1話「すみません、受付は終了しました」
最後の階段を駆け上がった。
息が荒い。鎧の下の服が汗で張りついている。剣を握る手が、もう何度目かわからない震えを起こしていた。
煉獄魔城・第7塔。最上階。
ここに来るまでに、3つの門を越え、2つの橋を渡り、1つの罠を剣聖の素質で叩き斬った。道中の魔族は不思議と少なかった。すれ違った何人かは、颯を見ても戦いを仕掛けてこなかった。目を逸らされた気すらした。
気にしている暇はない。
目の前に、扉がある。
黒い鉄の扉。取っ手はない。表面に刻まれた紋章が、赤く脈打っている。
佐藤颯は深く息を吸った。
転生して2年。旅をして1年半。仲間を集め、魔物を倒し、ようやくここまで来た。
全部、この扉の向こうを終わらせるためだ。
扉を蹴り開けた。
剣を抜き、玉座の間に足を踏み入れる。
暗い。天井が高い。左右に並ぶ柱の奥に、赤い光がぼんやりと灯っている。壁には紋章。床には焦げた跡。何人もの勇者がここで命を落としたのだろう。
奥に、影が見えた。
玉座だ。
黒い鎧をまとった、巨大な何かが座っている。
颯は剣を構えた。
「──我が名は佐藤颯。神に選ばれし勇者として、この地に終止符を打ちに来た」
声が広間に反響した。柱の隙間から風が鳴る。
玉座の影が、ゆっくりと立ち上がった。
大きい。
身長は2mを優に超えている。黒い鎧の肩幅は颯の倍はある。額から伸びた二本の角が、赤い照明を裂くように天井に届いている。目が赤い。顔の輪郭は暗がりに溶けているのに、赤い目だけが爛々と光っていた。
これが、魔王。
颯はつばを飲んだ。心臓が速い。握った剣の柄が汗で滑る。
魔王が、一歩前に出た。
ガシャン、と鎧が鳴った。床が軋む。巨体が近づくだけで空気が重くなる。
颯は歯を食いしばった。逃げるな。ここまで来たんだ。
魔王が、口を開いた。
「すみません、今日はもう受付終了してまして」
広間が、静まり返った。
風が止んだ。柱の間を抜けていた空気が、凍ったように動かなくなった。
「……は?」
「午後5時で閉まるんです。あ、でも、せっかくお越しいただいたので―少々お待ちください」
魔王が振り返った。
玉座の横に積まれた―紙の山。角が天井の照明に引っかかった。ガラスが割れる音。破片が床に散らばる。
「あっ……すみません、すみません」
最恐の魔王が、しゃがんだ。
ガラスの破片を、一つ一つ拾い始めた。
「危ないので、そのまま動かないでもらっていいですか」
勇者に向かって言った。
佐藤颯は、剣を構えたまま、動けなかった。
動けなかった理由が「恐怖」ではなく「困惑」だったことに、自分で気づいた。
魔王は破片を拾い終えると、鎧の腰のあたりをごそごそとまさぐり、一枚の紙を取り出した。
「えーと、勇者様ですよね。整理番号をお渡しするので、こちらに―」
「ちょっと待ってください」
颯の声が、裏返った。
「何ですか、あなた」
魔王が、きょとんとした。
赤い目で。角を生やしたまま。身長2m超の黒鎧で。
きょとんと。
「田中です。田中誠。……あの、整理番号、いりますか?」
佐藤颯は、生まれて初めて―いや、転生してから初めて、剣を降ろした。
降ろした理由は、「勝てない」からではなかった。
もっと根本的な、何かが間違っている気がしたからだった。
「田中って何ですか」
「名前です」
「魔王の名前が田中」
「はい」
「田中誠」
「はい。あの、名乗らないのも失礼かなと思いまして」
颯は剣の切っ先を床に向けた。構えを解いたわけではない。解く以前の問題だった。
「……整理番号って何ですか」
「ああ、来客用の受付番号です。順番にお呼びしますので」
「ここ魔王城ですよね」
「はい」
「来客って、俺以外に誰が来るんですか」
「いえ、来ないです。4年間、誰も」
「お茶、出しましょうか」
田中が立ち上がった。玉座の裏に回って、何かを探している。棚を開ける音がした。
「すみません、来客用の茶器が見当たらなくて……あ、これ、ちょっと欠けてますけど大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです。状況が」
「すみません」
田中が戻ってきた。欠けた茶器を持って。玉座に座り直した。いつの間にか姿勢が正しい。背筋が伸びている。角のせいで頭が玉座の背もたれより上に出ていたが、座り方だけ見れば役所の窓口だった。膝の上で手を組んでいる。
「あの、お掛けになりますか?椅子は……すみません、来客用の椅子がないんです」
「だから来客って何なんですか」
「ですよね。すみません」
「謝らないでください」
「すみません」
「……もういいです」
颯は剣を鞘に収めた。
収めた。
魔王の目の前で。
正気じゃないと思った。でもこの男に剣を向けていること自体が、もっと正気じゃない気がした。
「4年間って……あなた、4年間ここで何してたんですか」
「業務です」
「業務」
「朝礼、回覧板、月次報告書の確認、有給の申請処理―」
「魔王の業務じゃないですよね、それ」
田中が、少し黙った。
赤い目が、伏せられた。
「……そうなんです」
声が、小さくなった。
身長2m超。角。赤い目。黒い鎧。
その全部を背負ったまま、この男は、しぼむように小さくなった。
「俺、魔王じゃないんです」
玉座の間に、その声だけが落ちた。
「本当は―」
その瞬間、天井が光った。




