第1557話 ベスの死相
椅子に座ってうたた寝しているベスに向けて、レオニスが回復魔法をかける。
それも一回や二回ではなく、五回、十回と立て続けに繰り返した。
すると、明らかに悪かったベスの顔色が少しづつ良くなっていった。
その様子に、レオニスの向かい側で息を呑みつつ見守っていたマクシミリアーノと、レオニスの後ろで同じく母を見守っていたフェルディナンドが同時に「……ぉぉぉ……」と驚嘆している。
するとここで、身体の異変を感じてかベスが目を覚ました。
完全に閉じていた目がうっすらと開き、瞼がゆっくりと開いていく。
「……ああ……今日も……ぽかぽかと、暖かい……わね……」
「ベス、目覚めたのかい?」
「……あら、貴方……おはよう……今日も、素敵な……声ね……」
「おはよう。君の愛らしさには負けるよ」
「うふふ……貴方って、本当に……女心を、くすぐるのが……お上手、よねぇ……」
妻の左手を両手で包むように握り続けるマクシミリアーノに、ベスは小さく微笑みながら声をかける。
厳ついマクシミリアーノがこんなにも甘い言葉を囁くのは意外に思えるが、後で聞いた話によると東の里のオーガは愛する異性に対してはとことん甘く接する習性があるのだという。
そしてこの東の里のオーガの意外な習性が、他所者を嫌う東の里にベスが嫁いだ理由の一つだった。
ベスに一目惚れした若き日のマクシミリアーノが、それはもう懸命に口説いて口説いて口説きまくって、その努力が実を結び結婚に至ったのだ。
そうした経緯や、今目の前で交わされている穏やかな会話だけ見聞きすれば、熱愛夫婦の微笑ましい光景に思える。
しかし、レオニスの顔は思いの外険しい。
時間で言えばもうとっくに昼を過ぎているのだが、日中何度もうたた寝しているベスは時間の感覚が少々狂っている。
しかも今は夏真っ盛りの時期で、雲一つない空から降る日差しはぽかぽかどころかギラギラに照っているというのに。
これは彼女の身体が冷え切っていて、オーガの平均体温をはるかに下回っていたのが原因だった。
「ねぇ、貴方……今日はね、何だか……いつもより、身体が、すごく……軽い、気がするの……どうして、かしら……?」
「それは、ここにいる人族のレオニスという男が、君に回復魔法をかけたからだ」
「まぁ……人族、が、いるの? この里に、人族が、入るなんて……珍しいことね。何か……あったの?」
体調が良好なことを不思議がるベスに、マクシミリアーノが丁寧に説明した。
レオニスの存在を知ったベスは、薄目を僅かに見開く。
この東の里が他所者を厭うのは周知の事実。
それにも拘わらず、マクシミリアーノもいる場所で異種族の出入りを許す―――これがどれだけ驚くべきことか、他ならぬベス自身が一番よく知っていた。
東の里に何か異変が起きたのでは?と心配するベス。彼女が心配するのも当然だ。
そんな彼女を安心させるべく、マクシミリアーノが説明を重ねる。
「このレオニスという者は、君の父上……中央の里の岳父殿と親友なのだそうだ」
「お父様の……親、友……?」
「ああ。なかなか君に会えないことを心配した岳父殿が、君の様子を見てきてほしいと頼んだそうだ」
「そう……お父様ったら……心配性、なんだから……」
異種族であるレオニスが東の里に入れた理由を知り、ベスが小さく笑う。
寝ている時の寝顔は、母親のルネ似だと思っていたレオニス。
だが、起きて目を開けると目元がニルにそっくりだ。
若かりし頃は美男美女だったニルとルネ。ベスは間違いなくその二人の娘であることが一目で分かる顔立ちである。
しかし、面影こそ二人の両親の良いとこ取りのベスだが、顔も身体もかなり痩せてしまっていて痛々しい。
頬はげっそりと痩けていて、落ち窪んでいる目の下のクマもかなり色濃く浮き出ている。
腕も枝のように細く、手首や首元が筋張っていてかなり衰弱しているようだ。
しかし、当人を前にしてそんなことを正直にぶつける訳にはいかない。
あくまでも平静を装いつつ、レオニスがベスに声をかけた。
「今あんたの旦那からご紹介に与った、レオニスという者だ。ニル爺の一人娘に会えて、実に光栄だ」
「まぁまぁ……ご丁寧な、ご挨拶……痛み入りますわ……私の、名は、ベス……中央の、里の……ニルと、ルネの、娘です……私の、方こそ……お父様の、お友達に、お会い、できて……とても、嬉……ゴホッ、ゴホッ!」
レオニスの自己紹介に、ベスも応えようとして遂には咳き込み始めてしまった。
ゲホゴホと咳を繰り返すベスに、マクシミリアーノが慌てて遮った。
「ああ、ベス、あまり無理しないでおくれ」
「ごめん、なさい……お客様の、前で、無様な……姿を、見せて、しまって……」
「無様だなんて、そんなことあるものか。君はいつだって、眩くて美しいのだから」
「フフフ……」
ベスの体調を気遣いながらも、甘い言葉を囁くことを決して忘れないマクシミリアーノ。
そんな甘々な夫に、ベスも嬉しそうに笑う。
その一方でレオニスは、ベスの体調を危惧していた。
互いに挨拶をする際に、レオニスはベスの顔色や肌などをさり気なくチェックしていた。
レオニスには人相学や占いの心得などないが、職業柄他者に対する観察眼はそこそこ持ち合わせている。
何者かと敵対したり交流を持ったり、何らかの関係性を持つ場合、人魔問わず相手の特性や性格の傾向などを把握しなければならないからだ。
レオニスがベスに挨拶した時、ベスはその顔をレオニスの方にちゃんと向けたが、その視線はずれていてレオニスを見ていなかった。
それだけでなく、新緑色の瞳が白濁している。
このことから、どうやらベスの視力はかなり低下していて、ほとんど見えていないと思われる。
そして身体の痩せ方や血色の悪さと相まって、レオニスが見たベスの全体的な印象は『死相が浮き出ている』だった。
このままでは、ベスは遠からずこの世を去るだろう。
父母であるニルとルネは中央の里で健在なのに、東の里に嫁いだ一人娘の方が先立つなどとなったら―――ニルとルネは、ものすごく悲しむことだろう。
いつでも豪快な性格で、レオニスやライト、そしてラウルのことも快く受け入れてくれるニルに、子供達相手にぎっくり腰を発症する旦那相手に愚痴を零しつつも甲斐甲斐しく世話をするルネ。
そんな二人が一人娘を喪って悲嘆に暮れる姿など、絶対に見たくないし考えたくもない。
ベスとマクシミリアーノが仲睦まじく話している間に、レオニスがフェルディナンドにだけ聞こえるように小声で話しかけた。
「フェルディナンド、ちょっとだけ人払いしてもらえるか」
「人払い?」
「ああ。ベスとあんたと親父さん、この三人以外には知られたくない話を今からしたいんだ」
「……分かった」
レオニスの要請に応じたフェルディナンドが、彼らより少しでも離れて後ろで見守っていたチェスワフやガイ達三人に話しかけた。
ゴニョゴニョと二言三言会話をした後、四人がそっと部屋を出ていった。
レオニスの望み通り、部屋にはベスとマクシミリアーノ、フェルディナンド、そしてレオニスの四人だけになった。
このことに、レオニスがフェルディナンドに礼を言う。
「手間をかけさせてすまんな」
「問題ない。母上がこんなに長く話ができたのは、本当に久しぶりのことなのだ……」
「そっか。俺の回復魔法が、僅かでも役に立ったようで何よりだ」
「して、我ら以外に知られたくない話とは、一体何なのだ?」
「それはだな……」
フェルディナンドの問いかけに、レオニスがふとベスが座る椅子の方を見ると、ベスは再びうたた寝をしていた。
たくさん喋って疲れたのと、マクシミリアーノがベスの頬や頭をずっと優しく撫でていたことで安堵して寝てしまったようだ。
「ベスは昼寝か。ちょうどいい、あんた達二人にだけ明かそう」
「「…………???」」
レオニスが徐に空間魔法陣を開き、何かを取り出した。
それは、小さくて丸い香水瓶のようなもの―――エリクシルだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「それは……一体何なのだ?」
「とても芳しい香りに、何やらものすごい力を感じるが……」
レオニスが取り出したエリクシルの瓶。
それはライトが先日の七夕イベントで得た報酬品の一つで、レオニスとラウルの二人に半分づつ分けたものである。
不思議そうな顔で小瓶を見つめ続ける、マクシミリアーノとフェルディナンド。
どうやら彼らはエリクシルのことが分からないようだ。
しかしそれも無理はない。中央の里でも、エリクシルのことを瞬時に理解したのはニルだけだったのだから。
ラキと同年代のフェルディナンドはもとより、ニルの息子世代であるマクシミリアーノにとってもエリクシルはお伽噺の中の品だった。
そんな二人に、レオニスが早々に種明かしをした。
「あんた達は、エリクシルという神薬を知っているか? 別名【神の恩寵】ともいう代物なんだが」
「エリクシル……だと? まさかその手に持つそれが、エリクシルだというのか?」
「エリクシルとは、一体何だ?」
レオニスが打ち明けた小瓶の正体に、マクシミリアーノが驚愕する一方でフェルディナンドは未だに首を傾げている。
マクシミリアーノ世代は、エリクシルが伝説レベルのアイテムという知識だけは一応持っていて、フェルディナンド世代はそれすら知らないようだ。
そんな彼らに、レオニスがエリクシルの何たるかを教えていく。
「そうだ。これはエリクシルといって、どんな傷病でも立ち所に治せるという奇跡の回復薬だ」
「……それを、我が妻に与えたら……妻の病は治るのか?」
「こればかりはやってみないと分からん。ただ、それなりに効果は期待できると思う。何しろこのエリクシルは、かつて中央の里の族長ラキの命を救った奇跡の薬だからな」
「「………………」」
レオニスの話に、マクシミリアーノ達二人は未だに呆けた顔が直らない。
レオニスの話が本当なら、それは屍鬼化の呪いなどという絶望的な状況を覆せるほどの力を持った神薬ということになる。
その神薬が、今まさに目の前にあることがなかなか実感できなかった。
「で、だ。これをベスに使おうと思うが……あんた達はどう思う? ベス本人が寝てしまった以上、旦那と息子であるあんた達の意見をまず聞きたい」
「そ、それはもちろん!是非とも頼みたい!」
「あ、ああ!それで母上の命が助かるなら、何でもしよう!」
レオニスの問いかけに、我に返ったマクシミリアーノとフェルディナンドが慌てたように答える。
家族の了承さえ得られれば、レオニスの方も躊躇なくエリクシルを使うことができるというものだ。
「そっか、なら良かった。エリクシルを遠慮なく使うとしよう。ただし、これを使うにあたり俺から出す条件が一つだけある」
「何なりと言ってくれ」
「私でできることならば、何でもする覚悟はある」
目の前に現れた奇跡を逃すまいとするマクシミリアーノとフェルディナンド。
必死の形相でレオニスに迫る彼らに、レオニスが軽い口調で条件を伝えた。
「何、そんな難しいことじゃないさ。この【神の恩寵】、エリクシルを使ったことは他言無用、これだけだ」
「それはもちろん。決して口外しないと誓う」
「いや、すまんが口で誓うだけじゃ駄目だ。何せこれは伝説と謳われる代物でな、出処は絶対に明かせないんだ。だから、あんた達の真名に賭けて誓ってもらう」
「いいだろう。我が真名に賭けて、この神薬の存在を他言せぬと誓おう」
「私も真名に賭けて誓う」
レオニスの突きつけた要求を、二人は一切躊躇することなく速攻で応じる。
真名に賭けて誓うというのは、己の命を担保にするのと同等だ。
普通ならとても恐ろしくてできないが、妻や母の命を救うためと思えば容易いことなのだろう。
そして何より、レオニスが出処を明かせないというのも分かる。
【神の恩寵】とまで呼ばれる万能薬の存在が知られれば、レオニスとその家族は常に命を狙われる危険性がある。
そうしたリスクを、レオニスは周囲に味わわせたくないだろうことは、マクシミリアーノ達にも容易に想像がついた。
こうして三人の話し合いがトントン拍子に進んでいき、レオニスはベスの左横に立ち並ぶ。
マクシミリアーノがベスの身体をゆっくりと起こし、フェルディナンドが母の顎をそっと下にこじ開けた。
そうやって開かれたベスの口に、レオニスがエリクシルを一滴垂らした。
だーーー、今日はもうだめポ……
後書きはまた後ほど……




