第92話 対アイスマン
午後3時少し前、円形闘技場は熱気に包まれていた。観客席は満席でその殆どが8歳の少女を応援する一般市民たちだ。昨日開催された闘技会も満席だったがその時とは会場の雰囲気が全く違っている。闘技会は模擬戦だが今日は決闘であり、戦う二人のうちのどちらかが命を失うのだ。わずか数時間前に宣言されたばかりだというのに少女に起こった不幸とそのむごたらしい犯行について口から口へと伝わり大応援団となって押し寄せたのだ。
直径60mの闘技場とそれを囲う観客席の間には物理・魔法防壁が張られていた。防壁は青白い透明の光膜で高さは50mほどもあり、矢などの物理攻撃やスキル、全ての魔法が通過するのを防いでいる。これは観客を守るのと同時に闘技場で戦う者への外からの攻撃や干渉を防ぐ目的がある。この防壁の光膜は人も通る事はできないので行き来するには闘技場の地下通路を通る必要がある。その地下通路の扉の前でリンスは立ち止まって自らをチェックした。
子爵に貰った青いローブを着て同じ色のとんがり帽を被り右手にはお父さんから貰った紫檀のステッキを握っている。足元は踝丈の白いソックスにさっき貰った編み上げの茶色い革靴だ。ヒモはしっかり締めたし大丈夫。
タリアさんに貰った懐剣は袋から出して右のポケットに入れてある。懐剣以外の金属類はアロップの錬金術で悪さをされるかもしれないから全部外した。左のポケットにはレンブルがくれたMPエクスポーション3本とエクスポーション3本が入れてある。
魔法を使ってMPが減ったらMPエクスポーションを飲めば回復するしダメージを受けてHPが減ったらエクスポーションを飲めば回復して元気になる。私のHPなら1ランク下のハイポーションでも完全回復するけどエクスポーションにしたのは傷の治療能力の違いだ。
ハイポーションだと皮膚と筋肉の治療しかできないけどエクスポーションなら皮膚と筋肉と内臓の傷も治療できるからってレンブルが渡してくれた。でも一度飲んだら30分以上空けないと次を飲めないからよく考えて使わないとダメだぞって、アホのくせにいつもと違って真剣な顔で言っていた。
あの事件の日、お父さんが最初に警護隊を怪しいと思った時、お父さんは敵にステッキを向けて戦おうとしたんだ。相手は5人もいたのにお父さんは自信に満ちていた。それは勝てると確信していたからだ。最後は私が人質になってしまったからお父さんは戦えなかったのにアイツ等は臆病者で卑怯者だって言った。私を守ろうとしただけのお母さんにも酷い事を言った。私が仇を討つんだ。
今の私はあの時のお父さんと同じ魔法が使える。だから私は勝てる。
リンスは扉を開けて足を踏み出した。
それに気付いた何人かが歓声を上げると会場中の目がリンスに注がれた。リンスを知らない者たちはその幼さと小ささに驚き、この子が本当に決闘などという恐ろしい事ができるのかと訝しみ心配をしたが、リンスを知る者たちから大歓声が上がると一緒になって声を張り上げて応援した。
それより少し前、地下の西側控室にはリンスの決闘相手アイスマン、ベリーズ、チャンクス、デガルグ、アロップ、エドガーが笑い合っていた。
「アイスマン以外はここに居る必要ねえんじゃねえですか、隊長いや司令官」
「どういうことだ、ベリーズ」
「だって相手は8歳のガキですぜ。アイスマンの槍で一突きすりゃ終わりで俺たちの出番なんてねえでしょう」
「そりゃそうだ。ベリーズに番が回るって事は俺が殺られるってことだもんな。あり得ん」
「油断するなよ、アイスマン。あのガキはファイアーボールの3連発を撃てるんだ」
「4人とも見たって言うけど本当ですか。相手は8歳ですよ、ファイアーボール単発だって無理でしょう。ねえアロップさん」
「そうだな、信じられんよ。娘がそれ程の逸材なら話題になっても良さそうなものだが聞いたことが無い」
「俺も確かに見たがスピードも威力も無かったぜ。ちっこい火が飛んで来ただけで、あれが当たったとしても手で叩けば消せそうだった。実際に隊長いや司令官が3つとも剣で叩き落としたしな」
「こりゃやっぱりアイスマンだけで充分ですぜ。俺たちはこんな所で待つよりも子爵一族や市民どもを叩っ斬る方に回るべきですぜ」
「そうですよ、俺たちも他の隊士みたいに変装して客席に行きましょうよ。バカ市民どもを斬って斬って斬りまくったら楽しいでしょうね」
「今は無理だ。控室の外では警護隊の精鋭が見張っているからな。だがアイスマンがガキを殺して勝利が宣告されればそれを合図に客席に紛れ込んでいる隊士たちが周りの市民に斬りかかる手はずになっている。そうなれば外の警護隊士も客席に向かうはずだ。あとはお前らも暴れ放題ってわけだ」
「へへへ、楽しみだ。いい女がいたら犯してもいいですよね」
「馬鹿野郎、観衆全員皆殺しにするんだ。そんな時間は無い」
エドガーがそう言った時、控室のドアが開いて警護隊士が告げた。
「一番手アイスマン、時間だ」
アイスマンは槍を手に闘技場へ向かいならが戦法を考えた。
さてと、どうやって仕留めるかだな。今まで男も女も何人も殺してきたがガキを殺ったことは無かったな。当然ガキのほうは殺し合いが初めてだから俺を見たらビビッて逃げるに違いない。それを追いかけて行って突くだけだ。嬲りながら殺すか楽に死なせるか迷うところだ。
貴賓席のシュメル様はどっちが好みだろう。これが終わって子爵になったら俺たちを士官にしてくれるって言っていたが折角だから印象を良くして大尉くらいにしてほしい。
そうだ、まずは足を突いて逃げられなくしてからシュメル様の顔色を窺えばいいんだ。喜んでいるならジワジワ殺すし機嫌が悪ければ心臓を一突きにする。
決まりだ。
アイスマンが扉を開いて闘技場に入ると席を埋め尽くした観衆から罵声が浴びせられた。
「人殺し」
「人でなし」
「死ね」
「クズ」
怒号の嵐の中でもアイスマンは平然としていた。ガキを殺した後、お前らは全員死ぬ。そう思うと罵声を飛ばす市民がゴミのように見えた。
貴賓席の最前列には進行役も務める証人の王国法務長官が座り、中段に子爵夫妻とナントの三人が並んでいる。そこへリンスを送り出したレンブルがやってきて座った。その背後をホセ警護隊長と5人の警護隊士、更に防衛隊隊長のドドロギが固めている。
「女神様お願いです。リンスをお守りください」
子爵の妻タリアが天を仰いで祈りをささげた。その瞳は潤み体は小刻みに震えていた。妻の背中を優しく擦りながら子爵が言った。
「ワシも祈る事しか出来ん。これほどの無力感は久々じゃ」
「父上、今からでも止める事は出来ないのでしょうか。これは決闘に託けた口封じです。8歳の女の子と殺し合いをしようとしている時点で自白しているのと同じです」
「ナント兄さん、俺様のリンスを信じてやってよ。初戦を見れば納得するはずだよ」
「レンブル、初戦というが負けたら終わりなのだよ。これはイメージトレーニングじゃないんだ」
ナントは自分の言った終わりという言葉に心が痛くなったようで胸に手を当てていた。そして4人とは少し離れた場所で15名の私兵隊に守られて座っているシュメルに冷たい口調で言った。
「お前は控室にいるべきだろう。介添え人の役目を果たせ」
「ふん、初戦で終わるのに控室にいる必要などない。そんなにガキが心配ならナント、お前が代行者として決闘をすればよいのだ」
「このうつけ者め」
子爵が怒鳴った。
「シュメル、いつからそのような情けない人間になったのだ。闘技会で優勝して少しは見直したというのにこのザマは何だ。何故ソレンタスを殺めた。お前が指示したのであろう。でなければエドガー達を庇う理由が無い。アロップまで抱き込んで何を企んでおったのだ。経理主任が行方不明になっているのと関係しているのか」
「はて、何の事がさっぱり分かりませんな。子爵ともあろうお方が証拠も無しに実の息子を犯罪者呼ばわりするとは我が耳を疑います」
無礼な言葉にナントが睨んだがシュメルは話は終わったとばかりに知らん顔をした。
闘技場内ではリンスとアイスマンが数歩進んで互いを見合った。両者の距離はまだ50mもあるが体格差は歴然だ。身長180cmほどのアイスマンは筋骨隆々で金色のハーフメイルに隠れていても胸板の厚さが窺え、両腕両足共に鍛え上げられていた。大きな手で3mの槍を持って仁王立ちする姿は堂々としており、120cmのリンスと見比べた観衆からは諦めに似た溜息が漏れた。
貴賓席の王国法務長官が立ち上がって宣言した。
「これよりリンスとアイスマンの決闘を行う。では、はじめ」
号令と共にアイスマンは走ろうとして思いとどまった。臆したリンスが逃げると考えて追おうとしていたのだがリンスはこちらを向いて立ったままだったのだ。
そうか、あまりにも怖すぎて体が硬直してしまったのだな。
アイスマンはニヤリとして自分の勇ましさを観衆に見せつけるように胸を張って堂々と歩き始めた。そして両者の距離が40mほどになったところで、リンスが手にしたステッキを上げて何か呟くと同時にステッキの先端に小さな火が発生したのが見えた。
なるほど、ファイアーボールが撃てるというのは本当だったんだな。まあ3連発ではないようだがゆらゆら飛んで来たら素手で叩き落としてやろう。そうすれば俺の強さがアピールできる。
火の弾を叩き落とそうと槍を左手に持ち替えてから前を見るとステッキの先端の火が少し大きくなっているのに気付いた。おかしい、そう思った時には既に火の弾丸は自分の喉を突き破った後だった。
ドサリ、喉から血を噴き出してアイスマンは斃れた。
闘技場は森閑として咳一つ聞こえなかった。
誰もが目の前で起こったことが信じられなかった。確かにリンスを心から応援していたが、まさか勝てるとは、しかもこれほど早々とあっけなく勝つとは、誰一人考えてもいなかった。いやただ一人レンブルを除いては。
そのレンブルが王国法務長官に言った。
「さあ、勝ち名乗りを」
その声で我に返った王国法務長官が立ち上がって言った。
「勝者リンス。次の決闘は30分後だ」
勝ち名乗りを聞いた観衆が漸く目の前で起こったことが現実だと分かり地響きのような大歓声が轟いた。
「うおー」
「やったぞ」
「凄いぞリンス」
リンスは何事もなかったようにヒョコヒョコと歩いて東側控室へ戻った。
地下の西側控室で大歓声を聞いたエドガー達は首をひねっていた。
「変だな。アイスマンが勝ったのにどうして観衆は喜んでいるんだ」
「もしかしたら決闘が中止になったのかも」
「あるいはアイスマンが負けたか」
「負けるわけねえだろ」
「いや、相手が何か汚い手を使ったのかもしれねえ」
「シュメル様が見ているんだ、それは無理だ」
控室のドアが開いて警護隊士が告げた。
「2番手ベリーズ、準備をしろ。30分後に開始する」
「おい、ちょっと待てよ。それはどういう事だよ。アイスマンは」
チャンクスが警護隊士に訊いた。
「アイスマンは死んだ。リンスの勝ちだ」
「嘘を吐くな。あんなガキに負けるわけがねえ。どうやったんだ」
「正々堂々と戦っただけだ」
それだけ言うと警護隊士はドアを閉めて出て行った。
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