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1 金髪の少女

 阿鼻叫喚(あびしょうかん)


 まさしくそれは地獄図だった。

 

 斬り殺される文官たちの断末魔の絶叫……

 衣服を剥ぎ取られ、犯される女官たちの悲鳴……

 逃げ惑い、突き刺される子供たちの泣き声……


 世界は劫火と殺戮の色に染まり、鮮血と虐殺とに塗れていた。

 守護者たる近衛騎士の姿はすでになく、酸鼻と凄惨の奔流がすべてを圧していた。


「アトロポス……、大丈夫です、きっと助けが来ます……」

 細く小さい体をガタガタと震わせながら、アルティシアはぎゅっとアトロポスの体を抱きしめてきた。

「姫様、私が必ず姫様をお護りします! だから、お静かに……」

 アトロポスは、まだ十四歳でしかないアルティシアの細い体を抱き寄せ、震えている背中に優しく手を廻しながら囁いた。


(まさか、こんなことが起こるなんて……)

 恐怖のあまり萎縮しそうになる気持ちを奮い立たせるように、アトロポスは血が滲むほど紅唇を噛みしめた。



 アトロポスがレウルキア王国第一王女であるアルティシアの元に来てから、今日でちょうど十年だった。正確に言えば、来たというよりも連れてこられたという方が正しかった。

 十年前、六歳の時にアトロポスはお忍びで街に買い物に来ていたアルティシアの馬車に忍び込み、鞄を盗もうとして護衛に捕らえられたのだった。


 アトロポスは孤児だった。生まれてすぐに孤児院の前に捨てられ、両親の名前どころか顔さえも知らずに育った。

 彼女は自分の名前が嫌いだった。何故ならアトロポスという名は、自分と一緒に木箱の中に入っていた紙切れに書かれていた名だと孤児院のシスターから聞かされたからだ。


 孤児院での生活は悲惨の一言だった。レウルキア王国の首都レウルーラにあるその孤児院は、サマルリーナ教の小さな教会に隣接していた。その運営は人々の寄付に頼っていたため、孤児たちは日々の食事さえも満足に与えられていなかった。


 孤児たちの中にも力関係は存在する。年長の力の強い男の子による暴力やいじめはアトロポスにとって日常であり、ひどいときには食事さえも取り上げられた。アトロポスは自分だけであればまだ我慢ができた。だが、自分より年下の女の子の食事を取り上げられたとき、アトロポスは本気でキレた。気づいた時には角棒で年上の男の子をめちゃくちゃに殴っていた。騒ぎを聞きつけたシスターたちが来るのが遅ければ、アトロポスは男の子を殴り殺していたに違いなかった。


 三日間、反省房に入れられたアトロポスは、六歳の子供ながらに考えた。世の中にはお腹いっぱい食べられる子供もいると聞く。何故、自分たちだけが毎日お腹を空かせていなければならないのだろうか。シスターたちにお金がなくてご飯が買えないのならば、もっとお金のある大人に助けてもらえないだろうか。シスターたちが頼んでくれないのなら、あたしが頼みに行けばいい。そうだ、そうしよう。

 アトロポスは反省房から出された翌日に、孤児院を抜け出した。



 街の中心部にある南インディス大通りには、きちんとした身なりの大人たちがたくさん歩いていた。冬だというのにボロボロの薄着一枚しか着ていない自分とは大違いだった。アトロポスは寒さにかじかんだ手に息を吹きかけながら、脇道から大通りを行き交う人々を観察するように眺めた。

(この中で一番お金持ちの人に、孤児院のみんなを助けてくれるように頼むんだ)

 アトロポスは冷たい北風が吹きすさぶ寒空の下、手足を擦りながらじっと待った。


 しばらくの間、大通りを見つめていると、ひときわ立派な馬車が大きな服飾店の前に停まった。その中から高そうな衣服を身につけた男が二人下りてきて、馬車の後部扉を開けた。一人は扉の下に階段のようなものを置いた。もう一人は頭を下げながら、扉に向かって右手を差し出した。


「ありがとう」

 扉の中から小さな手が伸びてきて、当然のように男の手を握った。そして、一目見てアトロポスよりも年下である少女が、その姿を現した。

 美しく整えられた金髪と碧い瞳をした少女……まだ四、五歳の女の子だった。淡青色のドレスを身に纏い、左胸には純白の花が飾られていた。アトロポスはその少女の姿に愕然とし、言葉を失って魅入った。


「お足元にお気をつけください、アルティシア様」

 声を掛けてきた男に微笑みかけると、アルティシアと呼ばれた少女は男に手を取られながらゆっくりと階段を下り始めた。その足にはドレスと同じ淡青色の高価そうな靴を履いていた。

 アトロポスは自分の足元を見た。裸足だった……。


(許せない……!)

 不意に、アトロポスは激しい怒りを感じた。ボロボロの服を纏い、寒空でガチガチと震えている自分の手を見つめた。寒さのあまり真っ赤になっていて、指先には幾筋ものあかぎれ(・・・・)があった。冷たい石畳は容赦なく体温を奪い、足の裏の感覚は麻痺していた。

 アトロポスは眼を閉じて、孤児院の弟や妹たちの姿を思い浮かべた。彼らは今の自分と変わらず、お腹を空かせながら寒さに凍え、毎日牛馬のように働かされていた。


 あの少女の靴一足で、何人がお腹いっぱい食べられるのだろう。あのドレス一着で、何人分の服が買えるのだろう。

(あたしたちとあの子で、何が違うの?)

 アトロポスの頭の中から、裕福な大人に助けてもらうという考えが消え去った。

(奪ってやる! 何でもいい! あの子から、奪ってやるわ!)

 アトロポスはゆっくりと馬車に向かって歩き出した。


 少女と二人の男が服飾店に入っていったのを見極めると、アトロポスは早足に馬車に近づいた。馬車の御者台には若い男が座っていたが、アトロポスには気づいていないようだった。

(今だッ!)

 アトロポスは身を翻すと、馬車に走り寄って階段を駆け上った。そして後部扉を開けて中に入り、座席の上に置かれていた鞄に手を伸ばした。


「そこまでだ! 子供のいたずらにしてはオイタが過ぎるぞ!」

 アトロポスは鞄を掴もうとしていた右手を止めた。その首元に抜き身の長剣が押しつけられていた。

(見つかった……。殺される……)

 陽光を反射してキラリと光る刃を視界の隅に見ながら、アトロポスの心臓はバクバクと鼓動を早めた。


「怪我をしたくなかったら、馬車から降りるんだな、お嬢ちゃん」

 シャキンと音を立てて長剣を鞘に戻すと、御者台にいた若い男は笑みを浮かべながらアトロポスに向かって告げた。どうやら単なる御者ではなく、護衛も兼ねていたようだ。

(逃げないとッ!)

 アトロポスは右手で鞄を掴むと、男の顔めがけて投げつけた。そして、男が怯んだ隙に馬車から飛び降りて駆けだした。


「とんだじゃじゃ馬だな」

 だが、男はアトロポスの左手を掴むと、後ろから抱きとめるように彼女を拘束した。

「離せぇ!」

 軽々と持ち上げられながら、アトロポスは両脚でバタバタと宙を蹴った。


「どうしたのですか、ベネディクト?」

 思わず聞き惚れてしまうような可愛らしい声に、アトロポスは動きを止めて背後を振り返った。そこには二人の男たちを従えた金髪の少女が興味深そうな碧眼でアトロポスを見つめていた。


「アルティシア様。この子が馬車に忍び込んでアルティシア様の鞄を盗もうとしたのです。衛兵に突き出して参りますので、アルティシア様はお買い物をお続けください」

 大人しくなったアトロポスを地面に下ろしながら、男がアルティシアという少女に頭を下げた。だが、男の手はアトロポスが逃げられないように、彼女の左腕をしっかりと握っていた。


「あなた、私よりもお姉さんですよね? 人の物を盗むのはいけないことだと教わっていないのですか?」

 不思議そうな表情でアトロポスを見つめながら、アルティシアが訊ねてきた。その言葉を聞いて、アトロポスはカッとした。自分よりも年下の少女に馬鹿にされたように感じたのだ。


「あんたに言われなくても、そのくらい分かってるわよ!」

 アトロポスは怒りを湛えた黒瞳で、アルティシアを真っ直ぐに睨みつけながら叫んだ。

「だったら、何故……?」

「弟や妹たちが、毎日お腹を空かせているのよ! 綺麗な服を着て大人に護られているあんたに、食べる物さえないあたしたちの気持ちが分かるのッ! んぐっ……!」

 ベネディクトと呼ばれた男がアトロポスの口を左手で塞いだ。アトロポスは激しく首を振ったが、大人の男の力に敵うはずもなかった。


「おい、誰に向かってそんなことを言っているか分かっているのか? 本来であれば、お前など口を聞くことさえできないお方だぞ!」

 厳しい視線でアトロポスを睨むベネディクトを遮ったのは、アルティシアと呼ばれる少女だった。


「ベネディクト、乱暴は止めてください。私は彼女と話をしたい。買い物は中止します。彼女を馬車に乗せて、一緒に戻ります」

「しかし、アルティシア様……」

「構いません。言うとおりにしてください」

 四、五歳の少女とは思えぬほどの威圧をその小さな体から放ちながら、アルティシアはベネディクトに向かって命じた。

「ハッ! かしこまりました、アルティシア様」

 ベネディクトは少女に向かって深く頭を下げると、有無を言わさずにアトロポスを連れて馬車に乗り込もうとした。


(何なの、この子は……?)

 自分よりも年下の女の子が大人の男たちに命令する様を見て、アトロポスは驚愕しながらアルティシアの顔を見つめた。その視線に気づくと、アルティシアは優しげな微笑みを浮かべて、アトロポスに向かって言った。

「心配しないでください。お姉さんの弟さんたちには、私がお腹いっぱい食べさせてあげますから……」


 その少女がレウルキア王国の第一王女であることを、アトロポスは王宮に向かう馬車の中で知らされた。


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