が状況を悪化させてるんです」
ルカが、壁に背中をつけたまま、ずるずると立ち上がろうとした。膝が震えていた。
「あ、立てますか。手、貸しましょうか」
田中が手を差し伸べた。
暗がりの中で、黒い鎧の腕が、ルカに向かって伸びた。
ルカは、しゃがみ直した。
「……田中さん」
「はい」
「手を引っ込めてください」
「あ、はい。すみません」
颯がルカの前にしゃがんだ。
「落ち着いて聞いてください。あなたは死んでません。ここは地獄でもありません」
ルカが颯を見た。
「……死んで、ないんですか」
「死んでないです」
「でも……あの方は……」
「魔王ですけど、悪い人じゃないです。照明を割ったのと書類を崩したのは本当にすみません」
ルカの目が、田中に戻った。
田中は口を閉じて、申し訳なさそうに立っていた。手の置き場がないらしく、鎧の前で手を組んでいた。姿勢がいい。角が暗がりの中に突き出ている。赤い目が、伏せられていた。
「……えっと、あの。すみません」
ルカが、おずおずと口を開いた。
「魔王様は、なんでうちにいるんですか」
「承認印をもらいに来ました」
ルカがまた固まった。
「……承認印」
「はい。案件概要書に、第3課の承認印が必要なので」
ルカは田中を見た。颯を見た。もう一度田中を見た。
「……魔王が、天界の、承認印を……なにかの侵略ですか…」
「いえ。面会申請の―」
「田中さん、ちょっと黙っててください」
颯が手を上げて田中を止めた。
「この人、処理が追いついてないです。情報を一つずつにしましょう」
田中が口を閉じた。
ルカは、しばらく黙っていた。腕に抱えた書類をぎゅっと胸に押しつけて、呼吸を整えていた。
「……死んで、ないんですよね」
「死んでないです」
「地獄じゃ、ないんですよね」
「地獄じゃないです。天界の第3課です」
「第3課……」
ルカは部屋を見回した。崩れた書類。暗い照明。見覚えのある張り紙。見覚えのあるごみ箱。見覚えのある、真っ黒な記録票。壁の張り紙が薄暗がりの中に浮かんでいる。『案件は寝ても覚めても待ってくれません』
「……本当だ」
自分で、確認するように言った。
「なんでこんなことに……」
「すみません。全部俺のせいです。照明も、書類も―」
「田中さん」
「はい」
「黙っててって言いましたよね」
「……すみません」
ルカが、長い息を吐いた。震えが、少しだけ収まった。
「あの……一つだけ、聞いてもいいですか」
「はい」
颯が答えた。
「この方……魔王様は、なんで……書類を、仕分けてたんですか」
颯は、田中を見た。
田中は黙っていた。黙っていろと言われたので、黙っていた。颯を見ている。喋っていいですか、という顔をしていた。
「……どうぞ」
「癖です」
ルカが、首を傾げた。
「癖で、書類を……」
「前世が窓口だったので。書類が積まれてると、仕分けたくなって……すみません」
ルカは田中を見上げた。暗がりの中の赤い目を。
さっきまでとは、少しだけ違う目で。
「……田中さん、でしたっけ」
「はい」
「田中さんは、『過労で死んだ』って―さっき、私が言ったとき」
田中が、答えなかった。
「……止まりましたよね。声が」
颯も、気づいていた。
田中の声が、あの一瞬だけ、変わったことを。
「俺も、そうだったので」
ルカの目が、見開かれた。




