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馬車は王都に入り、貴族街の大きな門を潜り抜けていく。
見えてきたのは、邸宅ばかりが並ぶ、小さな村からは想像もできないような大都会。
大通りの先にはひときわ目立つ邸宅、お城がある。前の人生でも一度だって入ったことがない、お父様とお兄様の職場。
そのお城の近くにあるのが、ヴェルタール公爵邸だ。こちらもお城に負けず劣らずの大きなお屋敷。
玄関の前で馬車が停まり、外から扉が開けられた。
ステファンが先に降り、そっと手を差し出してくれる。
「どうぞ、お嬢様」
この時、わたしはまだ何も知らない平民の子ども。
でも、今のわたしは違う。完璧なマナーを身につけた淑女の記憶がある。
差し出された手にそっと自分の手を重ね、片足ずつゆっくりと馬車から降りる。
出迎えに来ていたたくさんのメイドさんや執事さんたちにも驚かない。
「公爵様はどこですか?」
毅然とした態度でステファンに声をかける。ステファンはニコリと笑い、
「ご案内致します」
とエスコートしてくれた。
案内されたのは、お父様の書斎。前の人生では数える程しか入ったことがない場所。
お父様に呼び出された時。村に帰るように言われたのもこの部屋だった。
そんな部屋に、初日から入るなんてもってのほか。
でも、チャンスはこの時。この後からお父様は仕事を理由にほとんど帰らなくなるから。
お父様が公爵邸にいる今日が、最初で最後のチャンスなのだ。
「旦那様、ディアナお嬢様がいらっしゃいました」
「入れ」
ステファンの声に答える、地面から響くような低い声。この声に怯えていた頃もあった。
今回は絶対に怯えてあげない。そんな純粋でか弱いディアナは死んだの。
ステファンと一緒に書斎に入り、でもステファンはすぐに出ていった。
「公爵様」
大きな書斎机の前に座っているお父様。ディオン・ル・ヴェルタール公爵。
オーラとでもいうのだろうか、今にも膝をついて白旗をあげてしまいそうな威圧感。
宰相というより騎士団長という言葉の方があう気がするけど、この国の騎士団長は威厳なんて欠片もない人だ。お父様の古くからのお友達で、何度かこのお屋敷に遊びに来ていた。
綺麗にセットした頭をいつもわしゃわしゃしてぐちゃぐちゃにする人で、正直いい思い出はない。
呼びかけたところでお父様からの反応はない。この人はそういう人だ。口下手なのか寡黙なのか。逆光のおかげで表情もわからない。
いい。そんなものは必要ない。今はわたしの思いをぶつける番だ。
「この度はお招きいただき、ありがたく存じます」
まずは定型のあいさつ文。お茶会なんかに誘われた時に使うものと教わった。
18歳にならなかったから、お茶会なんて行ったことないけど。
「ぶしつけながら、私の願いを聞いていただけないでしょうか」
できるだけ丁寧な言葉を使い、軽く息を吸った。
「ヒューゴッド村に帰らせてください」
一息で一気に言い切る。
この威圧感の中だと、怯えるものかと思っていても緊張はする。
でも遠慮もしなければ躊躇うこともない。
「……なぜだ」
返ってきたお父様の声。震えてる?ううん、気のせい。
この人は声を震わせる理由なんてない。
「ママ……んんっ、母がいいからです」
思わずいつもの呼び方が出てしまって、咳払いで訂正。
そういえば、公爵邸に来てから何度も「ママ」って呼んでたけど、訂正されたことはなかった。お父様やお兄様のことは、そう呼ぶようにと言われていたのに。
「あの場所には、母がいます。たくさんの友人に、知り合いもたくさんいます。それに、母と暮らした家だってあります。ここよりもずっと狭くて汚い場所ですが、母と暮らした家なんです」
できるだけ堂々と見えるように、胸を張って言ったつもり。
「理由は、それだけか?」
真っ赤な瞳がキラリと光った。
まるでわたしの本心を射るような、鋭い眼光。
全て見透かされているみたいで、ちょっとだけ怖い。
それでもわたしは、顔を縦に落とした。
かろうじて見えた赤い瞳をしっかり見つめる。意地でも逸らすものか。
「お前を元の家に帰すことはできる。金銭的な援助も惜しまない。それでいいのか?」
金銭的な援助?冗談じゃない。
そんなことすれば、お兄様が勘付いて村まで来てしまうかもしれない。
完全無欠な公子を兄に持つというのも大変だ。
「必要ありません」
それには首を横に振る。
「わたしはただ、……公爵家と関わりたくないだけです」
真っ直ぐな目。ウサギがトラに追われて崖の淵に追いやられるように、わたしの逃げ道も塞がれていく心地がする。
本当のことを言えと、首に刃を突き付けられて尋問されているようだ。
息が詰まる。小さなのどぼとけがコクリと動く。
「……公子様に、会いたくありません」
まるで操り人形。口が勝手に動いた。
こんなこと、言っちゃダメ。
お父様は気分を害するに違いない。
後継者を愚弄したとして、処刑されてもおかしくない。
でも、いっそその方がいいかもしれない。
公爵家との関係を断ち切れる。
ヒューゴッド村に戻ると居場所が知られてしまうから戻れないけど、誰も知らないところでひとり暮らすのも悪くない。
「わかった」
しっかりとした声で飛んできた返事。
ただ一言。
お父様は壁に並ぶ書棚に近づき、ある本を軽く押す。
その瞬間、本棚の1つが動き出した。
本棚の奥に出てきたのは、大きな隠し部屋。
こんな部屋があることなんて知らなかった。
でも公爵家だ。襲撃を受けることだってある。
隠し部屋の1つや2つ、あって当然か。
書斎の中を歩いて、隠し部屋に入ってみる。
寝室、バスルーム、リビングルーム。全部揃ってる。
家具だって、公爵家にふさわしい繊細な彫刻が施された高級感あるものだし、隠れるだけの隠し部屋じゃないことはよくわかる。
ここで生活することも想定されているんだ。
「必要なものは全て揃っている。食事も毎日届けさせる」
ここで匿ってくれるというの?
お兄様がアカデミーの寮から戻ってくるまでわずか数日しかない。
選択肢はなかった。
お兄様に会わなければ、きっとあの結末はない。
そう信じて、わたしは隠し部屋に入った。