第四話:夜、尋問、そしてハトとカルミラ
洋紅色の太陽が砂海の地平へ溶け込んでいく。
ハトは再び家の中へ連行され、カルミラに何故突然井戸へ裸足で走り出したのか、あなたは知らないだろうがこの季節は毒を持つバクーという甲虫が砂を這っていてとても危険だ、もう二度とこんなことはないようにとのお叱りを受けたが、ハトの耳には殆ど入っていなかった。
バクー?サソリの仲間だろうか?
否!そのような虫は聞いたことがない。おれは昆虫学者ではなかったがそれでもこの直感に大きな確信をもっている。そういえば昔、地理の授業でそんな名前の油田があったな。いや、今はそれはどうでもいいことなのだ。おれはそんな虫よりも、大洋で熱された砂を踏んで腫れ上がった足よりも、もっと重大で、かつ、恐らく確実に好転することがないであろう絶望的な事態に直面しているのだから。
この顔は間違いない、七歳の若槻鳩彦の顔そのものだ。精神は確かに二十歳のおれだが、身体はかつて包装紙にくるまって幸福を享受していた頃のおれそのものだ。鉄板が片付けられた囲炉裏の火がゆらめく。カルミラは石に何か書きこみながらなお、おれに向かって一方的なお叱りを楽しんでいる。
どうする?彼女におれの素性をすべて明かすか?いや、そんなことは無駄だろう。全く異世界の住人の、あなたと年齢が近いはずの男が、何故か上空に出現した白い鯨に飲み込まれて、何故か七歳時点の体に戻ってこの砂漠の世界に降り立った?馬鹿馬鹿しい!こんな脈絡のない出来事は今時駅前の売店に置いている得体の知れない新書ですら書くことはない。全く、馬鹿馬鹿しい!しかし、どうする?
「ところでさ」と彼女は未だ石に書き込みながら「何度も聞くようだけれど、あなた、どこからきたの?」といった。
「え?」とおれは再び始まる取り調べを警戒しながら「そうですね……」と口ごもりはぐらかそうとした。
しかし彼女は「はっきり言ってもらいたいわね」といった。「さっきからなんとなく、あなたはどこかおかしいと思っているのよ。言葉づかいにしてもね、きっと育ちがいいからなのねと思おうとしても、とても子供の雰囲気とは思えないのよ。それと、さっき、砂海を裸足で走ってまで井戸に行ったこと。あれは、ただ水を飲みたかったわけじゃないわね、もしそうなら覗かずにまずくみ上げるためのバケツを探すに決まってるわ。それに顔を覗いた後、あなた、まるで自分が様変わりしたかのように驚いてたわね。普通、自分の顔であそこまで驚くかしら。鏡を見たことがないなら別だけどね」
きがつけば、彼女は作業を辞め持っていた石と筆を置き、おれの目を見ていた。「何も話す気がないんだったら、悪いけれど、ここから出ていってもらうわ。元々あなたは私の小屋に無断で入っていたんだから、当たり前よね?」
真実を話しても信じてもらえるわけがないのもよくわかっていた。汗が右頬をつたる。
おれは手をこすり合わせうつむきながら「そうですね」と繰り返す。どうするべきだろう?言ったところで、彼女の鋭い目つきを見たところ、嘲笑を買うどころか怒りを買い、おれは日が沈み暗く冷たい未知の砂漠へ突きだされ一人彷徨うことになる。しかしこのまま黙っていても結果に差異はないだろう。一体どう答えばおれはこの尋問官に存在を認可される?
尋問官と服役囚の間に静寂が流れていく。いつしか囲炉裏の火は、一たび風が吹けば、たちまちきえてしまいそうなほどに衰弱していた。
「どうしても話す気はないのね」と尋問官はなおおれから目を離さずに言った。
「はい」と服役囚は弱弱しく、しかし尋問官の目を見据えて答えた。
「そう……そういうこと」と尋問官は立ち上がりドアを開けて「よくわかったわ」といい、夜の海へと出ていった。
恐らく自主的な退散を求められているのだろう。予想できていたことではあったが、言い知れぬ喪失感がおれを襲った。
今後はどうする?おれは見覚えのない粗末な繊維で縫製された服を着てはいたが、これではとてもこの未知の海を渡り切ることはできないだろうし、万が一渡れたとしても、そこもまた未知の向こう岸だろう。しかしこのまま座り込んでいても尋問官が戻ってきて、抵抗することもできないままこのレンガの島から叩きだされるのが関の山なのはよくわかっている。
よし、行こう。おれはそんな辱めを受けるよりは自分から飛び込むのを選ぶ男だ。話は通じるのだ、向こう岸にたどり着くことができれば何とでもなる。おれはドアへとゆっくりと、しかし確かな足取りで歩んだ。大丈夫、きっと大丈夫だ。そう自分に暗示をかけながら爪先立ってドアノブに手をかける。
その瞬間、再び反対側から力が加わり、ハトは部屋の中へと押し戻された。カルミラが戻ってきたのだ。 左手には水を入れたバケツが握られていた。
尋問官が戻ってきた!おれはドアを開けて立つ彼女の前で尻もちをつき、ただバケツを持ちながら自分を目でとらえる彼女を上目で見ることしかできなかった。
ああ、恥ずかしい、おれは今この女酷吏の目の中でどんな矮小な存在になって映っているのだろうか。
次はきっとそのバケツの中の水をおれにかけるつもりだろう。しかしそうはいかないぞ、おれは必ず反抗してやる。その、よく鍛えられているが陶器のように美しい脚に噛み付いてやるぞ。
そう思っていた矢先、尋問官はなお座り込んだままの俺を尻目に、囲炉裏の前に立ち、勢いよく水をかけた。
「焚火を消すにはこれが一番早いのよ」と彼女はいった。おれは状況を理解できずにいる。
「今はね」と彼女は後始末をしながら言った。「家畜小屋に現れた謎の少年・ハトってことにしてあげる。七歳で隠し事なんてませた子ね」
計らいを理解したおれは立ち上がって「あ、ありがとうございます!」といい、深々カルミラへ頭を下げた。
「あら、勘違いしてもらっちゃ困るわよ」と彼女は微笑みながら「いずれあなたの正体は教えてもらうし、もちろんここにタダで居させるわけにもいかないわ。子供といえど自分のご飯は自分で作らないとね」といった。
おれは顔を挙げ「もちろんです、自分にできることなら何でもします!」と言った。
すると彼女は微笑みを企みの顔に変え「何でもねぇ……」といい続けて「明日、私と一緒についてきなさい。いいところへ連れていってあげるわ」といった。「さ、今日はもう寝ましょう!夜を生きる者は大北方の魔術師たちだけよ!」
おれは一枚しかないかけ布をカルミラから譲り受け、くるまりながら考えを巡らせていた。
いいところとはどこなのだろうか?彼女の一瞬見せたあでやかな笑みから予想するに行くのが憚られるような場所なのだろうか?何でもする、というのは、軽々しく使うべきではなかったな。
カルミラはすでに静かな寝息を立てながら眠りについている。そういえば彼女が語っていた「大北方の魔術師たち」とはなんなのだろう?この世界には魔術があるのか?科学はないのか?魔術があるということは、尋問の時に行っていた石の装飾は何かの魔術の一種なのだろうか?そういえばまだ聞いていないことが山積みだった。ここは何という国なのか、何故一人なのか……ああそうだ、ビキ・ビキもだった。
まあいい、すべてはあした聞こう。何も遅いということはないのだからな。
そうして、執行猶予の囚人は深い眠りについた。
砂海は夜風に靡いている。