第33話 終と始
暗く冷たい洞窟の最奥、禍々しい煉獄の門を祀る鳥居の前で、膝から崩れ落ちる私。……残花、お願い。帰って来て――。
――ドン
「何……?」
――ドン
――ドン
それまで何も聞こえてこなかった門から、誰かが叩くような音がする。
「残花? ……ねえ、残花なの?」
私は心からすがるように聞いた。どうか残花であってほしい。それ以外のことは考えられなかった。
――ドン
――ドン
――ドン
私の問いに応えるように、叩く音は間隔を縮め、何度も聞こえた。残花だ、残花に違いない!
「残花……! 喋れないの? 傷付いて開けられないの?」
私は震える足を無理矢理引き摺って、鳥居をくぐる。
「!!」
鳥居をくぐった瞬間、心臓を握り潰さんばかりの衝動的な恐怖に襲われた。苦しい……! ……でも、残花が叩いているのなら、何としても開けてあげなきゃ……!
――ドンッ
――ドンッ!
急かすように、叩く音が強まる。私は上がらない足を摺りながら、門へ近付いていく。
「行くよ! 今、行くから……!」
その時、懐から白兎が飛び降り、私の足を止めんと掴んだ。
「止めないで。私、行かなきゃ……」
白兎は大きくなろうと力んだが、神力が使えないようだった。私の足を噛んで懸命に後ろに引く。
「ごめんね、白兎。でも、私――」
白兎ごと足を引き摺り、煉獄の門に辿り着く。すると、中から声が聞こえた。
『種よ』
残花の声じゃない!
それはまるで焼けた喉から発したような、酷くしゃがれた声だった。私はハッとして門から離れようとするも、もう足をぴくりとも動かせなかった。白兎も見えない何かに縛られているように、身動きが取れないようだ。
『花は散った。無論、地の雑草も』
――!!!
「う……嘘だ、そんなの……そんなわけ……」
動かないはずの足が震え出しそうなほど、私の根幹ががくがくと揺らぐ。自分の心を手放すまいと、ぎゅっと拳を握る。
「お前……黄泉だな! 私を……騙そうとしてるんだ! 残花は、負けない! 皆だって……」
必死に声を振り絞ったその時、通ってきた洞窟から怨嗟のような風音を立て、冷たい薄煙が吹き込んだ。冷煙は突風のごとく私をすり抜け、閉じた門に吸い込まれていく。
刹那、数多の死姿が脳裏を駆けた。
折れた鍬を手に、倒れた根助。
矢が尽き、木にもたれかかる猟。
轟炎と相討ちし、胴を貫かれた断十郎。
船ごと海の藻屑となった江良。
機巧兵の下敷きに伏した咲良。
仁王立ちしたまま動かない、傷だらけの母上――。
私は理解した。
今、皆の魂が私を通って逝ったのだと。
「あ、あ……あああああ……!」
もう、正気ではいられなかった。
私の心の幹は、完全にへし折れた。
「残花! ねえ、残花ぁ! 帰って来て! お願い!!」
門に叫ぶと、黄泉のしゃがれた声が心を撫でる。
『その願い、叶えてやろう』
「……え……?」
黄泉は、静かに言葉を続けた。
『言え。呪詞は知っているだろう』
あ……。知っている。
決して言ってはいけない、その望みを。
……――『ダメ!』――……
突如、頭の中に向日葵姫の叫びが届く。
……――『――本当に―! ――散―――!』――……
何? 何かを叫んでいるけど、声が遠くて聞き取れない。黄泉にも声が聞こえているのか、門からしゃがれた声が私の心臓を掴む。
『唱えよ。彼の姫のように』
……! 黄泉の求めている言葉、私の願い。誰もが知っている、樹教典の一節。決して願ってはいけない、禁忌の言葉。
向日葵姫の叫びは、もう私の心に響かなかった。
だって、向日葵姫も望んだじゃないか。
『願え。そして輪廻せよ。我が悲願叶うまで』
黄泉の声も、もう私に届かない。一切を失った私は、心の底から願ってしまった。
もう世界なんてどうでもいい。
ただ、あなたと咲いていたかった――。
◆――――――――――……
花よ 永遠に咲け
たとえ天地を 灰と化しても
……――――――――――◆
◆
煉獄の門が開き、黒炎が噴き出した。
黒炎は一瞬でタネを呑み込んで黄泉比良坂を抜け、天地に燃え渡る。
金の穂実る芽ノ村が、
命の声響く獣ノ山が、
技磨き合う武ノ里が、
清き海渡る沖ノ島が、
知恵寄せる機ノ都が、
等しく煉獄の黒炎に包まれていく。
御神木は全て焼け落ち、
天地は再び、色無き灰に覆われた。
◆
◆
◆
やがて黒炎が何もかもを焼き尽くし、煙と消えた頃。命の音無き広大な灰野で、灰が集い、ある侍の形を成す。
侍は桜色に透き通る刀身を抜き、灰雲に覆われた天を仰いだ――……。





