ファッテン伯
ファッテン伯領の東隣のオルドナ伯領に潜伏している皇帝の間者から情報がもたらされたのは、帝国歴220年3月のことだった。オルドナ伯領はファッテン伯領とともに北海に面している諸侯領である。
情報によると、ファッテン伯領とオルドナ伯領の海域に海賊が横行しており、貿易船が被害に遭っているという。
その後、その間者からの連絡が途絶えたために監察使の派遣となった。ウィンの任務は現地の実態を調査することであり、解決までは求められていない。その証拠に、ウィンに付けられた傭兵はわずか10人。この人数ではウィンの身辺警護程度しかできない。
調査対象は2つの伯爵領に及ぶが、間者は不確かな推測としながらも海賊はファッテン伯領の海域から来ているという私見を添えていた。そこでファッテン伯領から調査することにした。ここで手掛かりを得ることができれば任務終了である。
「実に効率的だね」と言ってウィンはわははと笑った。
この頭の悪そうな笑い声を聞くと、ベルウェンは頭が痛くなってくる。10年前の自分なら、ウィンの頭を殴りつけていただろう。「俺も丸くなったもんだ」と、陶冶された我が身に感心した。
「ウィン様は楽をしたいだけでしょう」
ウィン付きの奴隷だというアデンが口を挟んだ。
「コイツも訳が分からねぇ」。ベルウェンは親指と中指で左右のこめかみを押さえた。しばらく黙っていたかと思うと、こうして突然口を挟んできたりする。頭がおかしいとしか思えないのだが、言うことはまともで話は通じる。ベルウェンは面倒になって考えるのをやめた。
ファッテン伯の城館は、カルトメイメンという街にある。城館は、ご多分に漏れず円形の城壁に囲まれた街のほぼ中央にあった。敵の攻撃を受けた際、最も安全な場所が円の中心であることは言うまでもない。城壁の近くでは、投石機による攻撃を受けてしまうかもしれない。となれば城壁から最も遠い場所、つまり中心に城館を設けることになる。個性を発揮する余地はない。
ベルウェンは職業柄、初めて訪れた街に入ると門の位置や城壁の高さなどを監察してしまう。いつ、守るあるいは攻撃する立場になるか分からないのだ。
監察使は、行く先々で歓待される。監察使は皇帝に直接報告する立場にあるので、蔑ろにして妙なことを告げ口されてはたまらないからだ。ファッテン伯ヴァル・テルテトール・ガミロテスもまた、ウィン一行を大いに歓迎した。祝宴を開き、傭兵たちまでご相伴にあずかった。
「まあまあ一杯」など言いながら、伯爵自らウィンの杯にぶどう酒を注いだ。額から後頭部にかけてツルリとはげ上がった頭を光らせながら、何やらウィンに話しかけている。
祝宴の席で、諸侯が自ら酒をつぐなど通常ではあり得ない。それは給仕、特に見目の良い若い女の仕事である。
ウィンは「いやはや参ったな」などと言いながら、勧められた酒をグイグイ飲んでいる。
ベルウェンには、十代後半とおぼしき少女が酌をした。産地も銘柄も分からないが、いい酒であることは分かる。他の傭兵にもこの酒を勧めているようだ。海が近いので海産物がふんだんに使われているのはいいとして、牛肉料理なども大量に並んでいる。貴族の祝宴とやらに詳しいわけではないが、かなりの金を注ぎ込んでいるように見える。
室内を見渡すと、調度品もかなり豪華だ。この伯爵様は金回りがいいらしい。
ベルウェンが室内をそれとなく監察していると、「貴君はなかなかの手練れのようだな」と話しかけられた。横に、30歳前後の貴族が立っていた。
「ヴァル・エルエメン・ポポロフィルという。当家が直面している状況をぜひ帝都にお知らせいただきたい」
「あんたは?」
「ファッテン伯の家臣で、主に軍事面を担当している」
「当家の状況とは?」
「ファッテン伯領の海には多数の島がある。『百島海』という異称があるくらいだ。実際に100も島があるわけではないが。昔からこの島々を牛耳っている連中がいて、手を焼いているのだ」
「それが海賊ってやつかい」
「そこまでは分からない。海賊と手を結んでいるだけなのか、彼らこそが海賊なのか……。オルドナ伯にも迷惑をかけているとしたら心苦しいばかりだ。むろん、伯爵直属の船を増やして警備を強化するゆえ、心配は無用だ」
「ふん、なるほどな」と言いつつ、ベルウェンはエルエメンを監察した。この、聞かれていないことまでベラベラと喋るのはなぜか。さらに不思議なのは、なぜベルウェンに語るのか。こういう話は監察使にすべきものだ。
後者の謎はすぐに解けた。監察使殿を見ると、既にベロベロに酔っぱらっていた。左右に美女を侍らせて、わははという頭の悪そうな笑い声を上げている。
誰だ、こんなのを監察使にしたやつは。




