11話「コーヒーは15本ありました」
第3課は、廊下の中ほどにあった。
他の課の扉には、課名と受付時間が書かれたプレートが掛かっている。第3課の扉にもプレートはあった。ただし、その上に紙が一枚、テープで貼ってあった。
「『担当者不在の場合は、しばらくお待ちください』」
颯が読み上げた。
「しばらくって、どのくらいですか」
エリエルが答えなかった。
扉を開けた。
狭かった。
机が三つ。椅子が三つ。書棚が壁を埋めている。書類の山が、机の上だけでなく、床にも積まれていた。山と山のあいだに、獣道のような通路ができている。天井の照明が一つ切れていて、奥が薄暗い。
壁に、紙が一枚貼ってあった。手書きだった。
「『案件は寝ても覚めても待ってくれません』」
颯が読み上げた。その横に、もう一枚。
「『本日の未処理件数:』―数字が書いてないですね」
「数えるのをやめたんだと思います」
机の横のごみ箱が目に入った。コーヒーの空き缶と栄養剤の瓶があふれていた。ごみ箱に収まりきらず、床にまで転がっている。
壁に、出退勤の記録票が掛かっていた。
記録票が、黒かった。休日の欄にも全部印がついている。空白がない。その下に先月分がぶら下がっていたが、そちらも真っ黒だった。
三つの机のうち、二つは空だった。
空、というのは正確ではない。机の上に書類は積まれている。ただ、椅子に誰も座っていない。椅子の座面にも書類が置かれていた。
一つの机だけに明かりがついていた。書類の山に囲まれて、ペン立てと、飲みかけの茶器と、処理途中の書類が広げてある。でも、そこにも誰もいなかった。
「……誰もいないですね」
颯が言った。
田中は、返事をしなかった。
颯が振り返ると、田中は入口に立ったまま、部屋の中を見ていた。
書類の山を。床に積まれた束を。空の机を。照明の切れた天井を。壁の張り紙を。あふれたごみ箱を。真っ黒な記録票を。
赤い目が、ゆっくりと部屋を見渡している。何かを確認するように。何かを、思い出すように。
「……コーヒー、何本ありますか」
「え?」
「ごみ箱の。空き缶」
颯は数えた。
「……15本くらいですかね。瓶も入れたらもっと―」
「うちの課も、そうでした」
田中の声は、静かだった。
「この量を、一人で処理してるんですか」
「……はい」
エリエルの声も、小さかった。
田中が、一歩踏み入れた。角が、入口の上框にかすった。かがんで入る。獣道のような通路を、体を斜めにして進んだ。
黒い鎧が、書類の山の間を通っていく。肩幅が通路より広い。書類の束に触れないように、慎重に歩いていた。
途中で、足を止めた。
床に積まれた書類の一番上を見ていた。
「これ、課ごとの承認印が全部揃ってる。あとは最終チェックを通すだけの状態ですね」
颯は田中の背中を見た。
「……見ただけでわかるんですか」
「書類の角に色テープが貼ってあります。たぶん、処理段階ごとに色を変えてる。赤が未処理で、青が確認済みで、この黄色いのが承認印を待ってるやつ―」
田中の手が、伸びかけた。
「田中さん」
「はい」
「仕分けようとしてますよね」
田中の手が、止まった。
「……してないです」
「手が伸びてました」
「……すみません。癖で」
「天界の書類を仕分けるのは、田中さんの仕事じゃないです」
「でも、この黄色いのを先にまとめれば、処理の順番が―」
「田中さん」
「……すみません」
田中は手を引っ込めた。
膝の上で手を組もうとして、立っていることに気づいて、やめた。手の置き場がないまま、鎧の腰のあたりに手を添えた。
颯は、部屋の奥を見た。
書棚の陰から、音がした。
紙がずれる音。それから、小さな寝息。
三人で覗き込んだ。
書棚と壁のあいだの、人ひとり分の隙間に、天使がいた。
翼を畳んで、膝を抱えて、壁にもたれて眠っていた。腕に書類を一枚抱えている。その書類にもたれて、頬を押しつけていた。頬に、書類の文字が裏移りしている。
小柄だった。翼の手入れはされていない。エリエルのヨレヨレとは違う。手入れをする時間がなかったのだと、見ればわかった。
「第3課のルカさんです」
エリエルが、ささやくように言った。
「元は三人いたんですが、二人が異動になって。補充の申請は出してるそうなんですけど―」
「たらい回し」
「はい」
「申請書を出しても、返事が来ない」
「……はい」
「一人で、全部やってる」
「はい。仮眠は、たぶん三日か四日ぶりだと思います」
田中は、答えなかった。
しゃがんだ。
膝をついて、書棚の隙間に目線を合わせた。角が書棚の上段に当たった。木がみしりと鳴った。本が一冊ずれた。田中が慌てて押さえた。
「……すみません」
颯も、しゃがんだ。
眠っている天使の顔が見えた。若い。疲れている。眉間に皺が寄っている。眠っているのに、力が抜けていなかった。
田中が、ルカを見ていた。
長い間、見ていた。
「……起こせないです」
声は、小さかった。
「田中さん。承認印をもらわないと―」
「わかってます。でも―」
田中が、ルカの腕に抱えられた書類を見た。
「この人、処理途中の書類を抱えたまま寝てるんです。手が離れてない。寝てても、仕事を手放せてないんです」
颯は、何も言えなかった。
田中が立ち上がった。角が、また書棚に当たった。今度は本が二冊落ちた。田中が拾って、元の場所に戻した。
「……起きるまで、待ちます」
「午後5時までですよ。あと40分くらいしか―」
「大丈夫です」
田中の声は、穏やかだった。
「待つのは、慣れてるので」
颯は、その言葉をどこかで聞いた。会議室で、担当者が来るのを待っていたとき。冷めたお茶を飲みながら、姿勢を崩さなかった田中。
「田中さん」
「はい」
「何か、思い出してますか」
田中は少し黙った。
「……うちの課にも、一人で窓口を回してる時期がありました。隣の席の人が休職して、補充が来なくて」
「田中さんが」
「はい。三ヶ月くらい。昼休みに机で寝てました。書類を抱えたまま」
田中はルカから目を離さなかった。
「起こされるのが、一番つらいんです。やっと眠れたのに、って」
颯は黙った。
エリエルも、黙っていた。書類の束を胸の前で抱えたまま、ルカの寝顔を見ていた。
三人は、書棚の前に立っていた。
魔王と、勇者と、天使が。天界の、人手不足の課で。眠っている天使を、起こせないまま。




