第3話 プロローグ ― Trash Panda ― エピソード⑤「“今”を選ぶということ」
東京都・多摩郊外。
小さな川沿いの並木道を抜けた先に、そのアパートはあった。
「静かな場所ですね……」
道すがら、俺がそう呟くと、氷室は「ええ」と頷いた。
「もともと療養目的で、静かな環境に引っ越したそうよ」
「ここ一年ほどは外出も少ないみたい」
古びた木造の外階段を上り、指定された部屋の前で足を止め、少し息を整えた。
隣を歩く氷室は、変わらぬ無表情でインターフォンを押した。
――ピンポーン。
――しばらくの沈黙のあと、ガラス越しに人影が見えた。
「……はい?」
「ELICの者です。本日はお時間を頂戴し、ありがとうございます」
氷室が淡々と名乗る。すぐにドアが開いた。
ドアの向こうから現れたのは、やや痩せた印象の女性だった。
白いカーディガンを羽織り、肩までの髪を緩く結っていた。
雰囲気は柔らかいが、目は伏せたままだ。
「こんにちは。ELICの氷室です。こちらは皇です」
「……どうぞ、お入りください」
部屋は整っていた。
観葉植物が陽の光を浴び、カーテンは少し空いた窓の風を受け、やさしく揺れている。
テーブルの上には、湯気の立ったハーブティーと、小さな写真立て。
ふと、その写真に目を留まった。
氷室も俺につられて、自然と目を移す。
男の子と、老夫婦。
三人で並んで笑っている。
男の子は和装姿。七五三なら5歳の時だろうか。
幸せそうな笑顔だ。
だが、その中に“母親“らしき人物はいなかった。
ふと、氷室を見やると、二人の視線が交差した。
彼女の彫刻のような顔が、その眉が少し動き、うなずいた。
(三崎さんにとって特別な子供…。そういうこと…、だな)
俺は名刺を差し出す。
三崎は名刺を受け取ると、静かにうなずいた。
「改めて、本日はお時間をいただきありがとうございます」
氷室は名刺を手渡すと、そのまま落ち着いた調子で話を始めた。
「三崎さん、前回の面談では転生保険に関心をお持ちとのことでしたね」
「……ええ、関心はあります」
三崎は目を伏せたまま答える。
「ですが、正式な申し込みには至っていませんね」
「今日は、その理由について、少しお話を伺えたらと思っています」
氷室は続けた。
「……別に、難しい話じゃないんです。私は……もう長くないと思ってて」
「そのお気持ちは、十分に尊重したいと思っています」
氷室は静かにうなずき、さらに続けた。
「ただ、開示頂いた医療データでは、三崎さんの症状は“安定期”に分類されています」
「医師からも、そのように説明されていませんか?」
(…確かに、G-MIBのデータでは“安定期”とあった。)
三崎はしばしの沈黙の後、答えた。
「……言われました。でも、そうじゃない気がして…」
「それは…、“勘”のようなものでしょうか?」
三崎は、小さく笑った。
「昔から、わかるんです。“ああ、もうすぐだな”って。体が教えてくれる」
「……」
氷室はその言葉に、少し考え込んでいるかのように見えた。
論理的に否定した上で、説得するロジックを組み立てているのだろうか。
(……いや、この場面、俺なら)
俺は目配せし、氷室の視線を写真立てに導く。
氷室は一瞬だけ、視線を写真立てに向け、小さくうなずいた。
「……甥御さんですか?」
氷室は写真立てを見つめ、三崎に問いかける。
その写真には三崎は写っていない……。
だが、その面影は、確かに嬉しそうに笑う子どもに宿っていた。
三崎は一瞬だけ目を上げ、写真立てに向けた。
「……それは、祐介です。ええ、そういうことになってます。」
「“そういうことに”?」
三崎の肩が、ほんの僅かに揺れる。
「……昔、子どもを産みました」
部屋の空気がぴたり、と止まった。
「まだ若くて……両親が育ててくれたんです」
「あの子…祐介には、“叔母”としか伝えてません」
氷室は、続く三崎の言葉を待つように、静かに三崎を見つめている。
「もし……私がこのままいなくなっても、たぶん、気づかないと思います」
「“叔母”が“母親”だったなんて…、知らないまま……」
(……これが、“やり残したこと”だ)
神楽が指摘したように、本人は“死ぬつもり”でいる。 けれど、心の奥底では、“生きる理由”を捨てきれていない。
そこで初めて、氷室は言葉を選ぶように口を開いた。
「三崎さん」
「……私たちは、“転生”という形で未来を選ぶお手伝いをしています」
「ですが、その前に…“今“を、どう生きるかを考えていただく必要があるんです」
(……感情で語っているように見える。でも、違う)
氷室の言葉は、すべてデータとロジックから逆算して構築された“寄り添い”だ。
医療データ、面談記録、家族関係……。
そこから導かれた最適解、感情を利用してでも、確実に届く言葉を選んでいる。
それを、ここまで自然にやってのけるとは…。
……しばらく黙っていた三崎が口を開く。
「……“今”、ですか?」
三崎は目を伏せたまま尋ねる。
「はい。過去ではなく、未来でもなく、“今”」
氷室は、わずかに目を細め、続ける。
「あくまで、“私が感じたこと“を、お話します」
「あなたの言葉には、 “死の準備”より、“伝えられなかった想い”の重さを感じます。それは、“転生”ではなく、“現世”でしか果たせないもの、ではないでしょうか」
三崎は、ハーブティーのカップを持つ手を震わせた。
…そして、ぽつりと零す。
「……あの子に、伝えたい気持ちは、あります。でも、もしそれで嫌われたらと思うと……」
氷室は、三崎をじっと見つめ、問いかけた。
「……それでも、伝えなかったことを、後悔しませんか?」
その問いは、冷たくも鋭くもなかった。
ただ、ひたすら穏やかに、真っ直ぐだった。
三崎はしばらく目を伏せ閉じたまま、動かなかった。
その目には少しずつ涙が溢れる。
……そっと、目を上げる。そんな三崎を、氷室はそのヘーゼルの瞳で静かに見つめていた。
そして、ゆっくりと、うなずいた。
しん、とした静寂が流れ、窓のカーテンが時折吹く風に、ふわりと揺れる。
「……怖いんです」
ようやく口を開いた三崎は、搾り出すように言った。
「あの子は、まっすぐで、優しい子に育ってる。両親のことを、本当に大切に思ってる」
「そんな子の前で、“実は私が母親でした”なんて……混乱させるだけかもしれない」
「そうかもしれません」
氷室は静かにうなずいた。
(あえて否定しない。次は”でも”だな…、)
氷室は続けた。
「でも、それを“混乱させるだけ”と決めつけるのも、まだ早いのではないでしょうか?」
三崎は、目を見開いた。
「本当に伝えたいのは、“あなたの母親は、あなたのことを心から想っていた”ということ」
「それが伝われば、きっと……、祐介くんの中に、何かが残るはずです」
三崎は肩をふるわせる。
「……でも、今さら……」
「“今”だからこそ、です」
氷室の言葉は、そっと、それでいてはっきりと重なった。
まるで、三崎の揺れる心に寄り添うように。
(だから、“今”か…)
「“転生”は、あくまで“次の人生”の選択肢です」
「でも、今生でしか伝えられない言葉がある。……それを、忘れないでください」
三崎は、カップを置いた。
指先はまだ、かすかに震えていたが、その表情は、少しだけ前を向いているように見えた。
しばらくの沈黙の後、三崎は言った。
「……伝えて、みようと思います」
その言葉は、ためらいが混じりながら、それでも覚悟の混ざった声だった。
氷室は、そっと頷く。
「……一度、会ってみます。正面から、思いを伝えたいです」
「はい。それが、きっと一番です」
三崎の目に、わずかな光が戻ってきた。
それは“諦め”ではない、“選択”をした人のまなざしのように見えた。
「……本日は、貴重なお話をありがとうございました」
氷室は立ち上がり、深く一礼する。
三崎も、穏やかにうなずき返した。
俺も小さく会釈をしながら、玄関に向かう。
ドアを開け振り返ると、三崎ははにかんだような笑顔で小さく手を振っていた。
その目には、涙はもうない。
きっと、これが彼女にとって、“始まり”になると、そう思えた。
そんな笑顔だった。
「“伝えること”は、怖い。でも――伝えなかった後悔は、もっと怖い」
その“選択”が、彼女の“今”を変えた。
これは、“終わり”の物語じゃない――“選択”による、“始まり”の物語だ。
次回。
【第3話 プロローグ―Trash Panda―】
【エピソード⑥「“トラッシュパンダ”」】




