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貴方は何も知らない

「アイラ、君との婚約は破棄させて欲しい」


「破棄、ですか?」


「ああ。君も薄々気が付いていただろう。私に君以外の愛する女性が居るという事に」


「……はい」



 ついに来たか。 

 私は傷心の表情を浮かべてしおらしく頷いた。

 その事実はよくわかっている。誰よりも。



「そんな気持ちのまま君と偽りの関係を続けていく事に耐えられないんだ」


「偽り?」



 その言葉は私にとって少なからず衝撃だった。 

 どうやら私達の関係は彼にとってはそういう類のものであるらしかった。

 10年近くに渡る関係をそうあっさり言い切れる彼の感性に違和感を覚える。

 私の中で彼に対する何かが間違いなく消えた。



「……分かりました。カレヴァ様。

 ですが、せめて理由をお聞かせいただけませんか?」


「いいだろう。元婚約者となる君にはその権利がある」



 もったいぶった口ぶりでカレヴァは私に誇らしげに話し始めた。



「僕はね、真実の愛を見つけたんだ」


「真実の、愛?」


「そうだ。君と私は幼い時から定められていた婚約者だった。

 つまり愛など一切育む事が無かった訳だ」


「……」


「でもハンネは違う。僕は彼女に会って初めて運命という物を感じたのさ……」



 「偽り」の後は「真実」の愛と来たか。

 貴方にとっては運命なのかもしれないけれど相手にとってはどうなのかしら。

 しかし、私の心の中の呟きが口から発せられる事はなかった。



「カレヴァ様……あなたの心が離れた今、私だけが婚約を望んでも詮無い事です。

 婚約破棄は了承致しますが私達の同意だけでは決められません。それと……」


「?」



 カレヴァの表情が一瞬怪訝な形で留まる。

 もしや面倒な女と思われただろうか。

 しかし今となってはどうでもいい事だ。一番重要な事を確認する。



「……今回の婚約破棄につきましては私に特に瑕疵があるとは思えません。

 こんなことは言いたくはありませんがどちらの有責かははっきりさせていただけるでしょうか?」


「わかっている。此方が一方的に言い出した事であるしね。

 子爵家には我が伯爵家より充分に賠償金を支払う事を約束する。

 手続きもこちらの方ですべて手配をしよう」



 貴族の婚約も結婚もあくまで家同士の結びつきである。

 私達の意志がどうであれ容易に話が進むことではない。

 しかしこの事について私の父は何も言わないだろう。



「承知しました。では、そのハンネ様とどうかお幸せに」


「ありがとう。婚約者ではなくなったがいい友人でいよう。

 昔の友誼が無くなるわけではないのだから」


「……そうですわね」



 そのまま私達は別れた。

 多分もう二度と会う事は無いだろうと確信して。

 日が暮れて屋敷に戻った私はそのまま父の書斎に向かう。

 そして父にカレヴァから婚約破棄を告げられた事を告げた。



「そうか……」


「はい。それと……婚約破棄はあちらの有責との言質を間違いなく取りました。

 慰謝料は充分に支払うとの事です」


「うむ、分かった。では早速、婚約破棄の手続きと根回しをしなくてはな」

 


 父は私の報告を淡々と聞いた。

 貴族の婚姻の場合、両家の意思だけでなく国への届け出も必要になる。

 婚約破棄の場合も同じだ。

 たかが約束の一つと軽々しく云えるものではない。


 根回しと云うのも私自身が新たな婚約相手を探す為には必要な事だ。

 どの様な理由でどちらに非があっての婚約破棄なのかを周知させるのである。

 この手間を省くと、本来纏まるはずの縁談も中々纏まらなくなる。



「手続き関係は全てあちらが主導で執り行ってくれるそうです。

 いずれ此方にも連絡が来るでしょうが、お父様はその手続きと内容に間違いが無いかご確認をよろしくお願い致します」


「ああ。後はこちらに任せてあの男の事は忘れなさい」



 私はお父様への報告を終えると自室に向かった。

 ソファーに深く腰を沈めて天を仰ぐ。やはり、色々と精神的に疲れた。

 このような時は身を清めて早めに寝てしまいたい。

 しかし今日はそういう訳にはいかない。来客があるのだ。

 私は侍女を呼んで入浴だけ済ませた。

 

 来客があるのが何時になるかは分からないが、私はその人物を待つ義務がある。

 それはお父様も同じだった。


 バルコニーに出て夕涼みをしながら遠い記憶を掘り起こした。

 この王都から離れた我がマルセラ領での出来事についてである。

 生まれ育ったマルセラ領での記憶はほぼ二人の少年との思い出で占められていた。


 二人の少年とはマルセラ領と隣り合わせた領主の子息達の事だ。

 ブーラ領のカレヴァ、スヴェント領のマルク、……そしてマルセラ領の私。

 互いの領都がそれほど離れていないので私達はよく顔を合わせる幼馴染同士だった。


 親同士で私とカレヴァの婚約が結ばれてからマルクとはいささか疎遠になった。

 手紙のやり取りを交わしたり偶に会う機会もあったが最後に会ったのは一年前だ。

 控えめで優しい性格だった彼は今どうしているだろうか。

 何のしがらみも無かった小さい頃の三人に戻れたらいいのに。

 なぜこのような事になったのだろう。 

 

 しばらく物思いに耽っていると微かに遠く馬車の音が聞こえたので門の方を見た。

 やがてこぢんまりとした小さい馬車が屋敷の正門近くに止まった。

 馬車に家紋は入っていない。辻馬車である。


 馬車は一人の客を降ろして去って行った。

 私はその光景を見届けると室内に戻って再び父の書斎に向かった。



「失礼します。確認に戻りました」



 そう言って父の書斎に入って来たのは眼鏡の女性だ。

 父と私は帰って来た我が家の使用人に言葉を掛けた。



「おお! お帰り、ハンナ」


「お帰りなさい、ハンナ」

 


 ハンナは私と年齢が一つ違いのもう一人の侍女である。

 私達は続けてねぎらいの言葉を掛ける。



「ありがとう。本当にご苦労様」


「いえ、思った以上に時間がかかってしまいました。申し訳ございませんでした」


「ハンナ、お前の協力のおかげで助かった。色々すまなかった」


「そんな……お役に立てて良かったです。

 私を救って下さった旦那様とお嬢様への恩はこんなものでは返しきれません。

 それで、間違いないのでしょうか?」


「ああ」



 カレヴァの父であるブーラ伯爵が隣国へ武器の密輸をしている事を知ってしまった

 父は、私とカレヴァの婚約を破棄に持って行く事を計画した。

 伯爵とのつながりを断つ為であった。


 私はカレヴァへの思いがあったものの父の説得に納得して婚約破棄を了承した。

 婚約関係でも充分巻き込まれてしまう恐れがあるのに、私達が結婚して家同士が完全に結びついた後で伯爵の悪事が露見したらそれこそ一蓮托生になってしまう。

 これは私達家族だけの問題ではない。


 隣国と我が国の関係は今は落ち着いているものの基本的に昔から争いが絶えない。

 無論武器の密輸など論外だし、そもそも法律的にも重罪だ。

 如何なる時もブーラ領の運営が安定しすぎている要因はそこにあった。

 ブーラ伯爵が我が子爵家と領地領民を巻き込まないうちに手を切る必要があった。


 だが、長年続いた私とカレヴァの婚約を何の理由もなしで取り消す事も出来ない。

 思案した父はカレヴァの女癖の悪さに目を付けた。

 カレヴァは色々な女性と噂されるものの私との婚約の破棄は考えてはいなかった。

 他の女性との一夜の愛よりは私への長年の友情を優先してくれていたらしい。


 婚約破棄を計画はしたものの問題だったのが肝心のカレヴァを誘惑する人員だ。

 忠誠心厚く口が堅く男性の扱いに長けた見目麗しい年頃の女性などそうはいない。

 困っていた父に協力を申し出たのがハンナだった。


 七年前、この国と隣国との紛争で大量に戦災難民が出現してしまった事があった。

 流入して来た難民達の中には自分自身を売って糧を稼ぐ女性も少なからず存在した。

 戦火で両親を失った私と一つしか年齢の違わない幼い少女もだ。

 傷つけたくないから詳細は聞いていない。

 だけど彼女が辛い思いをしてきたのは確かだった。


 我がマルセラ領にも難民は流入して来た。

 いかがわしい違法商売をしていた業者を摘発したお父様はそこに居たハンナを私の侍女として子爵家に引き取った。

 身の上を察して偏見を持たずハンナを保護した父には感謝しかない。

 お互い年齢が近く母が既に他界していた事もあって、私達は仲のいい姉妹の様に育って来た。



「私はカレヴァ様に顔を知られていません。私にその役目をお命じ下さい」


「しかし、男を誘惑する様な役をハンナに任せる訳にはいかん。

 場合によっては……いや、とにかく駄目だ」


「そうよ。これは私の問題だから心配しないでいいのよ」


「旦那様、お嬢様。私はお二人のお役に立ちたいのです」



 今回の計画にハンナが手を貸してくれると言っても私も父も無論反対した。

 人員にあては無かったが単純に嫌だったし、別の理由もあった。

 ハンナは娼館での記憶から男性に対して恐怖症になっていたからだ。

 何せ初めは私の父でさえ見ただけで体が一瞬固まったぐらいなのだ。

 だが、ハンナは毅然と私達に言った。 



「いえ、私以上にその役の条件を満たす者はいません。

 お嬢様の近くにお仕えしてきましたから貴族の作法も弁えております。

 それに男性のあつかいも」


 

 カレヴァの居る場には同席させなくて顔を知られていなかった事が皮肉だった。

 ハンナの眼鏡の下の素顔が充分美人である事は父も私も知っている。

 もう一つ、武器を横流しして戦火を煽る一端を担いでいたブーラ伯爵に対して祖国を追われる一因を担った者として憎んでいた気持ちもあったのかもしれない。


 結局、ハンナの硬い意志に負けて私と父は彼女の気持ちに縋る事にした。

 カレヴァとは王立学園を卒業した時点で結婚する事になっていて時間が無かった事が理由として大きい。


 父はまず、調べが付きにくい貴族縁の籍を用意した。

 一時的な仮住まいも用意した。ここからカレヴァの元に通う訳にはいかないので。

 こうして仮の貴族令嬢ハンネは誕生した。


 つまりカレヴァが愛したハンネとはハンナの事である。

 今回の婚約破棄の当事者で何も知らないのはカレヴァだけだった。


 婚約破棄については当主である彼の父がすんなり応じるかどうかが心配だったが、私に瑕疵が無い以上、息子が作った破棄の流れに逆らうのは難しかったのだろう。

 自分の身元を詳しく悟られないうちにカレヴァに私との婚約破棄を持ち掛けさせたハンナの手腕のおかげもある。



 カレヴァに婚約破棄を通告された後、私は至急現在のハンナの住居にその伝言を届けておいた。

 そしてその事を確認に一時帰宅した彼女と今後についての詳細な打ち合わせをした。

 破棄手続き終了まで時間を稼いで、その後速やかに消えなければならないからだ。

 打ち合わせが終わるとハンナは人目に気を付けて今の仮住居に戻って行った。


 婚約破棄はそれからさほど日にちを置かず無事に成立した。



 半年後、ブーラ伯爵の所業は国王陛下の知る処となった。

 カレヴァの実家は貴族籍剥奪の上取りつぶしとなった。

 結局、伯爵がわが子爵家を巻き込む気があったかどうかは分からない。

 カレヴァ自身が父親の悪事を知っていたかは分からない。

 しかし我が家としては目に見える破滅に対して手を打っておく必要があった。

 全てはハンナの献身あっての事であり、私も父も彼女には感謝に堪えない。


 そして私は明日結婚する。

 ブーラ伯爵家が破滅する前に父が私とマルクの婚約を素早く成立させたのである。

 元々マルクは私に好意を持ってくれていたそうだ。

 私としても気心が知れた仲であったから特に異論はない。

 彼となら、友情がいつか穏やかな愛情に昇華して温かい家庭を築く事が出来ると信じられる。

 勿論、嫁ぎ先にはハンナにも一緒に来てもらうつもりだ。


 私のカレヴァに対する今の気持ちとしては喪失感はある。

 元々彼の酷い女癖を耐えるつもりくらいの愛情は確かにあったのだ。

 しかし、あの時の心無い一言は私の中に残っていた彼への最後の情も奪い去った。

 今後の人生で彼を思い出す事はあっても何の感慨も抱かない事は間違いなかった。

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