第3話 無邪気と本能
メルージェの部屋の隣のドアを開けると、真ん中に小さめの噴水がある専用のお風呂があった。
「じゃあ脱いで!」
何も考えてはなく、汚れた動物でも洗うかのような雰囲気だった。メルージェはドレスを脱ぐと中の肌着だけになると入っていった。
「マジかよ…!
ちょ、待て! あんたはそこで何してんだ!?」
目の前で繰り広げられる少女の無防備な行動に、悲鳴に近い声を上げた。ドレスを脱ぎ捨て肌着一枚になり、座っている少女。
「主が…俺なんかの背中を流すってのか!? 頭でも打ったのか!? 正気か!?」
慌てふためき、後ずさるが背後はすぐに壁だ。逃げ場はない。顔はさっきよりもさらに赤くなり、
(どう考えてもおかしい。これは何かの間違いだ。)
と心の中で何度も呟いていた。
「今は狐さんだと思うから大丈夫よ!
この石鹸で洗うとスベスベになるの!
貴方の尻尾はフワフワになるかもしれないわ!」
楽しそうに話すメルージェの言葉一切ヒューリの耳入って来なかった。
「まだ?脱がないなら脱がすわよ?」
頬をプクっと膨らませながら急かすメルージェに、ヒューリは観念した。
どうやらこの主は想像の斜め上をいくタイプらしい…
素早くボロ服を脱ぎすてると、逞しい上半身には無数の傷痕が残されていた。
メルージェに背を向けて座ると、痛々しい大きな傷があった。
「これ酷い…まだ痛い?」
無意識に指でなぞる。
「…ッ!」
背後から伸びてきた指が、背骨に沿って走る一番新しい傷跡をなぞった瞬間、ビクリと肩が跳ねた。反射的に身を強張らせ、息を呑む。触れられた箇所から、忘れたはずの痛みと屈辱が蘇るようだ。
「…やめろ。」
絞り出した声は低く、掠れていた。怒りというよりは、懇願に近い響き。
「ただの傷だ。もう痛みもねぇよ。それより、早くしろって言ったのはそっちだろ。」
顔を背け、感情を殺した平坦な声で続ける。しかし、わずかに震える肩は、彼の内心の動揺を物語っていた。誰にも、特に同情されるなど最も望んでいない。奴隷としての過去は、嫌いだけど自分だけのものだ。
「ごめんなさい…」
無言で大量の泡を頭から浴びせると、頭から腕も背中も胸へ洗い始める。
「……。」
さっきの重い空気は吹き飛んで、ヒューリは真っ白になっていた。
メルージェは何か間違っているの?と首を傾けながら「大丈夫だよ。全部洗うから!」と言いながら頭から背中、腕と洗っていき、ヒューリの敏感なものに手を伸ばす。
「は……ッ!?」
背筋を駆け上がったのは、先ほどの傷をなぞられた時とは質の違う、もっと直接的で危険な衝撃だった。メルージェの小さな手が、明らかに男の急所へと迷いなく伸びてくる。
「なっ、おま…何考えてんだ馬鹿! 触んな!!」
渾身の力でその手首を掴んで引き剥がす。振り返りざまに睨みつけたメルージェは、やはり何も分かっていないという顔で小首を傾げている。それが余計にヒューリを苛立たせた。
「小さい頃弟と洗いっこしてたから…」
「洗いっこぉ!? ふざけんのも大概にしろ! 弟と俺を一緒にするんじゃねえ! あんたは女だろうが! 男の体がどういうモンか、知らねぇわけじゃねぇだろう!」
金切り声に近い怒鳴り声が浴室に響く。心拍数は限界を突破し、呼吸は荒くなる。顔は羞恥と怒りと混乱でぐちゃぐちゃだ。自分のものが反応しかけているのを、彼は自分自身が一番よく分かっていた。
「遠慮しなくてもいいのに…」
「遠慮じゃねぇ! 本能だ、本能!」
ぷくっと膨れる頬を見て、一瞬だけ言葉を失う。本気で言っているのかこの少女は。そんな呑気な反応に、怒る気力さえ削がれそうだ。彼は大きく深呼吸をして、どうにか平静を装おうと努めた。
「いいか、よく聞け。あんたが今やったことは、普通に考えりゃあ「お誘い」と同じなんだよ。相手が望んでなかろうがな。分かるか?」
諭すように、できるだけ冷静に言う。これ以上この無垢な爆弾に振り回されるのはごめんだ。だが、まだ火照った体と早鐘を打つ心臓は落ち着きを取り戻してはくれない。
「とにかく、俺は自分で洗う。あんたはもう出てろ。主だからって、何でも許されるわけじゃねえんだぞ。」
「ごめんなさい…そうね。無神経だった…」
メルージェは悲しそうな顔をしながらお風呂場から出て行った。
(…なんなんだ、一体…)
一人残された浴室で、ハァ、と大きなため息が漏れる。全身の力が抜け、その場に座り込みそうになるのを堪えた。心臓がまだうるさい。あの手の温もり、匂い、そして寂しげな最後の顔。すべてが彼の頭の中をぐるぐると巡っていた。
つづく。




