7 氷を溶かす者
セレンティアに向かう初日の旅程は、何事もなく予定通りに終了した。<鳳蝶>が同席を拒んだため、アトロポスたちは<獅子王>の四人と夕食の焚き火を囲んだ。その時に、ルーカス以外のメンバーを初めて紹介されたのだった。
「俺は盾士クラスAのパイロンだ。こう見えても冒険者になって十年以上経つから、それなりの経験を積んでいる。何かあれば聞いてくれ」
バイロンは盾士だけあり、バッカスと同じくらいの巨漢だった。ガッシリとした体格を濃茶色の革鎧で覆っており、背中に背負った大盾は緑がかった灰色のアダマンタイト製だった。左腰には曲刀を佩いていた。短く刈り上げた黒髪と、細く鋭い眼が印象的な男だった。
「剣士クラスAのラメールだ。おたくら、めちゃくちゃ美人じゃねえか? バッカスって言ったな? お前、こんないい女を二人もモノにするなんて、見かけによらず凄腕だな。どうやって落としたのか、教えてくれよ」
その言葉通り、ラメールはいかにも軽薄そうに見えた。長い黒髪を無造作に後ろで束ね、両耳には大きな金環の耳輪をしていた。獲物を狙う鷹のような黒瞳は卑猥そうな色を輝かせながらイーディスの胸元に注がれていた。使い込まれた茶色い革鎧に身を包み、背中には幅広剣と呼ばれる両手剣を背負っていた。
「最後は俺だな。拳士クラスAのブルックだ。このラメールとはガキの頃からの付き合いだ。自己流拳法だが、場数はそれなりに積んでいる。素手喧嘩なら大抵の奴には負けねえ自信がある。お前、強そうだな。後で模擬戦でもやるか?」
「いや、止めておく。こんなガタイだが、俺は気が弱くてな。女の尻に敷かれるのが似合ってるのさ」
ブルックの挑発を、バッカスはアトロポスの顔を見ながら笑って流した。いかにもアトロポスがバッカスを尻に敷いているように聞こえた。
「けッ! 情けねえッ! その筋肉は飾り物かよ? 女をこますしか脳がねえ臆病者か?」
「な……ッ! そんな言い方……」
「相手の力も見極められない三流拳士が何を言っているんですかッ!」
文句を言おうとしたアトロポスの言葉を遮るように、イーディスが怒鳴った。愛するバッカスを貶められて、美しい碧眼に蒼炎を映しながらブルックを睨みつけた。冷徹美人のイーディスが本気で怒ると、凄まじい迫力があった。
「三流拳士だと……? 言うじゃねえか、姉ちゃん!」
両手に嵌めたアダマンタイト製の拳鍔をガツンッとぶつけ合わせながら、残忍さを湛えた茶色の眼でブルックがイーディスを見据えた。一触即発の雰囲気に、周囲が緊張した。
「止めろ、ブルック! イーディスの言うとおりだ。ケンカを売るなら、相手の力くらい見極めろ!」
ルーカスが赤茶色の鋭い瞳で、ブルックを睨みつけながら叫んだ。
「何だと、ルーカス! 聞き捨てならねえな! この俺がこんな奴らに負けるとでも言っているのかッ!」
「ああ、その通りだ。お前ではバッカスどころかイーディスにも勝てねえぞ! この三人は俺よりも遥かに強い!」
ルーカスの言葉は、アトロポスたちの実力を正確に見抜いたものだった。
「てめえよりも強いだと……!? こんな臆病者と小娘がか?」
ブルックはルーカスの実力を知っていた。以前に喧嘩を売って、あっという間に叩き伏せられたのだ。だが、目の前の三人がルーカスよりも強いとは、ブルックにはとても思えなかった。バッカスはともかく、他の二人は二十歳前の少女にしか見えなかったのだ。
「バッカス、身内の恥を晒してすまねえが、この馬鹿と模擬戦をしてもらえないか? どうやら叩きのめされなければ分からないようだ」
「何だと、ルーカス! てめえ……」
ルーカスに喰ってかかったブルックを見てため息をつくと、バッカスが腰を上げた。
「分かった……。ブルックは拳士だったな。無手でいいか?」
拳士にとって拳鍔は、剣士にとっての剣と同じ武器だ。その拳鍔を着けたブルックの相手を、バッカスは素手で相手をしようと言っているのだった。
「待ちなさい、バッカス! あなたが出るほどの相手じゃないでしょ? イーディスに譲ってやって。さっきから、爆発寸前よ」
美しい碧眼に激烈な蒼炎を燃やしながら、イーディスはブルックを睨みつけていた。
「ありがとう、アトロポス。ブルックさん、あたしと模擬戦をしましょうか?」
冷徹美人がニヤリと微笑みながら、ブルックを見据えた。
「イーディス、鏡月冰剣は使っちゃダメよ。素手でやりなさい」
「分かってる」
アトロポスの指示に、イーディスが頷いた。
「てめえら、人を馬鹿にするのもいい加減にしやがれ! 拳士クラスAのこの俺に、小娘が素手でだと……!?」
「不満ですか、ブルックさん? 仕方ありません。素手は止めます。あたしは、これであなたの相手をしますね」
そう告げると、イーディスは右手の人差し指を立てた。その細く美しい指先を見た瞬間、ブルックの顔が真っ赤に染まった。
「てめえ、指一本で相手をするって言うのかッ! 舐めるのも大概にしろッ!」
そう叫ぶと、ブルックは荒々しく立ち上がった。そして、皆から離れると、イーディスに向かって顎をしゃくった。
「さっさと来やがれッ! 遊んでやるぜッ!」
その様子を見ていたルーカスは、アトロポスの顔を見つめていた。
(バッカスがリーダーかと思っていたが、このローズの方だったのか? ローズ……どこかで聞いた名前だな……)
ルーカスは眉間に皺を寄せながら記憶を探った。
(……! まさか、『夜薔薇』かッ!? あの混沌龍を単独で倒したという、あのローズかッ!?)
ルーカスの赤茶色の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
(もしそうなら、こいつらは<闇姫>か! 『猛牛殺し』のバッカス、『蒼氷姫』のイーディス……。どっちも、剣士クラスSじゃねえか?)
ルーカスは嬉しさのあまり、全身がゾクゾクとしてきた。予想もしていなかったランクSパーティに出逢えた幸運を、信じてもない神に感謝した。
「バッカス、お前も人が悪いな」
「ん? 何だ、突然?」
ルーカスの言葉に、バッカスが怪訝な表情を浮かべた。
「うちの馬鹿が、『蒼氷姫』に勝てるはずねえだろう?」
「……!」
バッカスは、ルーカスが自分たちの正体を見破ったことを悟った。慌ててアトロポスの顔を見ると、彼女は楽しそうに微笑んでいた。
「ルーカスさん、上級回復ポーションは持っていますか?」
「いや、単なる護衛依頼だから、持ってきていないが……」
アトロポスが何を言いたいのか分からずに、ルーカスは首を傾げた。
「バッカス、ルーカスさんに一本渡してくれない? イーディスはブルックさんに飲ませるのを嫌がるだろうし、私もお断りだから……」
「分かった……。後は頼むぜ、ルーカス」
アトロポスの言葉の意味を察すると、バッカスは笑いながら上級回復ポーションをルーカスに手渡した。アトロポスは自分もイーディスも、ブルックにポーションを口移しで飲ませることを断ったのだ。
「拳士クラスAの動きって、そんなに遅いんですか? それでよくバッカスさんに喧嘩を売る気になりましたね?」
真後ろから聞こえてきたイーディスの声に、ブルックは慌てて振り向いた。だが、そこにはすでにイーディスの姿はなかった。
(何なんだ、こいつは……!?)
「どこを見ているんですか? 相手の気配くらい掴めないで、よくクラスAを名乗っていますね?」
今度は左後ろからイーディスの声が聞こえた。笑いながら立っているイーディスに、ブルックは渾身の右正拳を放った。だが、拳鍔が届いたと思った瞬間に、イーディスの体がブレて消えた。
「そろそろ、この茶番にも飽きてきました。最後にあなたの希望を聞いて上げます。右手と左手のどっちがいいですか?」
右後方から聞こえてきたイーディスの声に、ブルックが慌てて振り向いた。
「何だとッ? どういう意味だ!?」
「バッカスさんに喧嘩を売るくらいだから、頭も悪いんですね。どっちの腕を斬り落とされたいか聞いているんですよ」
殴りかかってきたブルックの拳が空を切ると、イーディスの姿が再び消失した。
「選ばないなら、次に打ち込んできた方の腕にしますね」
「何言ってやがる!? 剣は使わねぇって約束だろッ!」
声のした背後を振り返りながら、ブルックが叫んだ。
「そんなもの使うまでもありません。これで十分です」
豊かな胸の前に右手を持ってくると、イーディスは白く細い人差し指を立てた。その指から蒼炎の焔が燃え上がった。
「何だ、それは……!? そんな小さな覇気がどうしたんだ!」
ブルックが右手を腰だめに構えると、イーディスめがけて一気に繰り出した。土属性特有の濃茶色の覇気が、直径二十セグメッツェくらいの球状となってイーディスめがけて襲いかかった。
「ハッ!」
短い気合いとともに、イーディスが立てた人差し指をブルックめがけて真っ直ぐに突き出した。その瞬間、指先から凄まじい蒼炎の奔流が噴出し、螺旋を描きながらブルックの覇気を呑み込んで翔破した。
「ぎゃあああッ!!」
蒼炎の奔流がブルックの右腕を直撃し、肩から先を瞬時に消滅させた。想像を遥かに超える衝撃と激痛に、ブルックは絶叫を上げながら地面をのたうち回った。
「バッカスさん、ポーションを……」
上級回復ポーションをもらおうと振り向いたイーディスの碧眼に、驚愕の表情を浮かべながら走り寄ってくるルーカスの姿が映った。
「さすがに『蒼氷姫』だ! 指一本で、とんでもねえ破壊力の覇気を撃ちやがる!」
イーディスの横でそう告げると、ルーカスはそのまま地面を転げ回るブルックの元へ走って行った。そして、ブルックの両肩を膝で押さえると、泣き叫ぶ口に上級回復ポーションを挿し込んだ。ゲホゲホとむせ返るブルックにポーションを飲ませると、ルーカスは彼の横に立ってその効果を見守った。
ブルックの右肩が光輝に包まれ、直視できないほどの閃光が放たれた。その輝きが消えると、ブルックの右腕が元通りに復元した。
「くそッ! 何なんだ、今のは……!?」
激痛のあまり流した涙で頬を塗らしながら、ブルックが半身を起こしてイーディスを見つめた。
「だから、言ったじゃねえか? お前じゃイーディスに勝てないと……。相手は剣士クラスSの『蒼氷姫』だぞ!」
「け、剣士クラスS……!? 『蒼氷姫』だと……!?」
茶色の瞳を驚愕に大きく見開きながら、ブルックはイーディスの美貌を見上げた。
「ルーカスさん、いつからあたしたちの正体を知っていたんですか?」
冷徹美人が口元に微笑みを浮かべながら、ルーカスの精悍な顔を見つめた。
「気づいたのはついさっきだ。あんたらのリーダーはバッカスだと思っていたが、ローズがバッカスに命令していたのを見て、思い出したんだ。『夜薔薇』の二つ名をな……。それですぐに分かったぜ。『猛牛殺し』のバッカスと、『蒼氷姫』のイーディス。まさか、あんたらがあの<闇姫>だとはな……」
ニヤリと笑いを浮かべると、ルーカスがイーディスの目の前に歩み寄ってきた。そして、赤茶色の瞳でイーディスの碧眼を真っ直ぐに見つめながら言った。
「『夜薔薇』と『猛牛殺し』はできてるって噂だ。だが、『蒼氷姫』が<闇姫>に入ったのはつい二日前だ」
「何が言いたいんですか?」
怪訝な表情を浮かべるイーディスに、ルーカスが嬉しそうな笑みを浮かべながら告げた。
「あのバッカスが、入ったばかりのお前を抱くはずはねえ……」
「な……ッ!」
予想もしないルーカスの言葉に、イーディスはカアッと顔を赤く染めた。
「お前がバッカスの女だというのは真っ赤な嘘だ。つまり、俺がお前を口説いても、バッカスを敵に回すことはねえってこった。この依頼が終わるまでに、必ずお前を俺のものにしてやる。楽しみにしていろ」
そう告げると、ルーカスは驚愕して固まっているイーディスの右肩をポンッと叩いて戻って行った。
(な……な、何を言って……? 俺のものにするって……、な、何なの……?)
生まれて初めて男からの熱烈なアプローチを受けて、イーディスは真っ赤に染まって呆然と立ち尽くした。ドキドキと早鐘を打つ心臓の音だけが、イーディスの鼓膜に響き渡っていた。