12話「この景色を知ってるから」
田中は、立っていた。
書棚の前で、姿勢よく。手を体の前で組んで。眠っているルカを見下ろしたまま、動かなかった。
颯は壁に背中を預けた。エリエルは入口の近くで書類を抱えて立っている。
静かだった。
ルカの寝息だけが、小さく聞こえていた。
5分が経った。
田中は動かなかった。颯は時計を見た。午後4時。残り1時間。
10分が経った。
田中の手が、動いた。
最初は、指先だけだった。膝の前で組んでいた手の、右手の指が、小さく動いている。何かを数えているような動き。無意識に見えた。
「田中さん」
「はい」
「手、動いてます」
「……すみません」
田中は手を止めた。
30秒後、また動いていた。
今度は手だけではなかった。目が、書棚の隣に積まれた書類の山を見ていた。赤い目が、書類の色テープを追っている。赤、青、黄色。未処理、確認済み、承認待ち。
「田中さん」
「はい」
「見てますよね。書類」
「……見てないです」
「見てます」
「…………見てます」
「仕分けたいんですよね」
田中が、少し黙った。
「……この黄色いの、上に置くだけで処理の順番が―」
「だめです」
「一番上の束だけでも―」
「だめです。ここは天界の課です。田中さんの職場じゃないです」
田中は手を引っ込めた。膝の上で組み直した。
颯は壁に背中を預けたまま、部屋の中を見ていた。
書棚。書類の山。空の机。壁の張り紙。真っ黒の記録票。あふれたごみ箱。天井の切れた照明。
この部屋で、一人の天使が、毎日書類を処理していた。何百、何千の案件を、一人で。
その中の一枚に、田中の転生先希望申請書があった。
颯は、口を開いた。
「田中さん」
「はい」
「ここ、第3課ですよね」
「はい」
「田中さんの処理票を出した課ですよね。『農村』を『魔村』に書き間違えた」
田中は、答えなかった。
しばらく、黙っていた。
「……はい」
「忘れてたわけじゃないですよね」
「はい。エリエルさんが案件概要書は第3課って言ったとき、ああ、と思いました」
「怒らないんですか」
田中が、眠っているルカを見た。
「この人じゃないかもしれないです。4年前に書いたのが、この人かどうかは、わからない」
「でも、この課で書かれたんですよ。田中さんの処理票は」
「はい」
「農村が魔村になって、魔王にされて、4年間ずっと―」
「颯さん」
田中の声が、穏やかだった。
「この人、一人で全部やってるんです。二人分の異動があって、補充も来なくて。コーヒー15本飲んで、休みも取れなくて、書棚の隙間で寝てる」
田中は、ルカの腕に抱かれた書類を見ていた。
「書き間違えたのは、この人の責任かもしれない。でも―」
田中が、壁の張り紙を見た。『案件は寝ても覚めても待ってくれません』。
「こういう場所で、こういう人数で、間違えないほうがおかしいんです」
颯は、何も言えなかった。
「うちの市役所でも、ありました。隣の席の人が休職して、一人で窓口を回してた三ヶ月。書類を間違えたことがあります。お客様の名前を一文字、書き間違えた」
「……どうなったんですか」
「始末書を書きました。でも、間違えたのは俺のせいだけじゃなかった。システムのせいで、環境のせいで、人が足りないせいで―」
田中が、ルカの寝顔を見た。
「怒れないんです。この景色を知ってるから」
颯は天井を見た。白い天井。照明が一つ切れている。
この人は、怒る代わりに、理解してしまう。理不尽の中にいた人間だから、理不尽を生む側の景色が見える。見えてしまうから、怒れない。
「……田中さん」
「はい」
「仕分け、していいですよ」
田中が振り向いた。
「え?」
「書類。仕分けたかったんですよね」
「でも、さっき―」
「気が変わりました」
颯はそれ以上、何も言わなかった。
田中は少し迷ってから、書類の山に手を伸ばした。
黄色い色テープの束を、丁寧に引き抜いた。角を揃えた。隣の山から青いテープの束を抜き出して、別の場所に置いた。手が速かった。迷いがなかった。
エリエルが、目を見開いていた。
「……処理段階ごとに、正しい順番で並んでます」
「色テープの配置を見れば、どの段階かわかるので」
田中の手が止まらなかった。赤い束を左に、青い束を中央に、黄色い束を右に。三つの机のうち、空いている机の上に、処理段階ごとに並べていく。
かがんだ拍子に、角が書棚に当たった。本が一冊落ちた。
「あっ―」
拾おうとして体をひねった。鎧の肩が、隣の書類の山に触れた。山が崩れた。崩れた書類が、隣の山に当たった。隣の山も崩れた。
「すみません、すみません―」
田中が書類を押さえようとして立ち上がった。角が、天井の照明に当たった。生きていた方の照明だった。ガラスが割れる音。破片が散った。
部屋が、薄暗くなった。
「……これ以上動かないでください、田中さん」
「すみません」
田中は暗がりの中で、両手に書類を抱えたまま固まった。
身長2m超の魔王が、黒い鎧のまま、崩れた書類の山の真ん中に立っている。自分を魔王にした課で、最後の照明まで割って。
音がした。
紙がずれる音。それから、小さな声。
「……んん」
三人が、同時に振り返った。
書棚の隙間で、ルカが目を開けた。
寝ぼけた目だった。焦点が合っていない。腕の中の書類を確認するように胸に抱き寄せて、ゆっくりと顔を上げた。
目の前に、赤い目があった。
角があった。
黒い鎧が、しゃがんで、自分を覗き込んでいた。
ルカの目が、見開かれた。
口が開いた。声は、出なかった。




