第7話 聖女の祈りと旅の仲間【前編】 ― The Fellowship of the Praying Holy Maiden ― エピソード②「王家の血、聖女の魂」
――その前日のこと。
夜の静けさが、辺境の古びた屋敷を包み込み、石造りの廊下を渡る冷たい風が、燭台の灯火を揺らしていた。
辺境伯邸の書斎。
厚い木の扉が閉ざされ、暖炉の火がほのかに赤い光を灯し、古びた木の家具が温かさを取り戻している。
その温もりの中で、ソファに浅く腰掛けたセリアは、じっと両手を膝の上で握りしめ、不安そうに俯いていた。
「もうすぐ、ここを離れなければいけないんだ……」
小さく呟いた声は、暖炉の薪がはぜる音にかき消された。
幼い頃から慣れ親しんだこの屋敷。
広大な野原でユリシア姉様と駆け回り、花を摘んで遊んだ記憶。
その全てを置いてけぼりに、聖都へ向かわなければならない。
(私が……聖女候補だなんて、本当に信じられない)
突然の神託が下り、辺境の田舎貴族の娘である自分が選ばれたのはひと月前。
誰よりも驚いたのは自分自身だった。
「出立の前に話しておくべきことがある」
伯父の辺境伯から、そう呼び出され、今ここにいる。
辺境伯 レオニダス・ヴェルダイン。
――辺境の荒れ地を開拓し、魔獣が跋扈する森を切り開き、エルフ、ドワーフ、獣人などの異種族にも一目置かれる男。
戦となれば先陣を駆け抜け、怒号と共に敵陣を木端微塵にする堂々たる体躯。
その体には、数多の古傷が刻まれており、それはこの地を守り続けてきた歴史そのものと言えよう。
大陸の約三分の一を占める大国であり、最も長い歴史を持つ国でもある、セレスティア神聖国。
そのさらに三分の一が“辺境”とされ、その広大な地を治めるヴェルダイン家は、代々辺境伯としてこの地を守り続けてきた。
しかし、貴族の中にあって最大の領土を持つ一方で、裕福ではない。
痩せた土地と厳しい自然環境、魔獣の脅威が日常であり、農作物の収穫は少なく、魔獣討伐のための装備も決して十分ではなかった。
それでも、レオニダスは自ら剣を振るい、領民と共に土地を耕し、異種族との共存を模索し続けた。
その努力が実を結び、近年ようやく、異種族との交易も始まり、辺境伯領の新たな収入源となりつつある。
また、神聖国の聖王ファリオン陛下とは、王立学院の学友でもあり、レオニダスは聖王を支える貴族の重鎮として、盟友とも言える間柄だ。
妻を早くに亡くし、子は二人。
また、妹夫婦が横死したため、残された幼いセリアを引き取り、二人の実子と分け隔てなく育てている。
折しも、嫡子のランスロットは聖堂騎士団の副団長として聖都にあり、長女のユリシアは、セリアの護衛兼学友として、共に聖都へ出立することとなっていた。
レオニダスは、重厚な木の椅子に腰掛け、真剣な表情でセリアを見つめている。
普段の厳格さはそのままだが、どこか憂いを含んだ面持ちだった。
その傍らには、銀髪をきっちりと結い上げたユリシアが控え、凛とした姿勢で立っている。
――レオニダスの重く低い声が、書斎に響いた。
「セリアよ、お前が聖女候補に選ばれた理由はわかっているな?」
「……はい。神託が下りたから……ですよね」
セリアの声は震えていたが、どこか納得しているようでもあった。
小さな頃から、不思議と神聖魔法を自然に使えていた。
誰かに教わったわけでもなく、神聖語の祈りの綴りが頭に浮かび、草花を癒したり、傷を癒やしたりといった力が、当たり前に備わっていた。
その力は、本来ならば、聖職者が幾星霜もの修行の末、ようやく得られる力であることも知らずに。
――そして、ひと月前。
セリアを聖女候補とする神託を知らせる使者が、聖都より遣わされた。
その高位の聖職者は、あまりにも自然に高度な神聖魔法を発現するセリアを見て、「間違いなく聖女の再臨」と告げたのだった。
それでも、セリアは信じられなかった。
「……確かに、お前の力は特別だ。しかし、それだけではない」
辺境伯はゆっくりと息を吐き、暖炉の揺れる炎を見つめた。
その横顔には、長い年月と共に刻まれた皺が深く影を落とし、瞳の奥には――
滅多に見せぬ“覚悟”の光が宿っていた。
「セリア……お前には、もう一つの“運命”がある」
その声は、部屋の空気を震わせるほど低く、重かった。
まるで一つの石が静かに水面を叩くように――
その響きは、確実にセリアの胸の奥へ沈んでいく。
そして、次の瞬間。
――巨大な岩が、容赦なく水面を砕いた。
「お前は、“聖王家の血”を引いている」
世界が、音もなく止まった。
鼓膜を打つはずの音は消え失せ、
目に映る光さえ、遠く霞んでいく。
辺境伯の言葉は、
重く冷たい岩となって、心の湖に落ちたのだ。
波紋は静かに広がり――
けれど、決して消えることなく、
セリアの心の底を、深く深く沈めていく。
「……ぇ……?」
セリアの唇が、かすかに震えた。
辺境伯は静かに、語り始めた。
「かつて王位継承を巡り、聖王家は揺らいだ。その動乱の裏で、第一王子が都を去った――
それがお前の父、エルネスト・ルクレティア……本当の名は――」
一拍置いて、辺境伯は告げる。
「アルシオン・エリディウス・セレスティア。
”エリディウス”は聖王家の男子が代々継ぐ、“王の名”だ」
セリアの視界がわずかに揺れる。
「お父様が……?」
穏やかな笑顔を浮かべていた父の姿。
その記憶が、まるで別の誰かのものだったかのように遠く感じられる。
「そしてお前の真の名は――」
辺境伯の声が静かに響く。
「セリア・アストレイア・セレスティア」
その名が告げられたとき、セリアの世界が、音もなく塗り替えられていくのを感じた。
“アストレイア”――
聖王家の女性だけに与えられる、原初の聖女の名。
(それが……私に?)
胸の奥が、ひどくざわついていた。
答えのない問いが、心の深いところからせり上がってくる。
(私は……誰なの?)
セリアはそっと自分の胸に手を当てた。
暖かいはずの炎の前で、指先がわずかに震えていることに気づく。
“ただのセリア”として過ごしてきた日々が、音もなく遠ざかっていく――。
辺境伯は視線を戻し、ゆっくりと頷いた。
「お前の父、アルシオンは――現在の聖王ファリオン陛下の兄であり、私の旧き友だ。
本来なら王位を継ぐはずだったが……ある理由からその座を退き、この地へ身を隠した」
辺境伯は、少しだけ視線を落とす。
「――その理由は、今は言えぬ。だが、陛下もすべてをご存知だ」
「彼は王としてではなく、一人の男として、誇りを胸に静かに生きた。
そして……私の妹と結ばれ、お前が生まれた」
セリアの呼吸が少し乱れる。
(お父様が……王位を捨ててまで選んだものが……私?)
「お前の母は、気高く、そして誰よりも優しい女性だった」
「だが……旅の途中、不慮の事故によって二人は帰らぬ人となった」
炎が揺れた。
「だから私は誓った。
あの二人に代わり、お前を――この命に代えても、守り抜くと」
静かに――だが、揺るぎない声で。
その言葉の端々に、辺境伯の決意と愛情が滲んでいた。
セリアは何も言えなかった。
ただ、静かに、胸の奥で何かが音を立てて目覚めていくのを感じていた。
(聖王家の血……私が……?)
思考はまとまらない。
心が置き去りにされる。
自分の中にあった“当たり前”が、ゆっくりと崩れていく音がした。
――王の血を継ぐ者。
それは、ただの言葉じゃない。
“運命”という名の重みを、一瞬で背負わされたような感覚。
(私には、そんな資格……あるの……?)
「伯父様……」
かすれた声で言葉を紡ぐ。
「そんなこと……いきなり言われても……私は聖女にすら…まだ……」
言葉にならなかった。
ただ、胸の奥がざわついている。
まだ涙はこぼれていない。けれど、代わりにこみ上げてきたのは――
“怖さ”だった。
「私は……“ただのセリア”でいたかった……」
いつの間にか、一筋の涙とともに、小さな声が漏れ出ていた。
それが、心からの本音だった。
辺境伯は、その言葉を否定しなかった。
ただ、静かにセリアの肩にそっと手を置いた。
「そう思うのも、無理はない。お前は……何も悪くない」
やわらかく、それでいて揺るぎない声だった。
「だが、セリア。お前がどう在るかは、お前が決めてよいのだ。
血がすべてではない。だが、その血をどう意味づけるかは、お前自身の生き方次第だ」
セリアは小さく頷いた。
わかったわけじゃない。納得できたわけでもない。
でも、心のどこかで――
この瞬間を、“避けては通れない分かれ道”だと感じていた。
まだ覚悟なんて、とても持てそうになかった。
(私なんかに、そんな役目が務まるわけない。誰か他の、もっと立派な人が――)
そんなふうに思ってしまう自分が、いやだった。でも……怖いものは怖かった。
けれど、それでも――少しだけ、前を向かなきゃいけないと思った。
胸の奥に、まだ正体のわからない何かが、静かに芽吹いていた。
辺境伯はセリアを見つめながら頷いた。
そして、少し厳しい表情になり、言葉を続けた。
「だが、セリア。この事実を自ら公にしてはならない。お前は、あくまでもルクレティア家の一員――私の姪として、聖女候補として生きていくのだ」
「これは、私たちの家と、王家のごく一部の者にしか知られていない、絶対の秘事――」
「覚えておきなさい。お前の中には、聖王家の血が流れている。誇れとは言わぬ。
だが、背を向けてはならぬ。
それは、お前の両親が命を賭して遺した“未来”なのだから」
セリアは揺れる炎を、ただただその瞳に映し、俯いていた。
するとユリシアが、静かに膝をつき、セリアの手を取りながら言った。
「セリア……いいえ、セリア様。
……私も正直、驚きましたし、動揺もしました。
でも、それでこそ、私の忠誠をより強くする理由となりました」
ユリシアは瞳を輝かせ、静かに微笑む。
「セリア様、王家の血筋がどうであれ……私は、あなた自身を守りたいんです」
「これからも、私は“聖女”セリア様の剣であり、盾であり続けます――それは、”姉”としてあなたを守っていた頃から変わりません」
そう言いながらも、ユリシアの瞳にはどこか寂しげな色が滲んでいた。
これまでの“セリア”から、“セリア様”へ。
呼び方が変わっただけで、こんなにも遠く感じるなんて――。
セリアは思わず、こぼれるように問いかけた。
「どうして……今まで通りに接してくれないの……?」
その声に、ユリシアは一瞬だけ目を伏せ――
そして、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……本当は、私も“セリア”と呼びたいのです」
「でも……今は、騎士としての誓いを大切にしなければならない」
ユリシアは少しだけ目を伏せ、けれどすぐに真っ直ぐな瞳でセリアを見つめた。
「――私が“セリアの姉”である以上に、”セリア様の騎士”となる覚悟を選んだのですから」
その言葉の奥には、
“家族だからこそ、守り抜きたい”というユリシアの静かな決意が滲んでいた。
「だから、心配しないでください。呼び方が変わっても――私は、ずっと“セリア”の味方です」
ユリシアは、そっとセリアの頭に手を置き、優しく撫でる。
「ほら、涙は似合いませんよ。セリア様――いえ、“セリア”」
その一言に、セリアの胸がじんわりと温かくなった。
辺境伯は力強く頷き、ユリシアに視線を向けた。
「ユリシア、セリアが聖都へ行けば、何者かがこの事実に気づくかもしれぬ。
そうなれば、それを利用しようとする者もいるだろう。
ランスロットも聖都にいる。二人で共に、セリアを守ってやってくれ」
ユリシアはきっぱりと頷いた。
「心得ております。兄と共に、セリア様を、命を賭してお守りいたします」
セリアは、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
ただ、関係が変わってしまったことが悲しいだけじゃなかった。
守られるばかりではなく、自ら強く在りたい――その思いが胸を突き上げる。
「伯父様、ユリシア姉様……私、頑張ります。
守られるだけではなく、自分の足で歩けるように。
聖都で、ちゃんと聖女としての務めを果たせるよう、強くなります」
セリアの声には、わずかに震えが残っていたが、確かな決意が滲んでいた。
その言葉に、辺境伯とユリシアは共に微笑み、セリアを見守るように頷いた。
「セリアよ……お前がどんな道を選んでも、私はお前を誇りに思う。
たとえ王家の血を引こうとも、私にとってお前はかけがえのない娘だ」
「ありがとうございます、伯父様。
私、必ず強くなります。誰かに守られるだけじゃなく、私自身が誰かを守れるように――」
その言葉に、辺境伯もユリシアも、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。
暖炉の火が、三人の誓いを温かく包み込むように揺れている。
その火が、セリアの中に宿った小さな覚悟を、優しく包み込むように映し出していた。
ユリシアは、優しくセリアの手を握り直した。
「セリア様、共に歩んで参りましょう。
星詠みの日を迎えるその時まで、決してお一人にはさせません。
私は、どこまでも傍におります。
騎士としても、友としても、家族としても、私の“セリア”が進む道を共に歩んでいきます」
その言葉に、心がじんわりと温かくなり、ようやく微笑むことができた。
セリアは、小さく頷きながら、涙をぬぐって微笑んだ。
胸の奥で、決して燃え尽きることのない意志の灯火が灯った。
その灯火は、これからの険しい道のりを照らしてくれるに違いなかった。
そして、翌朝。
小さな決意を胸に、少女は旅立つ。
彼女の歩みはまだ幼く、心細さも残るけれど――
それでもその背中には、“祈り”と“誓い”が確かに宿っていた。
――この瞬間から、彼女の“物語”が始まった。
それは、祈りと運命に彩られた、決して平坦ではない聖女への道。
次回。
【第7話 聖女の祈りと旅の仲間【前編】 ― The Fellowship of the Praying Holy Maiden ―】
【エピソード③「七英雄譚 序歌 ~銀瞳の詩亭にて~」】
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