第7話 聖女の祈りと旅の仲間【前編】 ― The Fellowship of the Praying Holy Maiden ― エピソード①「ひとひらの花、彼方の“祈り”」
――神聖歴998年
異世界 “アルフェリア”
セレスティア神聖国 辺境伯領
辺境伯邸近郊の聖堂
何処からか風に乗って、一輪の花びらが、静寂の聖堂へと舞い込んできた。
それは、朝の光に照らされながら、祭壇の前にひざまずく白い神官衣の少女の足元に、そっと落ちた。
少女は小さく目を見開き、足元の花びらを拾い上げる。
「……何だか、暖かい……」
花びらをそっと胸元に寄せ、少女は再び目を閉じ、静かに祈りを続けた。
朝の光が、古びた聖堂のステンドグラスを通して柔らかく差し込んでいる。
赤や青、緑の彩色が床に映り込み、まるで天上の世界を映すかのように揺れていた。
静寂が支配する空間には、かすかな風が木造の柱を軋ませる音が響き、焚かれた香のほのかな匂いが鼻をくすぐる。
その穏やかな香りは、長きにわたりこの地を守ってきた祈りの証そのものだった。
聖堂の奥、中央に佇むのは、三柱の神を象った像。
威厳と平衡と慈愛が交差し、崇高な空気を醸し出している。
それぞれの像が纏う空気は異なりながらも、調和が感じられるのは、三柱の神が織り成す“理”がこの地に根付いているからだろう。
秩序と創造の象徴――創造神サンクティス
中央に立つのは、至高なる創造神サンクティス像。
その厳格な顔立ちと筋骨たくましい体は威厳に満ち、右手に掲げた剣には天を貫く意志が、左手の盾には地を護る覚悟が宿っている。
剣と盾には、それぞれ天と地を象徴する精緻な意匠が彫り込まれ、サンクティスの像は、見る者に“秩序”と“創造”の偉大さを強く意識させた。
その眼差しは遥か彼方を見据え、未来を照らし出すかのように厳かに祈りを受け入れている。
天井のステンドグラスから降り注ぐ光が、サンクティスをまるで神々しい後光のように包み込み、この世界を支える“創造の意志”が、空間全体に満ちていた。
かすかに風が揺らぎ、剣の刃が光を反射し、一瞬だけ鋭い煌めきを放つ。
平衡と公正の象徴――裁定神リブラティス
左側に立つのは、中立なる裁定神リブラティス像。
その中性的な容姿は、男とも女とも取れない曖昧さを持ち、左手には真理の書を、右手には公正の天秤を掲げている。
書物には、古代の言葉が刻まれ、知恵と真実を象徴している。
天秤が微かに揺れているのは、この場に集う信仰心の重さを測っているかのようだった。
その固く閉じられた瞳は、むしろ世界の真理を見透かすかのようで、その前に立つ者は、自らの魂を曝け出してしまいそうな感覚に囚われるだろう。
どこからか微かな鐘の音が響き、リブラティス像の厳粛さと重なり、魂の重さを測る審判の時を告げているようだった。
ほんのわずかな金属音が、天秤のわずかな揺れに合わせて響き、その一音が、空間全体に静かに響いていた。
慈愛と加護の象徴――女神アルフェリス
そして、右側には、慈愛と加護の女神アルフェリス像が優しく佇んでいる。
どこまでもやさしい微笑みを浮かべるその表情には、見る者の心をそっと包み込み、全てを許し受け入れてくれる温かさがあった。
両手を広げ、慈しむように差し出された掌は、触れただけで誰もが救われ、癒される希望を体現している。
その足元の祭壇には、辺境伯領特有の野花が供えられ、風に揺れる花びらが、アルフェリスの慈悲を象徴するかのように踊っている。
柔らかな光が、アルフェリスの手元を優しく照らし、その輝きは、まるで命そのものを祝福しているかのようだった。
ふと、小鳥の羽ばたきが音を立て、その瞬間、光が優しく揺れた。
聖堂に据えられた、古びた素朴な木のベンチには、祈りを捧げた人々の跡が薄っすらと残っていた。
それは、過去にこの地で繰り返されてきた祈りの証であり、信仰の連なりが、静かに息づいている証左であった。
そこにいるだけで、心の奥深くが清められていくような感覚が漂う。
それは、祈りを通じて神々と繋がる、この地ならではの“安らぎ”と言えるだろう。
神々の加護が、この地とそこに住まう人々を、永遠に守護し続けている——
そんな確信が、祈りの中に溶け込むように、穏やかに漂っていた。
この辺境の地には、大都市のような華やかさはない。
だが、その代わりに人々の信仰が深く根付いており、この聖堂も、村人たちの手で修繕され、守り続けられてきた場所だ。
朝露が滴り落ちる音が、ひんやりとした石の床に吸い込まれるたび、セリアの胸の奥にある不安を和らげていくように感じられる。
その中心で、白く簡素な法衣をまとった金髪の少女がひざまずき、静かに祈りを捧げている。
セリア・ルクレティア。
まだ聖女見習いとはいえ、その透き通るような祈りの声は、どこか神聖な響きが宿っている。
聖堂の奥、中央に佇む三柱の神像が、淡い光に照らされている。
天窓から差し込む光が、サンクティスの剣を白く輝かせ、リブラティスの天秤に揺らめく影を落とし、アルフェリスの慈しむ手を穏やかに包み込んでいた。
かすかに響く風の音が、祈りのささやきのように柱を軋ませる。
その静けさが、どこか切なく、彼女の胸の奥を締め付けた。
「三柱の神よ……どうか、この地をお守りください。ここで生きる人々が、幸せでいられますように……」
優しい祈りの声が、石壁に反響し、そっと響き渡った。
セリアの金色の髪が、朝日を浴びて柔らかに輝いている。
その背中に、どこか頼りなさを感じさせるものがあった。
祈りを終えたセリアは、ふっと息をつき、そっと目を開けた。
ステンドグラス越しの青空が、まるでこの地から離れようとする自分を見送っているように思えた。
昨日、伯父――辺境伯から告げられた“真実”が、今も胸に棘のように刺さっている。
「セリア……お前は、“聖王家の血”を引いている」
その言葉が、幾度となく脳裏をよぎる。
生まれてからずっと、辺境伯領で“ただのセリア”として過ごしてきた――そんな日々。
両親を亡くし、辺境伯家に引き取られてからは、ユリシア姉様とは姉妹のように育ち、この地で穏やかに生きてきた。
ひと月前、“聖女”候補に選ばれたばかりだった。
千年に一度、選ばれるという“聖女”。
この頼りない自分に、その資格があるのか――何度も自らに問い続けてきた。
そしてようやく、ひと月をかけて、
そのあまりに大きな重責を、自分なりに受け入れる覚悟を固めたつもりだった。
けれど、“聖王家の血を引く者”と知ったあの瞬間から――
自分が“何者なのか”、本当にわからなくなってしまった。
「……私に、聖王家の血が……」
小さな呟きが、胸の奥で鈍く響く。
重く、冷たい石が心臓にのしかかるような、そんな息苦しさ。
“守られるばかり”だった自分が、今度は“国を守る者”になる――。
そんな想像すらできない現実が、いまだ自分のものとして実感できない。
「……でも、私……できるのかな……。」
聖女という重責だけでも、あまりに大きすぎるのに。
そのうえ、“王家の責務”までも背負えるのか――
頼りない自分に、そんなことが本当にできるのか。
ぼんやりとした不安が胸の中を巡り、
聖堂のひんやりとした空気が、その迷いを一層冷たく包み込んでいた。
ふと、背後からそっと歩く足音が響いた。
「聖女様、セリア様」
凛としながらも、どこか優しげな声が耳に届く。
振り向くと、銀髪をきっちりと結い、騎士服に身を包んだユリシアが立っていた。
その眼差しは、冷たい鋼のように澄んでいながらも、微かに柔らかな光を宿している。
声をかけてくれた彼女に、セリアは微笑んで言った。
「ユリシア姉様、私はまだ見習いよ。聖女なんかじゃないわ」
「存じております。
ですが、辺境伯領の人々は皆、セリア様が立派な聖女となられると信じております」
――しばしの静寂。
やがて、ユリシアが真っすぐに告げる。
「馬車の準備が整いました。――そろそろ、出発いたしましょう」
その声音には、微塵の迷いもなかった。
「……うん。ありがとう、姉様」
かすかな笑みに、ユリシアもまた口元をわずかに緩めた。
「どのような道であれ、私はセリア様の盾となり、剣となりましょう。
それが、私の使命です」
毅然としたその言葉が、セリアの胸にゆるやかに染みわたり、心の奥に渦巻いていた不安を、そっと和らげてくれる。
改めて、彼女の覚悟を目の当たりにして、セリアは小さくうなずいた。
でも、“守られるばかり”ではいけない――
いつものように凛々しく立つユリシアの姿を見ていると、不思議と心が落ち着いていく。
どんなときも、彼女は傍にいてくれる。
守られるばかりの自分が情けないと感じる一方で、その安心感は、たしかな支えだった。
「王立学院に行けば、聖女としての勉強をたくさんするのよね?」
「はい。礼法、祈祷、そして国政についても学ぶことになります。
そして――来年の『星詠みの日』には、正式な聖女として認められるための試練が待っています」
「星詠みの日……一年後には、私は……」
胸に再び押し寄せる不安を、セリアはぎゅっと拳を握りしめて押し込めた。
そのとき、ユリシアがそっと肩に手を置いた。
そのぬくもりに触れ、セリアはようやく深く息をつくことができた。
「ありがとう、ユリシア姉様……あなたが一緒で、本当に良かった……」
ユリシアは一瞬だけ目を伏せ、そしてそっと微笑んだ。
「騎士として、セリア様をお守りすることは当然の務めです。ですが――」
彼女は、わずかな躊躇のあと、けれど揺るぎのない眼差しで言葉を続ける。
「“セリア”。私はあなたの家族であり、友でもあります。
どんな時も、隣に立ち、支えると――そう誓いました」
その言葉に、セリアの胸がじわっと温かくなる。
「……ユリシア姉様、ありがとう。本当に」
自然とこぼれたその言葉には、ほんの少しだけ、力強さが宿っていた。
ユリシアはそっと頷き、その想いをしっかりと受け取った。
“守られる存在”ではなく、“共に歩む存在”。
それが、ユリシアの“誓い”なのだと――セリアは、ようやく理解した。
そして――聖堂の大扉が、重く、ゆっくりと開かれた。
外には、清々しい朝の空気が広がり、澄んだ青空が果てしなく続いている。
古びた石畳を一歩ずつ踏みしめながら、セリアは静かに歩き出した。
故郷を離れる切なさが、ふっと胸を締めつける。
それでも、振り返ることはなかった。
セリアはまっすぐに、未来へ向けて――ー歩き出した。
神父や修道女たちが、見送りのために静かに祈りを捧げている。
彼らの祈りの声が、まるで祝福の歌のように耳に届き、背中を押してくれた。
「行きましょう、セリア様」
「うん……行こう」
その声に応えた瞬間、ほんの少し心が軽くなり、守られるばかりだった自分が、前に進めた気がした。
澄みきった青空が、彼女の歩みをやさしく見守っているようだった。
セリアは一歩踏み出すたびに、心の中で小さな誓いを立てた。
“自分の足で、未来へ向かう。”
“守られるばかりではなく、私が誰かを守れるように。”
どれだけ不安が胸を占めても、その一歩が未来へ続くのなら。
そのために、私は強くなる——。
そう呟くことで、ほんの少しだけ背筋が伸びた気がした。
そのとき、セリアはふと手のひらを見つめた。
さっき拾い上げた、一輪の花びらがそこに残っていた。
胸に当てていたその花びらを、そっと空へかざす。
「ありがとう」
小さくそう囁くと、セリアは花びらを風に乗せるように手放した。
ひらりと揺れて舞い上がったそれは、光の粒をまといながら、まるで祈りを運ぶように空へ昇っていく。
青空へと旅立つその姿を見送りながら、セリアはまた一歩、静かに歩を進めた。
その一歩はまだか細いけれど、
――確かに、未来へ向けての“意志”が込められていた。
次回。
【第7話 聖女の祈りと旅の仲間【前編】 ― The Fellowship of the Praying Holy Maiden ―】
【エピソード②「王家の血、聖女の魂」】
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