第851話 落胆と学習と信頼
その後クレエとディープシーサーペントは、海の女王達も交えて様々な話をした。
ディープシーサーペントについては、年齢は約五百歳くらいだとか、脱皮は年に二回で春と秋にするとか、いつもはいろんな海域に出かけているだとか、人族側には全く知り得ない貴重な新情報ばかり。
それを聞いているクレエも、目を輝かせながらメモを取る。
もちろんそのメモ帳は、クレエのベレー帽から出てきたものだ。
完全休日の日にまで愛用のメモ帳を持ち歩くとは、クレエの勤勉さが如実に表れている。
そして、ディープシーサーペントの『お姉さんのお話も聞きたいなー♪』というリクエストに応えて、クレエも己のことを話していく。
例えば自分は十二姉妹の二番目で、一人の姉と十人の妹がいること、普段は冒険者ギルドという組織の受付嬢という仕事をして過ごしていること、趣味はレース編みやジョギング=陸を走ること、などなど。
ちなみにディープシーサーペントが考え無しに発した『クレエたんって、何歳なのー?』という無邪気な質問に対しては、クレエがディープシーサーペントにだけこっそりと耳打ちしていた。
ディープシーサーペントに向かってチョイ、チョイ、と頭を引き寄せて、己の声が漏れないよう両手で口の周りを隠しながら、ゴニョゴニョと呟くクレエ。
ディープシーサーペントの『うん、うん、分かったー♪』という能天気な返事に反して、相当厳重な口止めをしていると思われる。
それにしても、もしこの質問をレオニスがしていたら―――間違いなく全治○年の刑に処されることであろう。
レオニスどころか、ライトでさえ命の危険を感じる超危険な質問だ。
これを聞くのが許されるのは、己のことを慕う無邪気な蛇龍神やラウルなどの人族以外の長寿種族くらいのものであろう。
そうして二者が打ち解けてきたところで、クレエがふとディープシーサーペントに質問をした。
「そういえば。最近のデッちゃんは、私目当てにエンデアンに来ていたと聞きましたが……」
『うん!ちょうどボクちんが久しぶりに人里に遊びに行った時に、淡紫色の可愛いいお姉さんがいたのが見えてね? あんまりにも可愛いもんだから、すっごく気に入っちゃったんだー♪』
「直近の来訪は分かりますが……私が生まれるずーっと前から、デッちゃんはエンデアンに度々来てましたよね? それは、どうしてなんですか? 何か理由があったのですか?」
クレエがディープシーサーペントに聞きたかったのは、エンデアンへの襲来理由だった。
少し前まで、ディープシーサーペントが毎日のようにエンデアンに来ていたのは、クレエ目当てだったことは判明している。
だが、エンデアンとディープシーサーペントとの因縁関係は数百年にも及ぶものだ。
それは当然のことながら、クレエが生まれる以前から続く因縁であり、クレエ以外にもディープシーサーペントを引き寄せる何かがあるということである。
それを知っておかないことには、エンデアンに真の平和は訪れない。
『ンぁ? えーとねぇ……ボクちんがたまぁーに人里に遊びに行ってたのはぁー、いくつか理由があってぇー』
「それは一体何でしょう?」
『まず、人里って海にはないものがたくさんあるでしょ? だから、物珍しくて見てて飽きないのとー』
「ふむふむ」
『他にはねぇ、人里の近くの海って美味しいお魚が多いんだよねぃ♪』
「ぁー、普通に食事をしに来てたってことですか……」
ディープシーサーペントが語るエンデアン襲来の理由に、懸命にメモを取るクレエは逐一頷きながら納得している。
それらは言うなれば、一つ目は観光、二つ目は食事。
確かに海の中と陸の上のものは全く異なるし、エンデアン近郊の海域は魚介類が豊富で漁獲量も多い。
聞けば納得の理由なのだが、クレエとしては何とも気の抜けるような理由である。
『あ、あとねー、遊びに行くとニンゲン達がボクちんと遊んでくれるからー♪』
「……遊んで、くれる?」
『うん!ボクちんが人里の港?に行くとね、たくさんの人族が集まってきてさ、なんかわちゃわちゃしてんのー!』
「それ、は…………」
思いっきり口角を上げて、ニヨニヨと笑うディープシーサーペント。
一応注記しておくと、これは決して人族のことを小馬鹿にした笑みではない。心底楽しそうな笑顔を浮かべているのだ。
だが、それに反してクレエの表情は沈む。
「そうですよね……デッちゃんからしてみれば、私達人族の抵抗など無意味で……さぞ滑稽だったでしょうね……」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
落ち込んだクレエが、ぽつりと呟く。
ディープシーサーペントが言うところの『人族がたくさん集まってわちゃわちゃしている』というのは、ディープシーサーペント撃退のために集結した冒険者達のことを指している。
クレエ達人族側にしてみれば、毎回決死の思いでディープシーサーペントに挑んでいるというのに―――
クレエ達の必死なまでの苦労は、ディープシーサーペントからしたら児戯にも等しい瑣末なものだったのだ。
それは誰が悪いという問題ではない。
強大な力を持つディープシーサーペントからしたら、脆弱な人族が束になってかかったところで痛くも痒くもなかろう。
そしてクレエ達は、ディープシーサーペントが海底神殿を守護する蛇龍神だということを、レオニスから聞かされるまでずっと知らなかった。
非常に厄介な魔物として、冒険者ギルドエンデアン支部では『特殊案件』に指定されていたディープシーサーペント。よもやそれが蛇龍神だとは、クレエ達からしてみたら青天の霹靂もいいところだ。
クレエの目に見える激しい落ち込みは、己を含む人族の無力さを儚んでいた。
そんなクレエの様子に、ディープシーサーペントはきょとんとしながら声をかける。
『滑稽? そんなことなぁいよ? そりゃね? ちょっと前までは、ボクちんも『人族って、弱っちいなー!』なーんて思ってたけど。今は全ー然そんなこと思ってないし』
「……え? ……そうなんですか?」
『うん。むしろ海の女王たんの言う通り、人族コワイ!って思うもん』
「人族が……怖い? 蛇龍神であるデッちゃんが……人族のことを怖れるなんてことが、あるんですか……?」
『うん!』
ディープシーサーペントの意外な言葉に、俯き項垂れていたクレエが少しづつ頭を上げてディープシーサーペントを見つめる。
そんなクレエの視線に、ディープシーサーペントは気づくことなくフンスフンス!と鼻息も荒くまくしたてる。
『人族コワイ!ってことをね、ボクちんは知ってるの。だってボクちん、賢いからねぃ!』
『てゆか、ボクちんが人族コワイ!って思うようになったのは、主にそこにいる赤い悪魔のせいなんだけどね?』
『ボクちんの尻尾をちょん切るなんて、そんな暴虐な人族、生まれて初めて見たよ!ホンットあの時はすっごく痛くて怖くて、ボクちん大泣きしちゃったんだからねッ!ョョョョョ……』
己の過去の経験をまくしたてつつ、レオニスをちろりと見遣るディープシーサーペント。
数年前にレオニスと出食わして尻尾をちょん切られたことが、余程恐ろしかったらしい。その時のことを思い出してか、涙目どころか本当に涙をポロポロとこぼして泣くディープシーサーペント。
ディープシーサーペントの横で、海の女王が胴体を優しく撫でながら『デッちゃん、泣かないで、落ち着いて』と慰めている。
ディープシーサーペントは、レオニスとの戦闘を経て『人族コワイ!』と認識を改めたという。
だがしかし。悲しいかな、ディープシーサーペントの記憶力はあまりアテにならない。
人族コワイ!と知りつつも、そのことをケロッと忘れて再びエンデアンを訪れてはクレエ達冒険者に撃退されてきた。
エンデアンとディープシーサーペントの、長きに渡る因縁の対決。それを解決できるのは、他ならぬクレエであった。
「デッちゃん、今から私が言うことをよく聞いてください」
『ョョョ……ン? クレエたん、ナぁニ?』
「デッちゃんが今後、エンデアンの街を襲わないと約束してくださるのであれは、私達人族もデッちゃんに危害を加えることはいたしません。冒険者ギルドに常時出ている、デッちゃんに対する討伐の特殊案件も撤回するよう、私から上に掛け合いましょう」
『……ホント?』
「ホントです。クレア十二姉妹の次女、クレエの名に賭けて誓います」
クレエの真剣な眼差しに、ディープシーサーペントもクレエのラベンダー色の瞳を食い入るように見つめる。
「ただし、人族がデッちゃんを襲わないためには、デッちゃんにも守っていただきたいことがございます」
『それは、ナぁニ?』
「エンデアンの港には、決して近づかないでください」
『…………』
クレエの話を、ディープシーサーペントはじっとおとなしく聞いている。
その後もクレエはディープシーサーペントに言い聞かせるように、静かに語り続けた。
「少なくとも、人の目で目視できるくらいの近距離はダメです。はるか遠くに頭がちょこん、と見えるくらいならいいですが……」
「今までのように上陸しそうなくらいに近寄られると、人族は恐怖を感じてデッちゃんを退治しようとします」
「ほら、デッちゃんはとても身体が大きいでしょう? デッちゃんに比べたら、我々人族は本当に小さくて、無力で…………」
ディープシーサーペントに言い聞かせているうちに、再びクレエが俯き沈んだ顔になる。
それは、己の無力さを改めて思い知るが故の仕草か。
しかし、その無力さを払拭するかのように、パッ!と上を向いてディープシーサーペントをじっと見つめた。
「でも、人族には守るべきものがたくさんあります。それは住む家や家族、友人、恋人……愛する者を守るためなら、例えそれが神であろうと、人族は敵対者を討ち滅ぼすべく立ち向かうのです」
「ですが……今日こうしてデッちゃんとお話ししてみて、私は思いました。デッちゃんは人族の真の敵ではない、と」
『…………ッ!!』
クレエの言葉に、ディープシーサーペントはハッ!とした顔になる。
かつてのディープシーサーペントにとっては、人族など取るに足らぬオモチャと大差なかった。
それは蛇龍神故の驕りと言われても仕方がないし、神とはむしろそう思って当然な力がある。
だが、ディープシーサーペントはたった一人の人族、レオニスによって驕り高ぶった心をへし折られ、考えを改めるに至った。
そしてお気に入りの人族も見つけた。
赤い悪魔のような怖い者もいれば、淡紫のお姉さんのように可愛らしい者もいる。
ディープシーサーペントは今、人族の何たるかを学んでいる真っ最中なのだ。
クレエはそのことをよくよく理解している。
そして、人族の方から蛇龍神をより深く理解しようと歩み寄ってくれている。
そのことにディープシーサーペントは深い感銘を受けていた。
「もちろん私達の間には、いろんな困難や障壁があります。デッちゃんはこれまでずっと、私達エンデアンの住民と戦ってきた相手ですし、人族側もすぐに和解などできないでしょう。特に人族側の蟠りは強く大きいです」
『うん……そうだよねぃ……』
「ですが!私達が手を取り合えば!いつかは!エンデアンの住民達も!きっと分かってくれるでしょう!私はそう信じています!」
『クレエたん……』
人族と蛇龍神、両者の和解を強く説くクレエに、ディープシーサーペントの瞳がうるうると潤んでいく。
「今日一日、ほんの少しお話しただけでは全然足りません。デッちゃんとはこれからも、いろんなことをたくさん話し合っていきたいと私は思っています」
『うん!ボクちんも、クレエたんともっともっとお話ししたい!』
クレエの言葉に、ディープシーサーペントも長い胴体をクネクネさせて喜んでいる。
だが、事はそう簡単には運ばないことをクレエは知っていた。
「でも、まだ今のうちはデッちゃんがエンデアンに来るのはマズいです。私以外のエンデアン住民の理解を得るまで、まだまだ時間がかかるでしょう」
『そうだよねぃ……ボクちんの方から会いに行くと、またクレエたんに迷惑がかかっちゃうよねぃ……』
「そうなんです。そこで、レオニスさんに相談があるのですが」
突如クルッ!とレオニスの方に向き直るクレエ。
クレエからのいきなりのご指名に、レオニスは己の顔を指差しながら『ン? 俺?』という顔をしている。
そんなレオニスの驚愕などどうでもいい、とばかりにクレエがレオニスに向かって尋ねる。
「デッちゃんが大手を振ってエンデアンに来れない以上、私の方からデッちゃんに会いに行かねばなりません」
「まぁ、そうなるわなぁ」
「しかし、私は普通の人間ですので。デッちゃんを呼び出す手段など持っていません」
「ンー……お前が『普通の人間』ってのには同意しかねるが……クレエ側からの接触手段がないってのは、まぁそうだよなぁ」
クレエからの問いかけ形式の話に、いちいち同意するレオニス。
一部同意しかねる部分があるようだが、もちろんクレエがそれに同意することはない。
「そしたら、私からデッちゃんに連絡を取るには、どうしたら良いでしょう? レオニスさん、何か良い案はありませんかねぇ?」
「うーーーん……それは多分、海の女王に相談した方がいいんじゃねぇかな?」
突如クルッ!と海の女王の方に向き直るレオニス。
レオニスからのいきなりのご指名に、海の女王は己の顔を指差しながら『ン? 私?』という顔をしている。
そんな海の女王の驚愕などどうでもいい、とばかりにクレエが海の女王に向かって尋ねる。
「海の女王様、畏れ多くもお願いしてもよろしいでしょうか?」
『貴女の方からデッちゃんと連絡を取る方法ね? 分かりました、ではまず私の方から貴女にこれを授けましょう』
海の女王はそう言うと、目を閉じ手のひらの上に魔力を込める。
その数秒後には『海の勲章』が出来上がった。
女王の手のひらの上に出来上がった海の勲章を、女王自らがクレエの手を取りそっと渡した。
『これは、私が認めた者に対してのみ授ける勲章。これを持っていれば、貴女は海に生きる全ての正しき者達に仲間として認められます』
「そ、そんな大事なものを、私に授けてくださるのですね……ありがとうございますぅ」
海の女王から直々に勲章を授けられたクレエ。
身に余る栄誉に、クレエはただただ感激している。
『ただ、これを持つだけではデッちゃんと自由に交信できる訳ではありません。後程人魚達が使う呼び笛を用意し、水の姉様に託します。そして水の姉様を通して、レオニスもしくはライトから呼び笛を受け取ってください。勲章と呼び笛、二つを揃えることでデッちゃんとも連絡が取れるようになるでしょう』
「海の女王様のご厚情、深く感謝いたします」
海の女王の追加説明に、クレエが深々と頭を下げる。
ディープシーサーペントと連絡を取れるのは、今のところ海の女王だけだ。彼女がディープシーサーペントに直接語りかけることにより、ディープシーサーペントは海の女王の意志を尊重して駆けつけてくる。
海の勲章と呼び笛、これを使えばクレエの方から海の女王と連絡を取ることができるようになり、結果ディープシーサーペントとも連絡が取れるようになる、という寸法だ。
大海原にも負けぬ青色をしていた空が、薄っすらと茜色を帯びている。
そろそろクレエをエンデアンに返さねばならない。
海の勲章のやり取りが無事終わったところで、レオニスが海の女王に声をかける。
「話は尽きないだろうが、そろそろ日が暮れてきた。クレエもエンデアンに帰らなきゃならん」
『そうね、日が落ちる前に帰らねばならないわね。デッちゃん、私達もそろそろ帰りましょうか。アクア様と水の姉様、申し訳ございませんがもう少しだけお付き合い願えますか? 先程申し上げた呼び笛を、水の姉様にお渡ししたいので』
『もちろんよ!……って、ライトとラウルはこれからどうする?』
水の姉妹達の和やかな会話の中、水の女王がライトに話を振ってきた。
ライトとラウルは顔を見合わせつつ、二言三言言葉を交わした後水の女王に返事をした。
「ぼく達は、レオ兄ちゃんとクレエさんといっしょに帰ります。水の女王様、アクア、また目覚めの湖に遊びに行きますね!」
『分かったわ。また後日会いましょうね!』
「海の女王様もデッちゃんも、また海底神殿に会いに行きます!」
『ええ。貴方達がまた来てくれる日を、心より楽しみにしているわ』
『クレエたん、ライト君、ラウル君、まッたねー♪』
まず海の女王とディープシーサーペントが海に戻り、水の女王とアクアが海の女王達の後をついていき海の中に消えていく。
そして崖に残ったクレエとレオニス、ライトとラウルは水の姉妹や守護神達を見送った後、エンデアンに向かって戻っていった。
——クレエとデッちゃんの内緒話——
ク「デッちゃん……これは、決して誰にも言ってはいけませんよ?」
デ『うん!』
ク「例え海の女王様相手であっても、絶対にナイショですからね?」
デ『うんうん!』
ク「私は今年で【ピーーー】歳になります」 ←自主規制音
デ『そうなんだー!』
ク「これはデッちゃんと私だけの、秘密ですからね?」
デ『うん、うん、分かったー♪』
クレエが囁く『二人だけのヒ・ミ・ツ♪』。
その甘美な響きに、デッちゃんもコロッと陥落イチコロです。




