第512話 胸に秘めた願い
砂漠蟹やジャイアントホタテの殻処理を一旦保留にし、早々に切り上げたラウル。
時間が余ったラウルが向かった先は、神樹ユグドラツィのところだった。
「よう、ツィちゃん。久しぶり」
『ようこそ、ラウル』
ラウルがユグドラツィのもとに来るのは、これが四度目。
一度目はマキシの八咫烏の里の里帰りの最後に立ち寄り、二度目は神樹のアクセサリーにユグドラツィの分体を入れる際に立ち合った。三度目はポイズンスライム変異体からの襲撃時に、ユグドラツィに命を救ってもらったことへの御礼を言いに来た。
基本的にカタポレンの森はあまり好きではないラウルだが、ユグドラツィに会うためならば決して厭うことなどない。
それくらいユグドラツィとラウルは、もうすっかり打ち解けていた。
『今日はラウル一人でここに来たのですか?』
「ああ、ご主人様達のカタポレンの家でちょっとした作業をしに来ててな。その帰りに、ツィちゃんのところにちょっと立ち寄ってみようかと思ってな」
『まぁ、わざわざ私に会うために、ここまで足を伸ばして来てくれたんですか。気遣ってくれてありがとう』
「そんな畏まったもんでもないさ。ツィちゃんは俺の友達だからな」
『ふふふ……そうですね、私達は友達ですものね』
いつもは誰かといっしょに来ていたラウルだが、今日は珍しくラウル一人でここに来ている。それをユグドラツィが不思議に思うのも当然といえば当然だ。
だが、友達だから気軽に立ち寄ったんだ、と言われればユグドラツィも悪い気はしない。
サワサワと枝葉を揺らしながら、ユグドラツィは嬉しそうにラウルとの会話を楽しむ。
『あれから体調の方はどうですか?』
「おかげさまで、全く問題なく元気に過ごしている」
『そのようですね。時折他の街に出かけては何か仕事をしているところを、分体を通して見ておりますよ』
「仕事といっても、主に殻をもらいに行くだけの簡単なものばかりだがな」
下水道管内で発生した、ポイズンスライム変異体遭遇事件。
レオニスがラウルの治癒に【神の恩寵】エリクシルを用いたことで、ラウルの身体は完全に回復した。
おかげでラウルは冒険者としての仕事もすぐにこなせるようになり、ネツァクの砂漠蟹やエンデアンのジャイアントホタテの殻処理依頼をバンバン引き受けて稼いでいる。
それらの様子を、ラウルが身に着けているバングルを通してユグドラツィもこのカタポレンの地から見守っているようだ。
『そういえば、オーガの里でお料理教室?なんてことも始めたのですね』
「ああ、小さなご主人様がオーガの里特産の酒をもらってきて俺にも分けてくれてな。その礼に、酒を使った料理をオーガ達に伝授してたんだ。良かったらツィちゃんも、オーガの酒を飲んでみるか?」
『オーガの酒、ですか……私はこれまで一度も酒というものを飲んだことはないのですが……どのようなものなのでしょう?』
オーガの里での料理教室の話の流れから、ラウルがユグドラツィに酒を飲んでみるか?と勧めてきた。
カタポレンの森のド真ん中に生えている、神樹ユグドラツィ。千年近く生きてきた長寿ではあるが、もちろん酒など一滴も飲んだことがない。
そもそも樹木にアルコールを飲ませていいもんなのか?という素朴な疑問もあるのだが、それはこの際横に置いておこう。
「俺自身は、酒は進んで飲む方じゃない。飲んでも酔わないし、そんな俺が直接飲むよりも料理に使った方が余程有意義だと思うんでな」
『その『酔う』という感覚が、全く想像できないんですよねぇ……』
「じゃあ、ちょこっとだけ飲んでみるか? ツィちゃんはこんなにデカい木なんだから、酒の一杯飲んだところで一滴二滴程度にもならんだろ」
『……そうですか? では、お言葉に甘えて飲んでみましょうか』
言葉巧みなラウルの誘いに、ユグドラツィも乗ってきた。
ラウルは空間魔法陣を開き、ライトからもらったオーガの酒を始めとしていくつかの酒を取り出した。
「んー、最初からオーガの酒はちとキツいか? そしたらフルーツの香りのするリキュールなんかの方がいいかも」
「……そしたらこのクレーム・ド・カシスを水、いや、氷の洞窟周辺の雪にかけてシャーベット風にしてみるか」
ぶつぶつと独り言を呟いていたラウル、今度はツェリザークの氷の洞窟近辺の雪の塊と小皿、スプーンなどを取り出してきた。
拳一つ分くらいの雪を取り分けて小皿に乗せ、その上にクレーム・ド・カシスを数滴かけてスプーンで手早く混ぜる。
あっという間に『クレーム・ド・カシスのシャーベット』の出来上がりである。
「さ、できたぞ。早速食べてみてくれ」
ラウルはいつもライトが開催する『ブレンド水の試飲会』のように、ユグドラツィの根っこの上の方に飛んでクレーム・ド・カシスのシャーベットをその上にそっと乗せた。
リキュール入りのシャーベットが、ゆっくりとユグドラツィの根の上で解けていく。
『……ほう、これはまた初めて味わう味ですね。果実の芳しい香りだけでなく、今までに味わったことのない何とも不思議な感覚があります』
「クレーム・ド・カシスってのは甘いリキュールだからな。ツィちゃんが感じるというその『不思議な感覚』ってのは、多分『甘い』という味覚だろう」
『味覚、ですか……確かに水一つとっても、美味しいものから不快なものまで様々ありますが。この不思議な感覚は、美味しい方に分類されると思います』
ユグドラツィの葉がサワサワと揺れる。
初めてのお酒デビューにどことなく喜んでいるように見える。
『……ふふふ。なんだかとってもふわふわした、空を飛んでいるような、不思議な感覚ですねぇー』
「ン? ツィちゃん、もう酔ったのか?」
『ふにゅ? これが『酔う』という感覚、なのれすか?』
「…………」
『うふふふふ♪』
ユグドラツィの口調が何やら怪しくなってきた。
いつもは穏やかで冷静沈着なユグドラツィの呂律が、何というかふにゃふにゃしてきている。
『私はぁー、樹木だからぁー、飛べませんけどぉー。もしー、鳥のようにぃー、空をー、飛べたらぁー、こーんな風にぃー、ふわふわぁー、するんれすかねぇー?』
「あー、そうかもしれんな」
『鳥さんってー、いいですよねぇー。どこでもー、自由にぃー、好きなところにぃー、飛んでー、いけるんれすものねぇぇぇぇ』
「いやー、そうでもないと思うぞ? 鳥には鳥の苦労もあるだろうしな」
時を追う毎に溶けたような口調になっていくユグドラツィ。
上の方の枝葉も、ワッシャワッシャと軽快な音を立てて揺れ続けている。これは確実にほろ酔いを通り越した、完璧な酔っ払い状態だ。
いつものユグドラツィからは相当にかけ離れた、実に想像もつかない姿である。
まさかクレーム・ド・カシスを氷に数滴かけた程度で、ここまで酔うとは予想だにしなかったラウル。どうしていいものやら分からず、戸惑いつつも酔ったユグドラツィのふにゃふにゃとした会話に付き合っている。
『私もぉ、いつかぁ、生まれ変わるぅ、時がぁ、来たらぁ……次はぁ、鳥さんにぃ、なってみたい、れすねーぇ……』
「そうか、それもいいんじゃないかな」
『でッしょぉー? もしー、鳥さんにー、なれたらぁー、シアお姉ちゃんやぁー、ランガお兄ちゃんやぁー、遠くにいるー、神樹のー、皆ぁー、全員にぃー、会いにー、行きたぁーい!……ぁ、でも鳥だと……海にいる、イアお兄ちゃんには、会えなぁーい……どうしよう、グスン』
ユグドラツィが、来世は鳥に生まれ変わりたい、そして他の神樹達に会いに行きたい、という願いを口にする。
それはやはり、自力で動くことの叶わない樹木という宿命からいつか解き放たれたい、という彼女の願望の表れなのだろうか。
普段のユグドラツィならば、絶対に口にしないであろう言葉。心の最も奥底に閉じ込めて、誰にも語ることなくずっと密やかに隠され続けてきた願い。
ユグドラツィが胸の内に秘めていたそれらを、図らずも酒を飲ませたことで聞いてしまったラウル。彼の胸はチクチクと痛む。
『あー、でもでもぉ、そしたらぁー、妖精やー、人族なんかもー、いいかもぉー。そしたらぁ、ラウルやぁー、ライトやぁー、レオニスぅー、マキシのぉー、お友達にぃー、なれますよねぇー?』
「いや、俺もライトもレオニスもマキシも、皆もうツィちゃんの友達だろ?」
『あぁー、そっかぁー、それもそうれすねぇー。……でもでもぉー、人族とかにぃー、なれたらぁー、今よりもーっと、もーーーっと、皆とー、仲良くなってぇー、皆でー、いっしょにぃー、世界中をー、旅できる、じゃないれすかぁー♪』
「…………」
鳥の次は妖精や人族もいいかも、と言い出したユグドラツィ。
その理由が『ラウル達と友達になりたい』というのが、ユグドラツィらしさを物語っている。
そして皆と今以上に仲良くなって、自分自身の目で世界を見たい―――ユグドラツィが思わず漏らした願い。今世では絶対に叶うことのない望みは、ますますラウルの胸を締めつける。
だがラウルは、そんな感傷など決して表に出さぬよう努めて平静に受け答えする。
「俺達は今だってツィちゃんと仲良しだし、いつもツィちゃんの分体を連れて出かけてるだろう? まぁ、世界中と言えるほどまだあちこち旅してはいないが」
『そうれすねぇー、あんまゼータク、言っちゃいけまへんよねぇー。今だってぇー、皆のー、おかげでぇー、とーーーっても楽しいしー♪』
「……いや、ツィちゃんのそれは贅沢なんかじゃない……むしろツィちゃんの願いをちゃんと叶えてやれない、俺の不甲斐なさが情けない」
鳥や妖精や人族のように、自分が行きたいと思った場所に行く。ラウル達が日々当たり前のようにしていることが、樹木であるユグドラツィには叶わない。
だからこそ、それらを今以上に望むのは『ゼータク』であり、動けない本来の現状こそ己が最も受け入れるべき運命であることを、ユグドラツィは重々承知していた。
そんな健気なユグドラツィの本心を目の当たりにしたラウル、とうとう堪えきれずに己の非力さを嘆き悔やむ。
ラウルの懺悔のような言葉を聞いたユグドラツィ、何を思ったか突然樹木全体がうっすらと光を放ち始めた。
『ラウルー? アナタにぃー、そんなぁー、暗い顔はぁー、似合いましぇんよー?』
「……ッ!?」
ラウルの身体がひとりでに宙に浮いたかと思うと、ふわふわと上の方に運ばれてユグドラツィの天辺近くの枝のところで降ろされた。どうやらユグドラツィが魔力を使って、ラウルを己の身体に乗せたようだ。
ユグドラツィの天辺近くだけあって、枝葉の間から空の青さがよく見える。
その空の青さに魅了され、ラウルはしばし無言で空を眺める。
『ラウルー? 私はねぇー、いっつも、貴方方にぃー、感謝してるんれすよー?』
『この空のー、青さ、だけでなくぅー、いろぉーんな、景色をー、たぁーーーくさん、見せてくれてー、今はぁー、毎日がぁー、とーーーっても、楽しいんれすぅー♪』
『時にはぁー、危険な目にぃー、遭ったりもー、してるけろー……』
呂律の回らないユグドラツィの言葉に、ラウルは思わず「うぐッ」と詰まる。
ユグドラツィの言う『危険な目に遭ったり』というのは、先日のポイズンスライム変異体遭遇事件のことに他ならないからだ。
思わず声を詰まらせたラウルの様子を気にすることなく、酔ったユグドラツィは構わず語り続ける。
『それれもぉー、皆のことはぁー……わらしがぁー、守る、ます、からぁー……』
『これからもぉー、いろぉーんな……ところにぃ……つれて……ッてぇ……ふにゃむにゃぁ……』
ふにゃむにゃとなったユグドラツィ、とうとう無言になる。
どうやらユグドラツィは寝てしまったようだ。
ユグドラツィの天辺に乗せられたまま、話し相手を失ってしまったラウル。
乗せられた枝をそっと撫でながら、誰に言うでもなく独り言を呟く。
「そうだな。ツィちゃんの本体は連れていってやれんが……せめて分体だけでも俺達とともに世界中を旅しよう」
「俺達がツィちゃんにしてやれるのは、それくらいしかないが……ごめんな、ツィちゃん。今のところはそれで我慢してくれ」
「これからも俺達がいろんなところに出かけて、少しでもたくさんの景色をツィちゃんに見せてやるからな」
ラウルは自分の胴体よりも太い枝に寄り掛かり、目を閉じそのまましばし青空の下で微睡んだ。
ラウルとユグドラツィのほのぼの交流回……のはずが、何故かユグドラツィのアルコールデビューとなってしまいました。
一番気になるのが『樹木にアルコールを与えても大丈夫なの?』問題ですが。基本的にはダメっぽいですねー(゜ω゜)
具体的な論文とかほとんどなくて、某○フー知恵袋の問答レベルのしか見つからず、アルコールが水分を奪うからダメー、とか、土中の微生物を殺しちゃうからダメー、とか、イマイチはっきりとしたことは分からんのですが。
少なくとも良いという事例は松の木以外ではなさそうなので、基本的にアルコールは植物全般に悪影響を及ぼすものなんでしょう。
ちなみに『酔う』というメカニズムも、血管や脳神経を持たない植物が動物のように酔うことは絶対にない!そうですが。そこは伝家の宝刀『異世界ファンタジー』が輝く時!(キリッ
人族以上に賢い神樹だからこそ、リキュール数滴程度で酔っ払ったりもしちゃうのです!……作者譲りの下戸体質、ということで(´^ω^`)




