第1558話 唯一の懸念と奇跡の瞬間
レオニスがエリクシルの小瓶の蓋を開けると、得も言われぬ甘い香りが瞬時に部屋中に広がる。
今まで嗅いだこともない至福の芳しさに、マクシミリアーノ達が喫驚している。
しかしすぐに我に返り、妻の身体を起こして母の顎をそっと下に引いてエリクシルを飲ませる準備をしていた。
ベスの命をエリクシルで救えるかどうか―――正直な話、レオニスは五分五分の賭けだと考えていた。
何故ならこれまでエリクシルを使ってきたのは、レオニスが知る限りではたったの三例だけ。
屍鬼化の呪いに侵されたオーガ族族長ラキ、ラグナロッツァの下水道でのポイズンスライム変異体遭遇事件で瀕死の重傷を負ったラウル、そして大量の首狩り蟲に襲われた神樹ユグドラツィである。
この三例を振り返ると、エリクシルが呪いなどの状態異常や外傷には存分に効果を発揮することが分かる。
しかし、逆に言えば病気快癒のために使ったことは一度もない。
それこそがレオニスの唯一にして最大の懸念だった。
エクスポーションやグランドポーションなどのHP回復剤は体力や外傷の治癒、アークエーテルやコズミックエーテルなどのMP回復剤は魔力や気力回復に効く———これは冒険者のみならず、世間一般に広く知られた常識である。
そして、これら既存の回復剤は総じて病気類には効き目が薄い。回復剤を摂取するだけでは、癌や腫瘍等の異物や感染症の原因を直接叩いて壊すことはできないからだ。
故にサイサクス世界の人々は、病気に罹った時には神殿や診療所を訪ねて、聖職者の治癒祈祷や医療系のジョブを持つ者を頼るのが常となっている。
そうした諸々の例を考えると、【神の恩寵】と讃えられる万能薬のエリクシルであろうとも果たして病気類にまで効くかどうか―――レオニスには全く予想がつかなかった。
エリクシルの病気への使用例が皆無なのに加えて、そもそもエリクシル自体が伝説級アイテムで書籍や歴史書などにも具体的な記述がほとんどないからだ。
しかし、かつてニルはエリクシルについてこう語っていた。
「『神の恩寵』とも称賛されるそれをほんのひと雫、一度ひとたび口に含めば忽たちまちのうちにありとあらゆる病魔や怪異を撃ち祓い」
「闇に沈みし盲いた瞳は光を取り戻し、折れた翼に捥げた四肢すらも新たに生え変わる―――と言われておる」
彼の言葉が正しければ、ベスの中に巣食う病魔を撃ち祓うことができるはずだ。
病に倒れて早逝するのも天命にして、その人の寿命のうち、と言ってしまえばそれまでだろう。
だがレオニスは、その病を取り除けるかもしれない手段を手の内に持っている。
この、最後の切り札にも等しいエリクシルは、ライトからもらったものだ。
それはレオニスの身の安全のためにくれたものであって、本来なら他人のために使うべきではないかもしれない。
だが、ライトならきっと快く許してくれることだろう。
そしてレオニスは、ニルの一人娘であるベスを何としても救いたかった。
彼女の両親であるニルやルネが今も中央の里で健在なのに、二人の娘であるベスが先に逝ってしまっていいはずがない。
子に先立たれた親の悲しみはとても深い。ともすれば、一生立ち直れない心の傷となってしまう。
年老いたニルやルネに、そんな悲しみを味わわせたくない、とレオニスは思う。
しかし、ライトからもらったエリクシルを使えば、ベスの身体を蝕む病を取り除くことができるかもしれない。
それが可能になれば、ベスはこの先もずっと長生きすることができる。
そしてベスが今より元気になれば、中央の里にも再び里帰りできるようになり、両親と何度も会えるだろう。
さらにはニル達の念願である曾孫や玄孫との対面も叶い、ニル一家はこれからも幸せに暮らしていけるはずだ。
レオニスという男は、自身の恵まれない生い立ちのせいもあり、家族の温かい絆を誰よりも大事にしたいと心から思っている。
だからこそ、オーガの里で娘の息災を願う親友の家族やその未来を切り開き、彼らの笑顔をも守り通したい、と強く願っている。
そのためにレオニスは、ベスが早逝してしまう未来を捻じ曲げることを決意した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そうしてレオニスが丸い小瓶をゆっくりと傾けていき、ベスの口の中に一滴のエリクシルを垂らした。
ほんのりととろみのついた虹色に輝く神の雫が、甘く芳しい香りを振り撒きながらベスの舌の上にぽたり……と落ちる。
その後フェルディナンドがベスの口をそっと閉じた瞬間、彼女の身体から淡い光がふわりと湧き起こった。
それは、ラキやラウルにエリクシルを飲ませた時と全く同じで、真夏なのにベスの身体がほのかに温かい空気に包まれているのが感じられる。
そしてこの淡い光は三十秒ほどで収まり、光が完全に消える頃にはベスの顔色が見違えるほどに良くなっていた。
「……ぉぉぉ……」
目に見えるエリクシルの成果に、マクシミリアーノとフェルディナンドが感動の声を漏らす。
小麦色なのに全体的に暗かった肌が明るくなり、頬にはほんのりとした赤味まで差している。
小刻みだった呼吸はスゥ、スゥ……と穏やかなものになり、目の下にあった色濃いクマが綺麗さっぱり消えていた。
この劇的な効果に、マクシミリアーノの瞳がみるみるうちに涙で溢れる。
そしてポロポロと涙を零しながら、ベスの頭や頬を優しく撫で続けた。
「ベス……ああ、ベス……」
ベスの名を呼ぶ以外の言葉が出てこないマクシミリアーノ。
そしてベスの息子であるフェルディナンドもまた「……母上……」と、言葉に詰まりながら感動していた。
そんな彼らの声が届いたのか、それまで寝ていたベスが再び目を覚ました。
「ン……貴方、そんなに泣いて、どうしたの……?」
「ベス……身体の調子はどうだい?」
「身体……あら、そういえば……何だかとても身体が軽いわ……どうしたのかしら?」
ベスの体調を気遣うマクシミリアーノの言葉に、当のベスがはたとした顔になる。
それまでずっと重たくて、腕や指一本を動かすのも大変だった身体が、どういう訳か今はとても軽いことに気づいたのだ。
空いている左手を自分の顔の前でワキワキと動かしたり、キョロキョロと周囲を見回すベス。
あちこちと視線を動かしているうちに、視界に入ったフェルディナンドの顔を見たベスの目が大きく見開かれた。
「まぁ、何てこと……フェルの顔がはっきりと見えるわ……」
「母上……快復なされて何よりです……」
「愛しい我が子、フェル……もっと近くに来て、お顔をよく見せてちょうだい」
「……母上……母上……」
ベスが左手を宙に差し伸べて、息子を近くに呼び寄せる。
先程まで白濁していたベスの瞳が、元の新緑色を取り戻していた。
これにより、ほぼ失いかけていたベスの視力も元通り見えるようになったのだ。
親子の時間を邪魔しないよう、レオニスがそそくさと横に移動する。
一方でフェルディナンドは、人目も憚らず涙を零し続ける。
次々と零れ落ちる雫を、ベスがフェルディナンドの頬を撫でながら優しく拭う。
「まぁまぁ、フェルってば……マクシといっしょになって、何をそんなに泣いているの?」
「……これは、嬉し涙です……母上が、お元気になられた、ことが、とても……とても、嬉しい、のです……」
「そう……フェルは本当に優しい子ね……ねぇ、マクシ、貴方もそう思うでしょう?」
「ああ……ベス、全ては君のおかげだ」
「ウフフ……貴方はいつもそうやって、私を甘やかすのねぇ」
ベスの言葉に、マクシミリアーノの涙は一向に止まらない。
妻の右手をずっと両手で握りしめながら、ただただ感涙に咽び泣くのみである。
「ベス……君の手が、とても温かくて……本当に嬉しいよ」
「ああ、そういえば今日は寒くないわね。今までずっと肌寒かったのに……」
ベスの右手を額に当てたまま、ずっと泣き続けるマクシミリアーノの言葉に、またもベスが不思議そうな顔をしている。
極限まで冷え切っていたベスの身体に、通常の体温が戻ってきていたのだ。
おそらくはこれも、エリクシルがもたらした効果の一つなのだろう。
それまで死の淵に立っていた妻や母が、エリクシルによって奇跡の生還を果たした。
ただひたすらに喜び合うマクシミリアーノ達家族の姿を、レオニスは少し離れた場所から微笑みつつ見守っていた。
レオニスの切り札であるエリクシルの投入です。
前話でエリクシルが出てきた時点で、ほぼ勝ち確だと思いますでしょう? ところがどっこい、そう簡単にはいきません。
というのも、作中でも書いた通り、拙作内でこれまでエリクシルを病人に与えた前例は一度もなく。その効果はまさに未知数。
それでもまぁ、さすがに毒になることはないでしょうが。マクシミリアーノ達の期待を裏切る結果にもなりかねない訳で、レオニスも慎重にならざるを得なかったのですね(´^ω^`)
嗚呼でも持ってて良かった、エリクシル。七夕イベントでゲットしといて良かったー!
作者自身も、よもやこういう使い方をするとは思っていませんでした(;ω;) ←嬉し泣き




