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代書屋

作者: 雉白書屋

 むかしむかし、まだ識字率が低かった頃。『代書屋』という商売があった。

 契約書から恋文、果ては遺書まで、頼まれればなんでも書き上げる。しかもこの町の代書屋は腕がよく、彼の手にかかれば人の心を動かす名文になると評判だった。

 ある日、そんな代書屋のもとを仁平という男が訪ねてきた。ほつれた羽織に、伸び放題の無精ひげ。疲れと焦りを塗り固めたような顔つきだが、瞳だけは妙な希望にぎらついていた。そして、その依頼というのが――。


「え、人生の脚本?」


「そう! あんたにおれの人生の脚本を書いてほしいのさ。文字通り、あんたの手でおれを最高の人生に導いてくれ!」


 仁平は胸を張り、両腕を広げて言った。


「ああ、脚本っていっても、そんな分厚くなくていいんだ。金もねえしな。へへへ」


「はあ、しかしまた妙な注文だね。目標にするってことかい? 書かれた通りに生きると」


「いやあ、あんたが書いてくれりゃ、自然とその通りになる気がするんだよ! 何せ評判だからね。ほら、この前だって、あのブ男を宿屋の看板娘と祝言挙げさせたんだろう?」


「まあねえ。でも、私はほんの少し言い回しを整えただけさ。あの男の真っ直ぐな気持ちが相手に届いたんだろうよ」


 代書屋は頭を掻きながら言った。


「またまたご謙遜を。さあ先生、書いておくんなせえな!」


「そう言われてもねえ……」


「そこをなんとか! どうにもこうにもうまくいかねえ。女房には逃げられるし、商いは潰れるし、気がつきゃ長屋の隅で燻ってるだけの情けない人生でさあ。もう嫌なんだよ」


 仁平は手を合わせ、ぺこぺこと頭を下げた。泣き出しそうな声に、代書屋は小さくため息をついた。


「わかった、わかったよ。やってみよう。で、どんな人生が望みなんだ?」


「そりゃあもう、金と女に困らねえ人生を!」


「やれやれ、そんなに目をぎらつかせて……。そうだねえ、じゃあこんな具合に」


 代書屋は筆を取り、硯の墨を含ませると、さらさらと紙の上を走らせた。


「えー、『ある日、仁平は落馬しそうな若い娘を間一髪で受け止めた。その娘は、さる大名の大切な一人娘だった。仁平は礼として屋敷に招かれ――』」


「ほうほう! それでそれで!」


 仁平は鼻先が紙に触れそうなほど身を乗り出した。


「そんな近くで鼻息荒くされちゃ書けないよ。まったくもう……」


「へへ、すまねえ、すまねえ。つい興奮しちまってよ。ささ、続きをどうぞ」


「はいよ……『たんまり礼金をもらい、その金を元手に商いを始めると、これが見事に大当たり。みるみるうちに長者となった』」


「おお! ……あのー、へへへ、その娘さんと祝言なんて挙げたり……?」


「まあ、そうなりたいなら、あとで書くよ」


「それからよ、その商いってのは具体的になんだ? 大名の名は? 礼金はどれくらいもらったんだ? 娘はどんだけの別嬪なんだ? なあ!」


「落ち着きなよ。こういうのはね、細かく書きすぎると、かえってうまくいかない気がするんだよ」


「そ、そういうもんなのか……」


「それとも、その娘の顔を細かく書いてみるかい? 自分の好みを正確に言葉にできるならね。どんな娘が現れるか楽しみだね」


「わ、わかったよ。へへへ、邪魔して悪かった! 続きをよろしく頼んます!」


「はいはい、それで『女たちは彼に群がり、酒池肉林の暮らしを楽しんだ』」


「うほう!」


「『金が足りなくなると、不思議とどこからともなく舞い込み、暮らしには一片の不安もなかった』」


「いよっしゃあ!」


「『だが、強い光は濃い影を作り出す。時に、妬みや噂を嗅ぎつけ、金を奪おうと考える輩が現れた』」


「おいおい、やべえぞ……」


「『月が隠れた不吉な夜のこと。仁平の前に男たちが立ちふさがった。手にした刀が闇の中で鈍く光る……』」


「どうすんだよ、おい……。おれ、剣術どころか喧嘩もしたことねえぞ……」


「『仁平は背後から一突きされた』」


「うぼあ!」


「『……と思われたが、仁平はさっと身を翻し、男の手首に鋭い手刀を叩き込んだ。そして落ちた刀を素早く拾い上げ、三人だろうが五人だろうが、次々と切り伏せた。彼には眠れる剣の才があったのだ』」


「これが、おれの力……」


「『その様子を、偶然陰から見ていたさる大名の使いが、彼の腕前を見込んで、近頃巷を震わせる人斬り退治を依頼して――』」


「いいねえ! そういうのもっとちょうだい、もっと!」


 女の話を書けば、仁平は「ぐふふ」と体をくねらせ、金のくだりでは鼻と頬をぷっくりと膨らませた。武勇の話になれば、そこに敵がいるかのように「ちぇい!」「やあ!」と声を張り上げ、刀を持ったつもりで腕を振る始末。

 そんな仁平の熱気にあてられ、代書屋もつい夢中になって筆を走らせた。墨の香りが濃く立ち込め、書き上げた紙束が机の上に小山のように積もっていく。

 ついにはへとへとになった代書屋は、最後に『満ち足りた仁平は、何ひとつ悔いなくこの世を去るのだった』と書きつけ、ようやく筆を置いて深く息を吐いた。


「いやあ、先生、ありがとう! ありがとなあ!」


「ああ……思わぬ重労働だったよ」


 代書屋は腰を叩きながら背筋を伸ばした。仁平は天井を仰ぎ、涎を垂らしそうなほど、だらしなく頬を緩ませた。


「まさかおれに、こんな最高の人生が待ってるなんてなあ……」


「いや、まあ、それはあんた次第だろうけどね」


「いやあ、先生の書いたもんに間違いはねえよ。おれはもう運命を掴んだんだ!」


「そうかい。ま、お幸せにね」


「ああ、それでよ、嫁は六人がいいな。それから道場は持たないとさあ。書き忘れちゃ困るよ、先生」


「まったくもう……。えー、『仁平はこの脚本を受け取ると、満足して店を出ていった』。ほらよ、この通りに行動しな!」


「へへへ、はい! じゃあな、先生!」


「はいよ……あ、お代をもらい損ねた。それも書いときゃよかったかな」


 代書屋はそう呟き、苦笑した。

 その直後だった。外から大きな音が響き、続いてばたばたと駆ける足音とざわめきが押し寄せてきた。胸騒ぎを覚えた代書屋は、思わず外に飛び出した。

 往来では馬がいななき、手綱を押さえ込もうとする者たちの怒号が飛び交っていた。その周囲には人垣ができ、近づくにつれて、人々の会話が自然と耳に入ってきた。


「なんか、紙を見ながらニタニタ歩いてたらしいよ」

「馬の前にふらっと出ちまうとはなあ」

「こりゃ、もう駄目だな」

「でも……」


 人垣の隙間からそっと覗き込むと、そこには脚本をしっかり抱きしめたまま息絶えた仁平の姿があった。


「あ、いっけねえ。『満足した』なんて書いたばっかりに、この世を去っちまったのか。でも……」


 仁平の頬は緩みきり、それはそれは満ち足りた笑みが浮かんでいたのだった。

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