第696話 黒い炎
カタポレンの家から飛び立ち、ユグドラツィのもとに全速力で向かうレオニス。
普段ならその移動には十分程度かかるところだが、今は一分一秒すら惜しい。己の魔力量の調節など一切考えず、ただただ無我夢中で全力を出し続けて飛んでいく。
次第にユグドラツィのいる場所に近づいていくが、近づくにつれてカフスボタンから漏れ出る嫌な気配もどんどん強まっていく。
神樹ユグドラツィは巨木であるが故に、その姿ははるか遠くからも見える。
今は夜中なので普段昼間に見る光景とは全く違うが、煌々とした月明かりに照らされた巨木。飛行しながらだんだんと鮮明に見えてくるその姿に、レオニスの顔が歪む。
「あれは何だ……一体、何が起きている……?」
レオニスの目に映るユグドラツィは、黒い炎に包まれていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
逸り焦る気持ちを懸命に抑えつつ、ユグドラツィのもとに駆けつけるレオニス。
ようやくユグドラツィの真上間近にまで来て眼下を見下ろすと、黒い靄がまるで炎のように下から上に立ち上り、神樹全体を包み込んでいる。
だが、本当に枝葉や幹が燃えている訳ではなさそうだ。
あまりにも異様な光景に、レオニスはしばし絶句するとともに空中に浮いたまま佇む。
すると、どこからかドカッ!バキッ!といった戦闘音が聞こえてくる。
我に返ったレオニスが急いで音のする方に回ると、そこではラウルが何らかの魔物と戦っていた。
「ラウル!」
「……レオニス!」
大きな声でラウルの名を呼びながら、レオニスがラウルのもとに急降下していく。
ラウルもまたレオニスの声に気づき、声がした方向に振り向きながら大きな声で応えた。
ラウルはユグドラツィの根元近くでカゲロウのような魔物と戦っていて、それをウォーハンマーで叩きのめして蹴散らしていた。
そのカゲロウ型魔物はラウルとほぼ同じくらいの背丈で、赤黒い胴体に三つ目の頭と蟷螂のような大きな鎌を左右に一つづつ持っている。
背中についた四対八枚の薄い羽根で自由自在に飛び回る。その羽根が擦れる音が何気にかなり耳障りだ。
レオニスはまだ多数のカゲロウ型魔物に取り囲まれているラウルの横に降り立ち、すぐさま大剣を抜き次々と魔物を屠っていく。
ユグドラツィの根元近くの地面には、それまでラウルが倒したであろう無数のカゲロウ型魔物の残骸。そしてその残骸の下には、カゲロウ型魔物に刈り取られた無数の枝葉が堆く積み重なっていた。
「ラウル、今どういう状況なのか教えてくれ!」
「それが……俺達にもよく分かってないんだ。今から二時間ほど前に、ツィちゃんの腕輪からおかしな気配が出ているのを感じてな。マキシとともにここに来たんだが、その時にはこのカゲロウもどきがもっとたくさんツィちゃんに群がっていて、ツィちゃんの枝や幹を切り刻んでいたんだ」
レオニスが状況把握のためにラウルに説明を求めるも、ラウル自身あまりよく分かっていないらしい。
確かに虫型の魔物とは会話は不可能だし、屍鬼将ゾルディスやマードンのような指揮官らしき者もぱっと見では見当たらない。
これでは状況確認どころではないことは、レオニスの目からも見てとれた。
まだあちこちに蠢いているカゲロウ型魔物を次々と倒しながら、レオニスは更なる状況確認を続ける。
「マキシは今どこにいる?」
「この黒い炎のようなものの正体とその対処法を聞きに、八咫烏の里に向かった。シアちゃんにもこの光景が見えているはずだからな。目覚めの湖のウィカを頼るように言っといたから、今頃は目覚めの湖から八咫烏の里のモクヨーク池に移動して、シアちゃんに相談して話を聞いてる頃だと思う」
正体不明の黒い炎はともかく、ユグドラツィの幹や枝葉を切り刻んでいたというカゲロウもどきは、明らかに侵略者だ。
それ故カゲロウもどきの駆除はラウルが担当し、マキシは黒い炎の情報集めのために外部に助けを求めにいくという役割分担をしていたようだ。
全く状況把握ができない中、ラウルは現時点で出来得る限りの最善の手を尽くしていた。
ラウルからの話を聞いたレオニスは、改めて今のユグドラツィの姿を見上げながら声をかける。
「ツィちゃん、俺だ!レオニスだ!聞こえるか!?」
『………………』
「ツィちゃん、俺の声が聞こえたら返事をしてくれ!」
『………………』
「ツィちゃん、ツィちゃん!!……頼む、頼むから返事してくれ!!」
「……レオニス……俺もここに着いてからずっと、ツィちゃんに呼びかけ続けているんだが……一度も返事が返ってこないんだ……」
レオニスがユグドラツィに向けて懸命に大声で呼びかけるも、ユグドラツィは沈黙したままで一向に返事が返ってこない。
声を上げて叫び続けるレオニスに、ラウルが悔しそうに歯噛みしながらずっと返事がないことを伝える。
ユグドラツィを包む、謎の黒い炎。それは一見して本当の炎のようにゆらゆらと揺らめいているが、実際には一切の熱を持たない。
その代わりに、その空気に触れると瞬時に鳥肌が立ち、ゾワリとした悪寒が背筋を走る。それはまるで地獄の真っ只中にいるかと思うような、悍ましい空気が四方八方に撒き散らされている。
見た目はツェリザークに出没する最大の脅威『邪龍の残穢』が撒き散らす魔瘴気にも酷似しているが、現時点ではそれが同一のものか否かは誰にも判断できない。
煌々とした月明かりを浴びてなお漆黒の闇色を保つそれは、異様と言う他ない。
レオニスもまた悔しそうにユグドラツィを見上げていたが、ひとまずラウルの方に振り返って話しかける。
「ラウル、お前この黒い炎を大量に吸い込んではいないか? 具合悪くなったりしていないか?」
「今のところは大丈夫だ。ただ、その黒い炎からは酷く邪悪な気配が強くしてきててな……このジャケットには、自動発動する浄化魔法も付与してもらってはあるが、正直それでもかなりキツくて……」
「だろうな……」
如何にも身体に差し障りが出そうな、黒い炎。もし魔瘴気に近いものならば、絶対に吸い込むのは良くないことは想像に難くない。
各種魔力耐性の高いラウルでも、それに長く触れたり安易に近づくことはかなり厳しいようだ。
「上部の枝の奥に入り込んだ奴を仕留める時には、身体の回りに風魔法を起こしながらずっと息を止めるようにしている」
「そうした方が安全だな」
「でもって、邪悪な気配には浄化魔法が効くかと思って、カゲロウもどきを潰している合間にツィちゃんに向けて浄化魔法をかけてはいるんだが……炎の勢いが強過ぎて、俺一人の浄化魔法じゃどうにもならん」
現状を伝えながら、ラウルが再び悔しそうな顔になる。
ユグドラツィを包む黒い炎は、通常の火とは全く違うので水魔法を駆使して水をかけても意味を成さない。
もとより邪悪な気配を垂れ流しているので、ならば破邪にも用いられる浄化魔法を使う、というラウルの判断は正しい。
しかし、超巨大な神樹であるユグドラツィの全体を包み込むほどのものだ。ラウル一人が放つ浄化魔法では、とてもじゃないが焼け石に水で全く追いつかなかった。
ラウルの悔しそうな顔は、己の力不足を悔やみ嘆くものであった。
レオニスは改めてユグドラツィの幹や上部の枝葉を見上げる。
黒い炎はユグドラツィの巨大な樹体を完全に包み込んでいて、上部の枝葉の部分まで全てが燃えているかのようだ。
冒険者になってそこそこ経験を積んできたレオニスだが、このような黒い炎など今まで一度も見たことがない。
しかし、黒い炎を見たことはなくとも、その悍ましい空気には覚えがあった。
「この黒い炎の正体が何なのかは分からんが……この悍ましい気配を、俺は知っている」
「何ッ!? この黒いのに心当たりがあるのか!?」
「ああ。これは廃都の魔城の空気によく似ている。……いや、似ているなんてもんじゃない、もはや廃都の魔城の空気そのものと言ってもいいくらいだ」
「…………!!」
レオニスの言葉に、ラウルがその目を大きく見開き驚愕する。
廃都の魔城のことは、レオニスやフェネセンからたまに聞いていてその名だけはラウルも知っている。
かつてマキシの体内に穢れを埋め込み、百年以上に渡り彼の魔力を簒奪し続けてきた極悪非道な悪の組織。マキシだけでなく属性の女王や神樹族をも付け狙う、油断のならない連中。
その魔の手が、ユグドラツィにも伸びてきていたのだ。
「じゃあ、この黒い炎も奴等がツィちゃんから魔力を奪い取るために仕掛けたものかもしれない……ってことか?」
「断定はできんが、その可能性はそれなりにあると思う」
「そんな……そんなの一体、どうすりゃいいんだ……」
レオニスの推測に、ラウルが愕然とする。
このままでは、ユグドラツィの生命に関わることは誰の目にも明らかだ。
そんなラウルに、レオニスが即座に檄を飛ばす。
「しっかりしろ、ラウル!お前がそんなんじゃ、ツィちゃんを救うことはできんぞ!」
「そ、それは困る!絶対にツィちゃんを助ける!」
「なら死ぬ気で頑張れ。もうすぐここにピースとライトが来る。フェネセンの一番弟子で、超一流の魔術師でもあるピースならば、何か良い手立てを思いつくかもしれん」
「あ、ああ……マキシももうすぐ帰って来る頃だろうしな」
「そういうことだ。皆が来るまで、俺達二人で踏ん張るぞ。枝の間にいる虫どもは俺が始末するから、お前は引き続き幹や根元に寄ってくる虫を倒せ」
「分かった」
レオニスの檄に、一時は絶望的な顔をしていたラウルも次第に気力を取り戻していく。
ピースという心強い援軍が、こちらに向かってきている。それはラウルの心に希望という灯火をもたらしてくれていた。
「虫退治の間に俺も浄化魔法をかけ続けるから、お前も浄化魔法をかけ続けろ。焼け石に水だろうが何だろうが、何もしないよりはマシだ」
「分かった」
「あと、そのジャケットには体力自動回復や魔力自動回復も付与してあるが、体力切れ、魔力切れしないように気をつけろ。特に魔力切れを起こすと妖精のお前でも飛べなくなる。アークエーテルでも何でもいいから、がぶ飲みしてでも乗り切れ」
「おう、ご主人様に負けんくらいにがぶ飲みしてやるぜ!」
「その意気だ」
ラウルの気炎にレオニスも小さく微笑む。
普段ラウルはレオニスのことを『ご主人様』と呼ぶ。だが、この緊急時においてそんな心の余裕など全くなくなっていた。
先程まではレオニスのことを名前で呼んでいたラウルだったが、再びレオニスのことを『ご主人様』と呼んだ。それはラウルが普段の調子を取り戻して気力も回復した証である。
レオニスとラウルは二手に分かれて、援軍が来るまで魔物退治と並行して浄化魔法をかけ続けていった。
今日も前話に続き、苦境が続いています。
基本のんびり平和な拙作に、こんな大ピンチが来るのはいつぶりでしょうか。オーガの里の襲撃事件やレオニス vs 負の聖遺物 in 四帝以来ですか。
直近では白銀の君との対峙や海樹ユグドライアとの睨み合い、クレエの卒倒など、ちょこちょこ事件的なものはありましたが。今回のはそんなのが全然軽く思える程の真の修羅場です。
ユグドラツィの救出に懸命に励むレオニス達。その努力が何とか実ってほしいものです。




