第三話:若槻鳩彦の目覚めと生じた違和感
おれは目を覚ました。
太陽が地平線から図々しくその巨体を現し、暫くたってからおれは目を覚ますのだが、今日に限っては何か変だった。一体何が変なのかを考えてはいるのだが、とにかく何かが変だった。
では一体何が変なのだろうか?身体は多少の気怠さが残るものの、これはおれの生来の体質によるものだったし、唇の裏側で固まり口内にこびりついた唾液も水を飲めばたちまち喉の道を通り胃酸の池へと到達するのだ。一体何が変なのだろうか?
そうだ、鯨だ!おれはあの寒い夜のケーキ屋の前で間違いなくあの白い鯨に飲み込まれたのだ。
あれは一体何だったのだろうか?この違和感の正体はこの鯨のせいなのだろうか?それともあれは幻覚だったのだろうか?いや、確かに他の人間も姿を確認していたはずだ。
終わりのない思考を巡らせながらおれはゆっくりと目を開けると、そこには装飾の施されているランプが吊るされた高い天井が広がっていた。山吹色の灯は弱々しかった。
おれの背中に嫌な汗が頭からつたる。自分が住むのは畳六畳の西日が強い部屋であって、レンガが積まれボロボロのじゅうたんが敷かれた部屋ではなく、ましてや寝具も布一枚で済ますほど生活に困窮していたわけではなかった。ここはどこなのだろうか?まだ幻覚を見ているのだろうか?
気づけば顔一面に汗がこびりついていたのをおれは右手で頬を触ったことで知った。日照時間が短いこの季節の汗の量ではなかった。その発汗異常はたしかにこのおかしな気分とつながっていると思い、おれは天敵が襲来した猫のように極めて俊敏な動きで飛び起き、レンガ造りの乾燥した部屋から出ようと大きなドアへ突進し、高い位置に設置されたドアノブになんとか手をかけた瞬間、反対側からかかった大きな力によって再び部屋の中へ押し戻された。
「あら、目が覚めたのね?」
野球の球ほどの大きさの卵を持つ力の主はこれまでに会った記憶がない女だった。整ってはいるが浅黒く引き締まった顔は彼女が決して楽な生活を送っていないことを物語っていた。あまり手入れが施されていないであろう黒く長い髪は束ねられ後頭部から垂れている。
「小屋の中で倒れていたからびっくりしたわ。でも本当はダメなのよ、他人の小屋に勝手に入っちゃ」
ここでおれに違和感が生まれた。おれは彼女を見上げているのだ。おれは決して身長が低い人間ではなく、仮に彼女が自分より身長が高い事を考慮してもこの違和感をぬぐうには些か説得力にかけた。何故ならば、おれは彼女をまるで巨大なポールに掲げられた旗を見るように見上げていたのだから。
「あなたのおかげですっかり日が昇っちゃったわ。本当はもう出発してたはずなのに」
違和感はそれだけではなかった。彼女の緑青色の瞳やよくとおった鼻筋、女性らしく発達した身体を見る限り、それは明らかにアジア人の特徴ではなかったにもかかわらず、おれは彼女の艶やかな口から自分に向けて放たれる言葉の意味をしっかりと理解していた。日本語以外で誰かと会話と交わしたことがなかったのにもかかわらず。
おれが身体にまとわりついていた違和感の摘発をしていると「ねえ、あなた、なんで私の小屋にいたの?」と彼女が背中を向け石をこすりあわせながらおれに問いかけてきた。
彼女は「あなた一人で大きなビキ・ビキを連れ出せるとは思えないし、あんなところで倒れていたのもおかしいわ」といった。「誰かと一緒に入り込んだのね?」
困った。おれは何故この部屋にいるのかもよくわからないし、ましてや小屋で倒れていたというのもたった今知ったのである。ビキ・ビキとは何だろうか?彼女の言動から具象を導き出すと、恐らく家畜の類なのだろうが、そのような動物は二十年の懲役中ついに一度もきくことがなかった。それとも彼女が牛か何かに名付けたのだろうか?
「私の予想としてはね」と彼女は言いながら振り返り言ったが「あなたともう一人……そうね、あなたよりもっと年上の人間と協力し、何らかの方法で小屋に入ってビキ・ビキを見つけ出したはいいものの、実はあなたを人知れず……うーん……」と急に口ごもりまた背中をおれに向けた。
「あなたを、そうね……そう、置き去りにしたかったのね。となるとそのもう一人はあなたがいると困る人間……両親かしら?そうなるわけか……」と彼女は先ほどまでこすり合わせていた石を鉄板の下に投げ入れて話を続ける。「ねえあなた、私の予想当たってる?」
急に質問を投げかけられたおれはたどたどしく「そうですね、まぁ、多分そうなんじゃないですか」と空っぽの返答を送った。
「うーん……まだ引っかかる事があるんだけどねぇ………」と質問の主は持っていた卵を鉄板の上で開けた。
「さ、こっちに座りなさい。まだでしょ、ご飯」
おれの腹が弱々しく鳴った。「……はい」
彼女に促されるままに部屋の中央部に敷かれた囲炉裏(と形容するしかない)の上に設置された鉄板の前に座ると、そこには何か白い塊が聴き難い叫び声を挙げながら蠢いていた。おれは食道から臭い立ってくる胃酸の匂いに眉をひそめながら「あの…なんですかそれ」とそれを時々ひっくり返して焦げ付き具合を確認する彼女に聞く。
彼女は「あら、あなたが盗もうとしたビキ・ビキの卵よ。知らないの?ここら辺じゃ大衆料理なのよ。ということはあなたはこの辺の子じゃないってわけね」といった。
「それと」とおれが違和感を解決するための質問をする直前に彼女は言った。「カルミラ。私の名前よ。あのとか、えーとじゃ、不便でしょ。あなたの名前は?」
「若槻……若槻鳩彦です」とおれは言ったが、「え?」とカルミラは首をかしげる。
ワカツキハトヒコ?珍しいわね。
何がですか?名前よ、そんなに長い名前って滅多にないから。もしかして、王家の方?
違うよ、ぼくはそんなんじゃない。あらそう、じゃあ差し詰め屋号ってことかしらね。
とにかくワカツキハトヒコじゃ名前を呼ぶとき言いにくいわ。別に分けてもいいんですよ。
これからはそうね……ハト。ハトって呼ぶことにしたわ。……はあ。それでもいいですけど。
若槻鳩彦あらためハトはこの状況に少々うんざりしていた。叫び声を潜めすっかり焦げ付いた白塊は見た目よりはよほど美味かったが、このカルミラと名乗る女が彼の素性を散々と取り調べたのである。出身はどこだ、なぜここを選んだのか、親の名前は何なのか、なぜ食事のとき神に祈りをささげなかったのか、彼は適当に相槌を打ちながら空虚な返答を繰り返したが、すでに限界が近かった。違和感はまだ解決できていないどころか話をするたびに増えていったが、とにかくここを出よう、このカルミラと話していてはおれの知りたいことが何一つ解決できない。そう思い、朝食ありがとう、そろそろぼくは失礼するよといった矢先だった。
「出ていく?この時間に?あなたのような子供が?」彼女は確かにそういった。
子供?彼女にはおれが子供に見えるのだろうか?顔から再び汗が湧き出る。次の瞬間おれは手の届かないドアに体当たりして外に出た。外は一面に砂漠が広がっていた。太陽はすでに沈みかけている。
家の奥から彼女の声が聞こえる。どこにいくの、あなたどこいくの、あなたのような子供がどこにいくの。 うるさい!おれは子供じゃないんだ、おれは二十歳の服役囚なんだ、そう心の中で叫びながら辺りを見回すと、北の、わずかに草木が添えられている、石で囲まれた穴があった。恐らく井戸だろう。
よし。見てやる。おれはおれの顔をあの粗末で汚い井戸の中で汚らしく溜められている水でみるぞ。そうすればおれの二十歳相応の顔がうつっているはずだ。決して子供の顔ではないはずだ。きっとそうだ。
一歩、また一歩とおれは鏡へ近づく。家から出てきたカルミラが俺の後を追いかけてきている。おれは捕らえられまいと鏡へ向かい手を振り上げ突進した。
見るぞ、見るぞ、絶対に見るぞ。見て彼女を嘲笑するぞ。
きみはぼくのこの顔を見て子供といったのか。きみは今まで男を見た事がなかったのか。
それもそうだろうさ、こんな砂の海で一人で住んでいるようでは、そんな機会もないだろうさ!
そう考えながら走っているとやがておれは目当てにたどり着いた。足の裏は砂の熱で腫れ上がっているが今はどうでもよかった。おれはひざまづき井戸を覗いた。
そこに二十歳の顔はなかった。
あったのは水面に浮いた砂と、井戸の上に垂れた草木の枯れ葉と、まだ幼児の面影が残る少年の顔だった。
「ちょっと!水が飲みたかったのならそういいなさいな!」
女の疲れと怒りの混じった顔がそこに加わった。