6 麦酒の決意
下級宿『迷子のたまり場』の一階にある食堂は、食事処というよりも酒家であった。宿の女将が酒を出すから朝の一つ鐘まで営業していると言っていたが、客もその大半が赤ら顔をした男たちであった。夜の五つ鐘が過ぎたこの時刻に、若い女の一人客などどこにも見当たらなかった。
(下手をしたら絡まれるかも知れないわね)
買ったばかりの細短剣が左腰にあることを確認すると、アトロポスは小さくため息をついた。
「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
二十代半ばくらいの女性店員がアトロポスに気づいて声を掛けてきた。
「はい……」
彼女に頷きながら、アトロポスは店内を見渡した。十ほどある四人掛けのテーブル席は満席で、冒険者風の若い男女四人組以外に女性客は見当たらなかった。他は職業や年齢の違いはあれど、すべて男同士の客だった。
「カウンターでもよろしいですか? あいにくとテーブル席は一杯ですので……」
「はい、構いません」
下手に見知らぬ男たちと同席になるよりは、カウンター席の方がありがたかった。アトロポスはホッとして女性店員に微笑んだ。
通されたのは一番奥にあるカウンター席だった。左側は壁で、右の席は空席だった。その隣には冒険者風の男二人が並んで火酒を飲んでいた。若い女性一人ということもあって、男の横に座らせないように女性店員が気を遣ってくれたようだ。
「ご注文がお決まりでしたらどうぞ」
羊皮紙のメニューに目を通していると、カウンターの内側から三十代半ばくらいの男性店員が声を掛けてきた。背が高く、冒険者ではないかと思うほどがっしりとした体格の男性だった。酔客のトラブルなどは彼が対応しているのかも知れないとアトロポスは思った。
「ガディの生姜焼きと緑黄野菜のサラダをお願いします。飲み物はキティの果汁で……」
「かしこまりました」
男性店員はアトロポスが差し出したメニューを受け取ると、注文を通すためにカウンターの奥から厨房に入っていった。
「見たか? アルカディア王の晒し首?」
「ああ。あんな王、殺されて当然だな。これで少しは生活が良くなってくれるといいんだが……」
「そうだな。新しい王様、何て言ったっけ?」
「アンドロゴラス王だ。アルカディア王の実弟らしいな」
右隣の冒険者二人の会話が聞こえてきた。その内容に、アトロポスは驚きと違和感を感じた。
(殺されて当然って……? 生活が良くなるといいって……?)
アトロポスが拝命した騎士は、爵位としては士爵であり、レウルキア王国では下級貴族だった。当然のことながら、アルカディア王に拝謁できる身分ではなく、言葉を交わしたことなどなかった。
だが、第一王女であるアルティシアの人となりや彼女の性格を知っているアトロポスは、その父親であるアルカディア王も素晴らしい人物だと信じていた。そして、当然、民衆にも愛され支持されているものだと思い込んでいた。
「税金は高い、物価はどんどん跳ね上がる。俺たち冒険者はまだいいが、商人や職人たちは堪ったもんじゃなかったからな」
「この首都レウルーラなんてまだマシな方だぜ。俺の田舎では重税の上に徴兵までされているんだ。いつ暴動が起きてもおかしくなかったさ」
「民衆から搾り取るしか能がない王様だったからな。元々このレウルキア王国はユピテル皇国やイレスナーン帝国との貿易で成り立っていた国だ。それを税金だけで国を潤そうなんて、できるはずないだろう」
(税金で国を潤す? 何を言っているの、この人たちは……?)
アトロポスは初めて聞く民の声に驚いた。この冒険者たちの声が国民の声だというのだろうか? それとも、この冒険者たちが特別に反社会的な考えを持っているのだろうか?
「それに比べて、新しいアンドロゴラス王は大したもんだ。一年間、税金を半分にしてくれるなんて、俺たち民衆の苦しみを良く分かってらっしゃる」
「ああ。その上、来年からも今より税を下げてくれるそうだしな。それと、ユピテルやイレスナーンだけでなく、今まで国交のなかった神聖デルディス公国やマーラ連邦などとも貿易を始めるらしい」
「俺もそれを聞いたとき、感激したぞ。アンドロゴラス王に乾杯だ!」
男たちはお互いの杯を掲げ合って笑っていた。
アトロポスは注文した料理が目の前に並べられたことにも気づかずに、呆然として男たちを見つめていた。
(そう言えば、ダリウス将軍が言っていたわ……)
アトロポスはダリウスの言葉を思い出した。
『謀反? 人聞きが悪い。これは謀反などではない。国民を虐げる悪逆の王を駆逐するための政変だよ』
その時は何を言われたのか、アトロポスには分からなかった。ダリウスはこのことを言っていたのだろうか?
アトロポスの脳裏に、アルティシアの言葉が蘇った。
『私は運命の糸を紡いでみたい。この国の民が幸せになれるような糸を紡いでいきたい。それが王家に生まれた者の務めだと思うの』
アルティシアは、父であるアルカディア王の悪政を知っていたのかも知れなった。それが国民を苦しめていることに心を痛めていたのかも知れなかった。
(もしかしたら、姫様はその苦悩と決意を私に伝えようとしたのかしら?)
聡明なアルティシアならば、十分にあり得ることだとアトロポスは思った。
(私は姫様のお気持ちに、まったく気づいていなかったのかも知れない。十年間、必死に勉強してきた? 私は何を勉強してきたの? 本や紙の上での勉強よりも、もっと大事なことがあったんじゃないの?)
その考えは、アトロポスに衝撃を与えた。
喉がカラカラに渇いていた。アトロポスはいつの間にか目の前に置かれていたキティの果汁が満たされた杯を掴むと、一気に飲み干した。柑橘系のキティは、口の中に嫌な甘さを残した。
(お酒が欲しい……)
生まれて初めて、アトロポスは酒を欲した。自分の中にある甘さを打ち消したくなって、アトロポスはカウンターの中にいる男性店員に声を掛けた。
「エールをください……」
琥珀色の液体に白い泡が浮かんだエールが目の前に差し出された。よく冷えたエールの杯を傾けて、アトロポスは半分ほど一気に飲み干した。
初めて飲むエールは苦かった。
だがそれは、アトロポスにとって少女から大人になる決別の儀式だった。
食事を終えて部屋に戻ると、アトロポスは革鎧を脱ぎもせずに寝台に腰掛けて考えに沈んだ。
(アンドロゴラスとシルヴァレートは、もしかしたら正しかったのかしら? だからこそ、近衛騎士団を率いるダリウス将軍も彼らに賛同したのかも知れない……)
本来であれば、王を守護する近衛騎士団が、王を捕縛するために動くなどあり得ないことだった。
『剣技は一流でも、政治を理解するにはまだまだのようだな、アトロポス』
ダリウス将軍の言葉が、今更ながらに意味を持ってアトロポスの心に響いた。
(私はどうすればいい?)
アトロポスは自問した。だが、その答えは分かりきっていた。
(何が正しいか、誰が正しいのか、それを見極めるんだ!)
あの冒険者二人の意見が民衆の総意なのか、まずはそれを知らなくてはならなかった。そのためには、自分の視野を広げて色々な情報を得ることが必要だった。
今までのアトロポスにとって、勉強とは算術、歴史、地理、言語などの本を読むことだった。それらが悪いとは思わないが、人として必要な勉強はそれだけではないということにアトロポスは気づいた。
(私は世間を……人間を知らなすぎる。人々の気持ちや考え、希望や欲望、様々な想いを知らなすぎる……)
アトロポスにとっての世間とは、幼少期の孤児院と王宮のごく限られた生活だけだった。
(もっと広い世界を知るにはどうしたらいいんだろう?)
何か職に就いて自分で生計を立て、人との関わりを広げていけばいいのだろうか?
(それも一つの手かも知れない。でも、どんな職に就けばいいのか分からない……)
商人はどうだろうか? 色々な国や人々を相手に商売をすれば、人脈が広がるのではないだろうか?
(でも、元手もなしに商売なんてできないし……。そもそも、商人になるにはどうしたらいいのかさえも分からない)
(あの冒険者たちはどうやって見識を広げていったのかしら?)
漠然とそう考えたアトロポスの脳裏に、天啓が走った。
(冒険者……? そう、冒険者だわ! 様々な依頼を受けて色々な場所に行き、本では分からない経験を得ることができる!)
自分の生死さえ自己責任と言われる冒険者ならば、アトロポスが求める勉強に最適だと思われた。
(明日、姫様の御首を取り戻してきちんと埋葬をしたら、冒険者になろう!)
冒険者になって新しい道を歩むことと、アルティシアの御首を取り戻すことは、アトロポスにとって別のことだった。たとえアルカディア王が悪逆の暴王として処刑されたとしても、最愛のアルティシアまでもが同様に首を晒されることはアトロポスにとって納得ができることではなかった。
アトロポスはアルティシアの御首を奪い返すための計画を練り始めた。