第706話 勝利の勝鬨
そしてレオニス達は、その後夜明けが来るまで懸命にユグドラツィに向かって浄化魔法をかけ続けた。
基本五者体制で二十分置きに交代しつつ、全力でユグドラツィにまとわりつく黒い炎のような瘴気を抑えている。
首狩り蟲の邪魔がなくなったので、浄化魔法に専念できるようになったことが大きいのか、最初にユグドラツィの異変を見た時に比べたらかなり抑えられているように見える。
だがそれでも、完全に抑えるまでには遠く及ばない。
まだまだ黒い炎の勢いは健在で、それは即ちユグドラツィの身の内に潜む邪悪な何かが未だにユグドラツィの生命を吸い取り続けていることの証左でもあった。
八咫烏達の人員交代の際には、一度に抜けずに一羽づつ移動するようにしているのだが、一羽抜けた瞬間すぐに黒い炎が威勢よく噴き出す。
これは、レオニス達の瘴気を抑える力と謎の繭が放つ瘴気の力がほぼ同じレベルで拮抗していることを示している。
ほんのちょっとの油断でも命取りになりかねない。レオニス達には息つく暇すら許されなかった。
しかしいつの頃からか、回復サポートを担当していたライトが八咫烏達にラウル特製スイーツを振る舞い始めた。
それは、ただエクスポーションやアークエーテルを飲むだけでは精神的な疲労は取れないだろうから、というライトのささやかな配慮だ。
サクサクとした生地のカスタードクリームパイや、一口大で食べやすいボール状の揚げドーナツ、しっとりとした甘さのスイートポテトなど、自慢のスイーツでアラエルのもとに戻ってきた八咫烏達の疲れを癒していく。
八咫烏達も、普段ならとっくに就寝しているはずの時間にずっと起きているので、かなり疲労が蓄積してきている。
それは首狩り蟲が消えて以降の、浄化魔法に専念するようになってから顕著に現れてきた。
交代の休憩二十分に降りてきた八咫烏は、ライトが出してくれるスイーツを食べてほっと一息つき、アラエルの回復魔法を受けた後皆その場で仮眠を取るようになっていった。
野に生きる八咫烏達のことだ、百二十年前の襲撃事件などを除けば人間のように徹夜することなどほとんどなかったに違いない。
だが、こんな戦時下のような極限状態であっても、愚痴を零したり文句を言う八咫烏は一羽もいなかった。
それは、この戦いが八咫烏達が敬愛する大神樹ユグドラシアの妹を救うためという、とても重大な使命であると同時にマキシの敵討ちでもあったことが大きい。
無数の骸骨の群れを操り、八咫烏の里を襲い大神樹とマキシに魔の手を伸ばしマキシの魔力を長年搾取してきた廃都の魔城の四帝。
その悪辣な奸計に対する怒りもまた、この場にいる全ての八咫烏達の強い原動力となっていた。
そして、一分一秒が長い時間のように感じられる中、時は少しづつ、だが確実に過ぎていく。
地平線が全く見えなかった夜の闇にもようやく終わりの時が近づき、森と空の境界線がじわじわと顕わになってきていた。
「もうすぐ夜が明ける!皆、あと少しだけ頑張ってくれ!」
自らも浄化魔法をかけ続けながら、ラウルやマキシ達八咫烏に激励の声をかけるレオニス。
あれほど蒸し暑かった長い夜の空気は、ほんの僅かなひと時だけ訪れる朝の清涼な空気に次第に入れ替わっていく。
そこからレオニスは、上空にいるヴィゾーヴニル達をずっと注視している。いつ何時、ヴィゾーヴニルの身体に能力強化の魔法陣がかけられるか分からないからだ。
東の空が少しづつ白さを増していく。
そしてヴィゾーヴニルの身体に、謎の魔法陣がかけられて吸収されていくのがレオニスの目に映った。
「ヴィゾーヴニルの準備が整ったようだ!皆、少しづつここから離れろ!」
レオニスの合図を機に、ラウルや八咫烏達が徐々にユグドラツィの周囲から離れていく。
離れれば離れるほど、今まで皆で抑え込んできた黒炎が再び勢いを増していく。隆盛を誇る黒炎からは、ケタケタケタ……という甲高い笑い声のような、非常に耳障りな音まで聞こえてきた。
それはまるで、ユグドラツィの中に巣食う邪悪な何かが『お前達虫けらの悪足掻きなぞ無駄だ』と嘲笑っているかのようだ。
するとその瞬間、上空から明るい光が降り注ぐ。
それは太陽の光ではなく、魔法陣から発する光。ピースが言っていた、魔力増幅の魔法陣が出現したのだ。
眩いばかりに燦然と輝く巨大な魔法陣に、皆しばし我を忘れて上空に見入る。
その魔法陣は、巨大なヴィゾーヴニルの身体をもはるかに上回る超巨大なものだった。真ん中の大きな円形の魔法陣を取り囲むようにして、いくつもの小さな魔法陣が複雑に絡み合い展開している。
そして驚いたことに、魔力増幅の要の役割を果たすであろう中央の魔法陣が、二重三重どころか五重に重ねられていた。
「……え? ちょ、待、何だあれ……五枚重ねの魔法陣、だと……?」
ヴィゾーヴニルの顔の近くに展開された魔法陣に、レオニスは愕然とする。
顔から一番近い魔法陣から、徐々に円形が大きくなった同型の魔法陣が何と五枚も重ねられているではないか。
これは、自身も魔法を駆使するレオニスにとって実に衝撃的な光景だった。
このサイサクス世界における身体強化の呪符の効果は、もとの能力の200%アップ、つまり二倍の上昇が最大値となっている。
そして、同じ効果を発揮する呪符の重ねがけは無効である。
例えば『物理攻撃力上昇』と『魔法攻撃力上昇』というような、異なる能力値を対象とするものならば呪符の同時使用は可能だ。
だが、同種類の呪符の場合、同時に何枚も呪符を使用したとしてもその効果や効果は最も直近に使用した一枚のみが適用される。
これは言ってみればゲームにおけるバランス調整のようなもので、サイサクス世界においても『行き過ぎた身体強化は、使用者の身体を破壊し滅ぼす』ということで、基本的に呪符の重ねがけはできないようになっているのだ。
しかしピースの門外不出の秘術は、その常識を完全に覆すものだった。
呪符の絵模様を魔法陣として起動させることによって、本来なら不可能なはずの呪符の重ねがけを可能にする———これは、増幅させるのが『使用者の肉体そのもの』ではなく『神鶏が放つ鳴き声』だからこそ可能な芸当である。
そしてレオニスは、まさかピースがここまでするとは全く思っていなかった。
最初にピースの計画を聞いた時には、ヴィゾーヴニル本体に200%、そのヴィゾーヴニルが発する鳴き声にも200%ということで、二乗の四倍に増幅するのだと捉えていた。
しかし、今レオニスの目の前には五枚重ねの魔法陣が展開されている。
本体の強化200%に、さらに200%の魔法陣五枚重ねを加えるということは、二倍の六乗。つまりはもとの威力の六十四倍増幅するということになる。
そのことに瞬時に気づいたレオニスは、顔面蒼白になりながら他の皆に大慌てで伝える。
「皆!今すぐここから全力で離れろ!とんでもない威力の浄化砲が来るぞ!!」
レオニスが大声で叫びながら、ライト達がいる場所に急いで向かう。
それまで上空を見入っていた八咫烏達も、大慌てでその場から一斉に離れていく。
ライトを左脇に抱き抱えたレオニス、アラエルや交代で休んでいた他の八咫烏達とともにその場を全速力で飛行し離れていく。
レオニスがライト達のいた待機所から、一目散に飛んで離れたその瞬間。東の空から一筋の光が現れた。
それは、太陽が地平線に顔を出した瞬間だった。
皆が待ち望んでいたこの瞬間が、ついにやってきた。
それまでずっと東の空を注視していたパラスが、満を持して一際大きな声でヴィゾーヴニルに告げる。
「ヴィー様、今です!!」
パラスの合図を受けたヴィゾーヴニルが、全身全霊を込めた鳴き声を発した。
『クエエエエェェエエ工ッッッ!!!!!』
それは、ライト達が渇望していた夜明けを告げる声。
雷光神殿の守護神ヴィゾーヴニルの、渾身の鳴き声であった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ヴィゾーヴニルの渾身の鳴き声が、ピースの出した五重の魔法陣を通してより強烈な光となって、ユグドラツィの全身に降り注ぐ。
その光は真夏の太陽の直射日光よりもはるかに強く、とてもじゃないが直視することなどできない。
それだけでなく、まるで爆弾が落とされた直後のような爆風まで起きて、飛んで避難している最中のレオニスやラウル、八咫烏達までもが爆風による追い風を受けて勢いよく吹っ飛ぶ有り様である。
ライトを小脇に抱えたまま爆風に吹っ飛ばされたレオニスが、急いで体勢を直し背後を振り返る。
するとそこには、強烈な輝きを放つヴィゾーヴニルを中心に真っ白な世界が広がっていた。
あまりの眩しさに額に手を当て陰を作りながらも、何とかしてユグドラツィの姿を見ようと目を細めて必死に前を見つめるライトとレオニス。
それまでカタポレンの森を覆い尽くしていた夜の闇色が、なす術もなく一瞬で払拭されて白色に染まっている。
ユグドラツィにまとわりついていた黒炎も、ヴィゾーヴニルの光の前に瞬時にして消え去っていた。
「……やったか!?」
「…………まだだ!」
レオニスが思わず発した勝利を確信する言葉に、レオニスの小脇でともに見ていたライトが即座に否定の声を上げる。
ユグドラツィを覆い尽くしていた黒炎が消え去った代わりに、今度は幹から黒い液体のようなものが滲み出てきていたのだ。
それはコールタールのような真っ黒い色で、どろどろとした粘液状の動きを呈しながら神樹の幹からどんどん大量に溢れ出てくる。
その黒い色は、ヴィゾーヴニルの真っ白い浄化の光を浴びてなお異様な黒さを保ち続けていた。
「あれは……一体何なんだ……ツィちゃんの中にいたヤツ、か……?」
予想外の事態に、レオニスが呆然としながら呟く。
その間にも黒い粘液は大量に溢れ続け、ユグドラツィの根元に溜まりうねうねとした不気味な動きで形状を変え続けた。
それはやがてユグドラツィの根元で球体状になり、中央から横一線に分かれて上下に捲れていく。
最終的には超巨大な眼球となって全貌を現した。少し前にレオニスが吹っ飛ばされた、とんでもない視線の威圧の元である。
そしてその超巨大な眼球の左右と背後では、別の動きが起こっている。
黒い粘液が木の枝のように、空に向かってニョキニョキと伸び続ける。その先端は次第に枝分かれしていき、鋭い鉤爪を持った手となっていった。
そんな黒い腕が、眼球の周囲に続々と生え続けていく。
見た目の悍ましさもさることながら、その黒い腕が放つ醜悪な邪気は黒い炎の非ではない。おそらくは、その黒い粘液こそが謎の繭の中に潜んでいた本体であろう。
あの黒い粘液に比べたら、今までレオニス達が懸命に抑え込んでいた黒い炎の瘴気など、児戯にも等しく思えるほどであった。
そんな悍ましい腕が五本、いや、左右合わせて十本くらい生えてきていて、空にいるヴィゾーヴニル目がけて襲いかかる。
だが、ヴィゾーヴニルも黙ってはいない。
渾身の一撃の鳴き声を放った後も、続けて第二、第三の鳴き声を高らかに上げ続ける。その威力は、初撃に放った鳴き声に負けず劣らず強力さを維持している。
ピースの魔法陣を通した鳴き声は、極大ビーム砲となって黒い腕を容赦なく照らし続けた。
黒い腕は何とかヴィゾーヴニルを掴もうと宙でもがき、必死にその腕を伸ばし続けているが、夜明けを告げる神鶏の鳴き声の浄化の力には到底及ばない。
しかもその鳴き声は、ピースの魔法陣によって何十倍も威力が増幅されているのだ。邪悪な黒い腕には、もはや万に一つの勝機も残されてはいなかった。
ヴィゾーヴニルの浄化の力に屈するように、鉤爪の先端から徐々に崩壊していく。鉤爪や腕の形を維持できずに、ぐずぐずと崩れ落ちていくのがライト達にも見えた。
そしてその崩壊は腕だけに留まらず、ユグドラツィの根元に現れた超巨大な眼球にも罅が入り、ついには砂塵のように蒸発していく。
そうしてトドメの四度目の鳴き声が終わる頃には、全ての腕と眼球が完全に消え去っていた。
黒い腕や眼球だけでなく、あらゆる邪悪な気配が完全に消え去った頃。
カタポレンの森はしばしの静寂に包まれる。
そんな中、未だ浄化の輝きを失わず神々しい煌めきを放つヴィゾーヴニルが、再び一際大きな鳴き声を上げる。
『クエエエエェェエエ工ッッッ!!!!!』
夜明けの静寂を破る、ヴィゾーヴニルの誇らしげで高らかな鳴き声。
それは、ユグドラツィに巣食う謎の邪悪な塊を完膚なきまでに倒したという勝利の雄叫び、勝鬨であった。
ようやく、ようやく長い夜が明けました。
あああ、ここまで来るのに本当に長かった…(;ω;)…
第693話でプロステスにて不穏な空気が出てから、今日まで13話。現実逃避兼息抜きの第700話の挿話を除けば12話ですか。
話数だけで言えば、オーガの里襲撃事件と大差ないんですが。今回の事件の方がはるかにしんどかったですぅ(;ω;)
これからまだしばらくは、ライト達も事後処理などの対応に追われる日が続くと思われますが。カタポレンの森で起きたユグドラツィを巡る大事件は、ひとまずライト達の勝利です。




