10話「承認印は震えていました」
エリエルが、書類の束から五枚の用紙を抜き出した。
テーブルの上に並べる。一枚ずつ、向きを揃えて。書式が全部違った。紙のサイズも、記入欄の配置も、右上に管理番号があるものとないもの。統一感がない。
「面会申請書が一枚。事実認定の確認書が一枚。案件概要書が一枚。同行者届が一枚。入棟許可申請が一枚。計五枚です」
「これ、全部別の課で承認印をもらうんですよね」
「はい。面会申請書は第7課、事実認定の確認書は第12課、案件概要書は第3課、同行者届は第33課、入棟許可申請は第11課です」
「五枚で五つの課」
「はい。それぞれ受付時間が違います」
田中がペンを取り出した。もう構えている。
「受付時間、教えてもらえますか」
エリエルが、何も見ずに答えた。
「第3課は午後3時から5時。第7課は午前10時から午後1時。第11課は午前9時から午後4時。第12課は午前8時から正午。第33課は午前8時から午後2時です」
田中が、メモを取っていた。
エリエルの早口に遅れず、五つの課の時間を全部書き取っている。ペンが止まった。メモを見直している。
「……すごいですね」
颯が振り向いた。
田中が、メモを見つめていた。赤い目が、少し輝いている。行列で整理番号の発券機を見つけたときと、同じ目だった。
「田中さん。何がすごいんですか」
「全部、違うんです。受付時間が」
「知ってます。今聞きました」
「いや、そうじゃなくて―うちの市役所は全課午前8時半から午後5時15分だったので。こんなにバラバラなのは初めて見ました」
「それは怒るところです」
「いや、でも、各課が独自に受付時間を設定してるってことは、業務量に応じて裁量があるということで―」
「田中さん」
「はい」
「感心しないでください。被害者です」
「……すみません」
颯はメモを覗き込んだ。
「今、何時ですか」
「午後3時半です」
「第11課が午後4時までだから、あと30分。ここから行けますか」
「歩いて10分ほどです」
「じゃあ第11課が先ですね。第3課は午後5時まであるから、その後でも間に合う」
田中が五枚の書式を重ねた。第11課の入棟許可申請を一番上にして、角を丁寧に揃えた。
「行きましょう」
田中が立ち上がった。椅子がみしりと鳴った。折れなかった。
「あ、よかった」
「何がですか」
「今回は大丈夫でした」
「椅子が壊れなかったことを喜ばないでください」
廊下に出た。
三人で歩く。田中が先頭。颯が隣。エリエルが少し後ろ。
前方から、天使が二人歩いてきた。書類を抱えて、何かを話している。顔を上げた。田中を見た。
二人同時に、壁に張りついた。
書類が散らばった。一人がしゃがんで拾い始めた。もう一人は立ったまま、田中から目を離せない。
「す―」
田中が口を開きかけた。
「田中さん。謝らなくていいです」
「でも―」
「拾いに行かなくていいです。余計怖がります」
田中は口を閉じた。そのまま歩いた。背中が少し縮んでいた。
第11課の前に着いた。
扉の横に「受付時間午前9時〜午後4時」の貼り紙。その下に、小さく「※書類の不備がある場合は再提出をお願いいたします」と手書きで追記されている。
扉を開けた。
窓口カウンターがあった。カウンターの向こうに天使が一人。書類を処理していた。ペンを走らせる手が速い。忙しそうだった。
田中が、カウンターに近づいた。
「すみません、入棟許可申請を―」
天使が顔を上げた。
動きが、止まった。
ペンが、指から落ちた。カウンターの上で転がって、床に落ちた。こつん、と小さな音がした。
「…………」
天使は椅子ごと、30cmほど後退した。キャスターの音が、静かな課内に響いた。
「あの、大丈夫です。申請書を出しに来ただけなので」
天使が、口をぱくぱくさせた。声が出ていない。
田中がカウンターに申請書を置いた。そっと。指先で、天使の方に滑らせた。
「記入は済んでます。ご確認いただけますか」
天使は申請書を見た。田中を見た。申請書を見た。田中を見た。
手が、伸びない。
「……田中さん、一歩下がった方がいいと思います」
颯が小声で言った。
田中が一歩下がった。天使の肩から、少しだけ力が抜けた。
「あの、急かしてすみません。受付時間が午後4時までと聞いたので。お忙しいところ―」
「田中さん。フォローが逆効果です」
「え?」
「魔王が『お忙しいところ』って言ったら余計怖いんです」
田中が黙った。
天使が、おそるおそる申請書に手を伸ばした。カウンターの端を、指先でつまむようにして引き寄せた。
目を落とした。
確認している。上から順に、項目を追っている。ペンを拾い直した。チェックをつけている。手がまだ震えていた。
颯はカウンターに背中を預けて、待った。
天使の手が、止まった。
顔が上がった。
「……不備が、ないです」
「ありがとうございます」
「一箇所も、ないです」
天使の声が、少し変わった。震えてはいるが、さっきとは違う震えだった。
「この申請書、初見で不備なく書ける方は―」
エリエルが、小さく頷いた。
「……いません。私も何度か書き直してます」
天使が承認印を取り出した。申請書に押した。手は、まだ少し震えていた。
「はい。承認、です」
「ありがとうございます。お手数おかけしました」
田中が頭を下げた。深く、丁寧に。
身長2m超。角。赤い目。黒い鎧。
それが、窓口の天使に向かって頭を下げている。
天使は、何と言えばいいかわからない顔をしていた。
廊下に出た。
「一枚目、終わりました」
颯が言った。
田中が鎧の内側に承認済みの申請書をしまった。整理番号の隣に、丁寧に。
「残り四枚」
「はい」
「次は第3課ですね。午後5時までだから、まだ間に合う」
エリエルが、少し足を止めた。
「第3課は―」
言いかけて、やめた。
颯が振り返った。
「何ですか」
「……いえ。行けばわかります」
エリエルの声が、少しだけ小さくなった。
三人は、廊下を歩き始めた。




