9 鏡月冰剣
「ハァアアッ!」
丹田で練った覇気を解放すると、イーディスの全身から蒼青色の炎が燃え上がった。高さ五メッツェにも及ぶその蒼炎を、イーディスは上段に構えた鋼の剣に収斂させた。銀色の刀身が蒼い光輝に包まれ、眩いばかりの閃光を放った。
「ハッ……!」
裂帛の気合いとともにイーディスは一気に剣を振り落とした。次の瞬間、蒼炎の神刃が凄まじい速度でアトロポスに襲いかかった。
「ハッ!」
アトロポスは、居合の構えから<蒼龍神刀>を振り抜くと、イーディスの神刃とまったく同じ威力の漆黒の神刃を放った。
対峙する二人のほぼ中央で、二つの神刃がぶつかり合い、対消滅を起こして消滅した。完全な対消滅を起こすためには、相手よりも数段上の実力が必要だった。
「だいぶ覇気を扱えるようになったわね、イーディス」
「人の覇気を簡単に消し飛ばしておいて、褒めないでよ。自信なくすわ」
笑顔で告げたアトロポスの言葉に苦笑いを浮かべながら、イーディスが文句を言った。
「まあ、そう言うな。今の覇気は剣士クラスAの力は十分にあったぞ。相手がアトロポスじゃなければ、簡単に対消滅させるのは難しい威力だった」
笑いながらフォローをしたバッカスの言葉を、アトロポスは否定した。
「でも、イーディスの潜在能力からすれば、まだまだよ。この程度じゃ、昇格試験を勝ち抜くことは難しいわ」
「潜在能力って言っても、あたし、クラスDなんだけど……」
不満気に呟いたイーディスを、アトロポスがジロリと睨んだ。
「この程度で満足しないで、イーディス。あなたの本来の能力は、バッカスといい勝負よ。まだ、その十分の一も引き出せてないんだからね。本気でやらないなら、また腕を斬り落とすわよ」
「わ、分かったわよ……。バッカスさん、よくこんな物騒な女と付き合ってますね。いつでもあたしに乗り換えていいですよ」
「何ですってッ!」
アトロポスに凄まれると、イーディスはさっとバッカスの背後に隠れてペロッと舌を出した。アトロポスの扱いに、だいぶ慣れてきたイーディスであった。
「まあ、まあ……。少し休憩するか? 腹も減ってきたし、上の食堂で昼飯にしよう。アトロポスもそんな顔してたら、折角の美人が台無しだぞ」
バッカスはアトロポスを宥めながら、地下訓練場の隅にある階段を上り始めた。
(アトロポスには凄く感謝しているんだけど、やっぱりどこかで嫉妬しちゃうのよね。これだけバッカスさんに愛されてるアトロポスが、羨ましいわ……)
初めての恋が失恋に終わったとは言え、イーディスは簡単にバッカスへの気持ちを消し去ることが出来なかった。
「いよいよ明日ね、イーディスの細剣が完成するのは……」
お昼のお勧めセットを食べ終わり、鳳凰茶を飲みながらアトロポスが言った。
「うん。でも、白金貨二万五千枚もする剣を貰っても、あたし、アトロポスに何もお返しできないわ……」
一生かかっても返すと言ったイーディスに、剣士クラスAになれば絶対に必要な武器だから気にしないでと、アトロポスは笑顔で告げたのだった。
「そのことなんだが、イーディス。アトロポスは……」
「バッカス、その話はまた今度にして! 今は、イーディスには昇格試験に集中してもらわないと……」
<闇姫>への勧誘の話を告げようとしたバッカスを、アトロポスが止めた。だが、イーディスはとっくにアトロポスの気持ちを察していた。
(やっぱり、あたしを<闇姫>に入れようと考えているんだ。アトロポスのことは好きだし、あたしもバッカスさんの側にいたいと思う。でも、二年以上も一緒にいるキャシーとマーサを裏切れないわ。あたしが抜けたら、<守護天使>は解散せざるを得なくなる。弓士と術士の二人だけでパーティがなり立つはずがない……)
近接職も盾士もいないパーティでは、ダンジョンに入ることさえ危険だった。
(そうかと言って、今のキャシーとマーサに<闇姫>に入れるだけの力はないわ)
この十日間、毎日訓練を受け続けて、イーディスにもアトロポスたちの規格外とも言える実力がよく分かった。特にアトロポスは剣士クラスSの枠を遥かに超えた能力を有していた。覇気の使い方を覚えた自分でさえアトロポスやバッカスに遠く及ばないのに、キャシーたちが<闇姫>に相応しい能力を持っているとは思えなかった。
「アトロポス、あたしは必ず剣士クラスAになるわ。でも、キャシーとマーサは絶対に裏切れない。そのことは分かって……」
美しい碧眼に真剣な光を映しながら、イーディスは真っ直ぐにアトロポスを見つめた。
「分かってる……。当然のことよ、イーディス。あなたが簡単に二人を見捨てるような人なら、私だって剣を贈ったりしないわよ」
アトロポスが明るい声で告げた。だが、その黒曜石の瞳に一瞬だけ悲しみが浮かんだことを、イーディスは見逃さなかった。
「さて、飯も食ったし、訓練再開と行くか? 午後は、俺が扱いてやるから覚悟しろ、イーディス」
アトロポスの気持ちを察して、バッカスが話題を変えた。彼のアトロポスへの想いを感じ取って、イーディスは羨ましく思った。だが、その想いを胸の中に隠して、イーディスが笑顔で告げた。
「はい! よろしくお願いします。でも、バッカスさんなら、腕を斬り落としたりしないから安心です!」
「分からないわよ。別の危険があるかもよ、イーディス。また襲われたりしないようにね?」
ニヤリと悪戯そうな笑みを浮かべると、アトロポスが横に座るバッカスの顔を見つめた。
「お、おい……、まだ根に持ってるのか、アトロポス?」
「別に、根に持ってなんているはずないでしょ? バッカスが誰と口づけしようと、誰の胸を触ろうと、私には関係ないわ」
アトロポスは頬を膨らませながら、プイッと横を向いた。
(また始まった……。こういうところは、まだまだ子供ね……)
小さくため息をつくと、イーディスがバッカスを見つめながら言った。
「バッカスさん、もし意識を失ったら、またポーションを飲ませてくださいね。もちろん、口移しで……」
「なッ……! イーディスッ!」
イーディスの言葉に、アトロポスが声を荒げた。だが、イーディスがニヤニヤと笑いを浮かべていることに気づくと、揶揄われたと知ってカアッと赤くなった。
(この精神的な幼さと、冒険者ギルド最高レベルの強さ……。それがアトロポスの魅力なんだろうけど、危ういわね。やはり、彼女の側にはバッカスさんが必要なんだ。あたしも出来るならアトロポスの力になってあげたいけど……)
キャシーとマーサの顔を思い浮かべながら、イーディスの心は揺れていた。
翌日、午前中の訓練を終えると、アトロポスたちはギルドの食堂で昼食を取ってから『伝説の鍛冶屋』へ向かった。特訓の成果もあり、イーディスの覇気の使い方も剣士クラスAとしては申し分ないレベルに達してきた。
「どんな剣が出来上がっているか、楽しみね」
自分のことのように、アトロポスが嬉しそうな表情を浮かべながら告げた。
「うん。でも、何か実感が湧かないわ。ムズンガルド大陸でも一、二を争うような鍛治士が、あたしのために剣を打ってくれているなんて……」
嬉しさの中に戸惑いの色を浮かべた碧眼で、イーディスが言った。
「気持ちは分かる。俺も火焔黒剣を打ってもらった時には同じだった。だが、今ではこの火焔黒剣はなくてはならない相棒だ。イーディスの剣もそうなるさ」
「その火焔黒剣って、いくらだったんですか?」
アトロポスの<蒼龍神刀>は白金貨三十五万五千枚だと聞いたが、それに近い性能を持つ火焔黒剣の価格に興味を持って、イーディスが訊ねた。
「さあ、いくらだろう? アトロポスが払ったのは酒代込みで白金貨三千枚だったよな?」
「そうね。火龍の皮と宝玉は『破魔の迷宮』で取ってきたし、鍛冶代はドゥリンさんがタダにしてくれたから……」
アトロポスの言葉に、イーディスが驚いて訊ねた。
「取ってきたって……? まさか、そのために火龍を狩りに行ったの?」
「うん。丸ごと一匹持ち帰ったから、結構いい金額になったわね」
「丸ごと一匹……? どういう意味?」
アトロポスの理解不能な言葉を聞いて、イーディスが助けを求めるようにバッカスの顔を見上げた。
「そのまま、言葉通りだ。クロトーの姉御の次元転移魔法で、倒した火龍をそのままギルドまで運んでもらったんだ」
「……」
予想も出来ないバッカスのセリフに、イーディスは呆然として固まった。
「だから、火焔黒剣が全部でいくらなのか、俺も知らないんだ」
「はあ……」
笑いながら告げたバッカスに、イーディスはため息しか出なかった。
(やっぱり、この人たち異常だわ……)
「着いたわよ。ちょっと早いけど、入りましょう」
約束の昼の二つ鐘はまだ鳴っていなかったが、アトロポスは二人を促して『伝説の鍛冶屋』へ入った。入口にいたドワーフの女性店員に来意を伝えると、前回と同じ応接室に通された。
「待たせたな」
出されたお茶を飲みながら待っていると、ノックと同時にゾゥリンが入ってきた。その右手には、一本の剣が握られていた。
「これが約束の細剣だ。銘は鏡月冰剣と名付けた」
席を立ったイーディスに細剣を渡しながら、ゾゥリンが告げた。
「これは……!」
手に持っただけで、その剣の持つ凄まじいほどの力を感じてイーディスは驚きに碧眼を大きく見開いた。
「抜いてみろ」
「はい……」
ゾゥリンの言葉に頷くと、イーディスはソファから離れて鏡月冰剣をゆっくりと抜き放った。
「……!」
神聖オリハルコン特有の白銀色に輝く刀身が、陽光を受けて美しい煌めきを放った。鏡月冰剣が放つ凜とした美しさに、イーディスの碧眼は惹きつけられた。
「刀身の長さは七十三セグメッツェだ。重量バランスもお前さんに合わせてある。この世で唯一の姉ちゃん専用の剣だ」
「あたし専用の……剣……」
握り手の太さも質感も、まったく違和感がなかった。イーディスは実感を込めてゾゥリンの言葉に頷いた。
「振ってみろ」
「はい!」
ゾゥリンたちから距離を取ると、イーディスは鏡月冰剣を右肩から突き出すように構えた。打突に徹したレイピアの正式な構えだった。そこからファントと呼ばれる細剣特有の突きを放った。全体重を細剣に乗せ、体を伸ばしきって行う突きだった。
ファントを放つとイーディスはすぐに前足で床を蹴って姿勢を戻した。同時に、袈裟切りに切りつける寸前に腕を内転させ、剣先を下に向けてバンデロールを繰り出した。裏刃とも言われるテクニックで、こうすることにより通常よりも早く相手に剣が届くのだ。
そこから、切り上げ、薙ぎ、払いといった連撃を放つと、イーディスは満足した笑みを浮かべながら鏡月冰剣を鞘に戻した。
「素晴らしいです。まるで自分の体の一部のように、まったく違和感がありません」
「その鍔に蒼く光っているのが、水龍の宝玉だ。<蒼龍神刀>や火焔黒剣と同じく、魔力蓄積は禁呪四倍、魔力増幅は五倍の性能がある。姉ちゃんの覇気を最大二十倍まで増幅できるぞ」
ニヤリと笑いながら告げたゾゥリンの言葉に、イーディスは美しい碧眼を大きく見開いて驚愕した。
「あたしの覇気を二十倍に……!?」
「当然だ。四大龍の宝玉には、それだけの付与に耐えられる許容量があるからな」
予想もしなかった鏡月冰剣の性能に、イーディスは驚きの表情を隠せなかった。
「持ち手と剣鞘は水龍の鞣し革から作ってある。姉ちゃんが使っていた鋼の剣程度じゃ、傷一つ入れられねえ」
イーディスは改めて美しい濃紺色の鞘と持ち手を見つめた。四大龍序列第二位の水龍の鞣し革は、物理耐性、魔法耐性ともに超一流のものを有していた。
「ありがとうございます、ゾゥリンさん。予想を遥かに超えた最高の剣です!」
満面に笑みを浮かべて、イーディスが嬉しそうにゾゥリンに頭を下げた。
「鏡月冰剣は、今まで打った剣の中でも俺の最高傑作だ。<蒼龍神刀>や火焔黒剣にも引けは取らねえはずだ。その剣に恥じない剣士になれよ、姉ちゃん」
「はい! 必ず!」
ゾゥリンの言葉に、イーディスは大きく頷いた。
将来、『夜薔薇』の右腕と呼ばれる女剣士が、生涯にわたる愛剣を手に入れた瞬間であった。