第850話 初めての会話
名も無き小さな崖の上で、無言のまま対峙するクレエとディープシーサーペント。
そこに、ディープシーサーペントの背中にいた海の女王が二者の間に進み出た。
浮遊しながらクレエの真ん前まで来た海の女王。その美しさに、クレエは思わず息を呑む。
そして海の女王は、クレエの瞳をじっと見つめながら徐に口を開いた。
『貴女が、デッちゃんがお気に入りだという人族の女性?』
「……ぁ、はい、おそらくそうだと思います」
『私は海の女王。貴方の名は?』
「クレエと申します。海の女王にお目通りが叶い、恐悦至極に存じます」
海の女王からの問いかけに、それまで海の女王に見惚れていたクレエはハッ!と我に返る。そしてすぐさま恭しく頭を垂れつつ名乗った。
クレエは超有能な受付嬢ではあるが、所詮は外壁に守られた街の中で暮らす一般人。冒険者ではないので、海の女王のような特殊な者と直接会うことなどまずない。
しかし、そんなクレエでも今目の前にいる海の女王が高位の存在で、滅多に会えるものではないことは分かる。
そこへきて、属性の女王は皆見目麗しく圧倒的なオーラをまとっている。そのあまりの神々しさに、クレエの頭が自然と垂れるのも頷けるというものだ。
『なかなかに礼儀正しい人族ね。でも、貴女に会いに来たのは私ではないの。私の後ろにいるデッちゃんなの』
「はい。ここにおられるレオニスさんからも、そのように聞き及んでおります」
『デッちゃんが、貴女をひと目見たくて人里に何度も押しかけていたそうね。そのことについては、私からも謝るわ。さぞ迷惑だったことでしょう、ごめんなさい』
「そ、そんな……まぁ、確かに毎日のようにデッちゃんにお越しいただくのは、さすがに困りましたけども……」
海の女王からの謝罪に、慌てたクレエは一瞬だけ止めようとする。
だが、ディープシーサーペントの度重なる襲来に、エンデアンがほとほと困り果てていたのは紛れもない事実だ。
故にクレエも、お世辞にも『いいえ、そんなことはないです!』とは言えなかった。
「で、でも……それは海の女王様のせいではありませんし、謝っていただく必要もございません。デッちゃんの方から、今後無闇矢鱈にエンデアンを襲わない、とお約束してくだされば、それでいいです」
『それはまたデッちゃんとよくお話ししてね。もちろん私からもデッちゃんにはよくよく言ってあるんだけど……この子、私の言うことはなかなか聞いてくれないのよね』
クレエの要求に、海の女王も頷きはするものの、ズーン……と落ち込んだ表情になる。
神殿の守護神は、大抵がおとなしくて理知的かつ従順な者が多いのだが、ディープシーサーペントは今のところ唯一の例外で、海の女王は日々ディープシーサーペントに手を焼いている。
今日も今日とてディープシーサーペントの尻拭いをしているようなものだ。
海の女王の苦労が忍ばれるというものである。
そんな海の女王の落ち込んだ様子に、クレエは若干同情しつつも話し合いに同意する。
「分かりました……って、凡人の私が、どうやってデッちゃんとお話しすればいいので? デッちゃんも人語を話されるのですか?」
『ン? 貴女、レオニスからアレをもらってはいないの?』
「アレ、とは?」
クレエにしてみれば、蛇龍神と対話するのはいいが人語のままでも言葉が通じるかどうかすら分からない。
それを海の女王に尋ねたのだが、何故かその責任の所在をレオニスに投げつける海の女王。
クレエがレオニスの方に振り返ると、レオニスは『ン? 俺?』という顔をしつつ、すぐにアレが何であるかに思い至る。
「ああ、アレな、飯の後に渡すつもりで忘れてたわ」
「レオニスさん……まだ寝呆けてるんですか?」
「ぃゃ、すまんすまん、腹いっぱい昼飯食ってつい油断してただけだ」
「ったくもう……」
ジト目のクレエに睨まれつつ、慌てて空間魔法陣を開くレオニス。
そして、海の女王が言うところのアレ、『水神の鱗』を取り出した。
七色に輝く鱗を見たクレエ、その煌めきの美しさに感嘆の声を漏らす。
「ンまぁぁぁぁ、すっごく綺麗ですねぇ……それ、鱗ですか?」
「ああ、これは『水神の鱗』といってな。これを一欠片飲み込むと、ディープシーサーペントや水の精霊なんかの声が聞けるようになるんだ」
「はぁー……この世にはそんなすごい物があるんですねぇ……」
レオニスが水神の鱗の解説をしながら、親指と人差し指の爪で鱗を摘んで折り取る。
そうして取れた、小指の爪の先程の鱗の欠片。それをクレエの手のひらの真ん中に乗せた。
「ほれ、これを飲み込め」
「……分かりました……」
手のひらに乗せられた鱗の欠片を、じっと見つめるクレエ。
これは、紛れもなく神の力を宿した品だ。
そんな凄いものを、一介の受付嬢に過ぎない自分が果たして取り込んでいいものなのか―――クレエが躊躇するのも無理はなかった。
だが、ディープシーサーペントの声が聞き取れなければ、話し合いなどできようはずもない。
今日のクレエは、ディープシーサーペントに会って直接話をするためにここに来たのだ。
なればこそ、これ以上迷うことはない。意を決したクレエは、己の右の手のひらに乗せられた鱗の欠片をペロッ、と舐め取り、そのままコクン、と飲み込んだ。
皆がクレエを見守る中、数秒が経過した。
クレエの中で突如力が湧き出てくるとか、そういった劇的な変化は特に感じられない。
だが次の瞬間、クレエの耳に聞き慣れない声が飛び込んできた。
『……お姉さん、大丈夫?』
それは、ディープシーサーペントの声だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
生まれて初めて聞いたディープシーサーペントの声に、クレエは目を大きく見開き驚いている。
そんなクレエの顔を、心配そうに覗き込むディープシーサーペント。
眉間に皴を寄せ、口をへの字に曲げて長い胴体をクネクネと動かしている。
その仕草は、クレエの身を案じてオロオロとしているようだ。
あのディープシーサーペントが、自分の身を案じてくれている―――そのことに気づいたクレエの表情が、だんだんと柔らかくなっていく。
落ち着きを取り戻下クレエは、小さく微笑みながらディープシーサーペントに声をかけた。
「デッちゃん、初めまして。私はクレエと申します」
『……初めまして!』
大好きなクレエから声をかけてもらえたことに、ディープシーサーペントの顔がパァッ!と明るくなり、瞬時に綻ぶ。
花咲くような笑顔のディープシーサーペントに、海の女王も嬉しそうにディープシーサーペントの胴体を優しく撫でる。
『クレエ……うん、とっても可愛いお名前で、お姉さんによく似合ってるねぃ!』
「まぁ、この名前をそんなに褒めていただけるなんて、初めてのことでとっても嬉しいですぅ」
『ボクちんも、とってもうれぴー!お姉さんが、デッちゃんってボクちんの名前を知っててくれたなんて……チョー感激ィ!』
クレエに名前を呼ばれたことで、ますます身体をクネクネとさせるディープシーサーペント。どうやら照れているようだ。
デカい図体で照れまくるディープシーサーペントは、傍から見たらかなりキモい。歯を剥き出しにしてニヨニヨと笑う不気味な笑顔と相まって、胡散臭いことこの上ない。
だが、そんな不気味な仕草も『これはとても喜んでいるのだ』ということが分かっていれば、気持ち悪さも薄れてくるから不思議なものだ。
むしろ傍で見守っているライト達の中では、その強烈なブサカワ顔がもはや癖になりそうな気さえしてくる。
もしこのサイサクス世界に『ブサカワ世界選手権』なるコンテストがあれば、いの一番に殿堂入りするであろう。
双方の挨拶を済ませた後、クレエの方から今日の本題を切り出した。
「デッちゃん、今日はお願いがあってまいりました」
『うん、ナぁニ?』
「今まで何度も私の住む街、エンデアンに来てくださいましたが……貴方様の強大なお力は、未熟で脆弱な人族にとっては受け止めきれないものなのです」
『うん……それは、海の女王たんや赤い悪魔からも聞いた……本当に、本当にごめんなさい』
クレエが切り出した話に、それまでニッコニコ笑顔だったディープシーサーペントの顔が瞬時に曇る。
そして、己の所業によりクレエ達人族に迷惑をかけていたことを素直に謝る。
しかし、ディープシーサーペントの『赤い悪魔』という言葉を聞いたクレエが「ブフッ!」と盛大に噴き出した。
「ゲホッ、ゴホッ……と、とりあえずですね。デッちゃんにご理解いただけたことは、本当にありがたいことだと思いますぅ」
「クレエ……お前、何でそこで咽てんの?」
「え"ッ!? ぃゃぁ、そんなぁ……『赤い悪魔』とは、実に言い得て妙な愛称だなぁ、と……ちょーっとだけ、思っただけですよぅ?」
「お前ね、アレを『愛称』と言うか……」
ディープシーサーペントに相変わらず『赤い悪魔』と呼ばれるレオニス。
あまりにも似合い過ぎる呼び名に、ついつい噴き出してしまったクレエを今度はレオニスがジト目で睨む。
そしてそんなレオニスを、今度はディープシーサーペントがジロリと睨む。
『クレエたん!コイツに悪さされたら、いつでもボクちんに言って!ボクちんがお仕置きするから!』
「大丈夫ですよ、レオニスさんはそんな悪い人ではありませんから」
『そう? クレエたんがそう言うなら……でも、いつでもボクちんを頼ってね!』
「ありがとうございますぅ」
クレエとディープシーサーペントの交流が順調に進んでいく。
予想以上に和やかな空気に、ライト達も微笑みながらクレエ達を見守っていた。
クレエとディープシーサーペントの交流開始です。
ディープシーサーペントは、100メートルを超えるかという蛇龍神。それを目の前にして、失禁したり卒倒して倒れないだけでもクレエの豪胆さが分かるというものです。
一方で、レオニスとディープシーサーペントの仲は未だにアレですが。そのうち和解できるといいなぁ。




