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空には鯨、鯨は異世界の扉  作者: 祭九陽
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第一話:空には鯨

 今日、二十歳になった。

 二十歳、おおよそ八十年の人生のうちの四分の一を終えたことになる若槻鳩彦は、刑期の四分の一を満了した事を誰にも祝ってもらうこともないまま深い喧騒に包まれた夜の繁華街を歩いていた。

他人に祝ってもらいたいという感情はなかったが、それでも薄暗い裏路地の一角に弱々しくそびえたつ築五十年の二階建てアパートに内包された畳六畳の一部屋にいるよりは、ネオンの灯りと笑いあいながら歩く人たちの中に紛れて多少の幸福を分け与えてもらった方が身体にとって健康だと考えたからだった。


 幸福というものはこの国の若者にとって積極的に推奨されるべき言葉ではなく、むしろ自分の置かれた状況を偽装するための包装紙に過ぎない、と若槻鳩彦は人で溢れた歩道を生垣の迷路を進むように歩きながら考えていた。

 おれがまだ7歳の子供だった頃、両親が離婚した。あの時代、間違いなく幸福を享受していたであろうその二人は眼を細め口角を上げながらおれと家族を構成していたのにも関わらず、ある日突然包装紙はそれぞれの友人を自称する闖入者たちにより引き裂かれた。

以来おれの皮膚には幸福への不信と疑問の垢が刑期を務める間に大量に付着し、それらを包み隠す包装紙も獲得できないまま四分の一を満了したのだ。

それにもかかわらず、なぜおれはこうして人の海に紛れながら他人の幸福をかすめ取ろうとしているのだろうか?


 持論への疑問を投げかけていると「ケーキ、ケーキはいかがでしょうか!日頃の感謝をこめて今日限りの半額大セールです。ケーキ、ケーキはいかがでしょうか!」と車道を挟んだ向かいの洋菓子店の入口に設置されたテーブルの前に立つ店員の甲高い声が聞こえてきた。

ケーキ。最後に食べたのは確か九歳の誕生日を母の実家で祖父と過ごした時だったろうか。

タクシードライバーを務めていた祖父が帰宅途中で買ってきてくれた小さなチョコレートケーキ。

祖父がおれの為に買ってきてくれた小さなチョコレートケーキ。

「鳩くんは、チョコレートが好きってお母さんに聞いたから。」

いらない、鳩くんのために買ってきたのだからと言う祖父を説得し分け合いながらそれを食べあったあの静かな時間こそ、おれが闖入者たちによって裂かれた包装紙を一時ながらも修復することができた瞬間であったのかもしれない。


 ふと気が付くと、おれはケーキが山積みされたテーブルの前に立ち尽くしていた。

「いらっしゃいませ、どれにいたしましょうか!」

店員が愛想のいい笑顔でおれに元気よく問いかける。「本日はこちらの商品すべてが半額となっております」

「そうだね」とおれはいった。「お勧めはどれだろう?ケーキはあまり食べないから良くわからないんだ」

「全部です!」と店員は言った。

「全部?」と僕はうすらわらいを浮かべながら言った。「全部は買えないよ。学生なんでね、お金もあまりもっていないんだな」

 そう言うと店員は目を丸くした後、すぐに眼を細めて激しく笑いながらいった。「お客さん面白いですね。ただの洒落なのに」

 笑い続ける店員におれは少しむっとしながら「もちろんわかっていたさ。こういう洒落にのってあげるのも悪くないと思ったんだ」といった。「もう一度聞いておくが、お勧めはどれなんだろう?洒落にはもうのらないからな…きいてるのか?」

 眼を細めて笑う店員はもういなかった。そこにはまるで夜の猫のように瞳孔を開いた女がいただけだった。「あの、後ろのあれは一体何でしょうか?」


 後ろ?おれの後ろになにかいるのだろうか。この暇な店員の性質を考える限り、恐らくは何もない背後を大慌てで振り返るおれを見たいだけなのだろうが、いいだろう、どうせおれも暇なのだ、たまにはこういう暇つぶしも悪くないだろう。

そう思いつつ振り返ると、予想した通りおれの背後にはネオンの灯りでできた影しか存在しなかった。

おれは再びうすらわらいを浮かべながら「これで満足しただろ、さあ遊びはこれまでにしよう。君もぼくも本当はただの店員と客の関係なんだからね」といった。

しかし店員は表情を崩すことなく「空!空に!」と明らかに冗談とは思えない興奮した声色で言い放った。「空に鯨が!」


 もう一度、しかし今度は空に目を向けながら振り返ると、確かにそこには鯨が悠々と空を泳いでいた。

おれはあまりの非現実感に思わず眼をこすったが、未だ鯨は星の見えない夜空を自分のベッドの上のように泳いでいる。

「こ、これは一体……」

「すごいわ!企業か何かのイベント?あっ、撮らなきゃ!」店員は興奮した面持ちで携帯電話を取りだし、1枚、また1枚と写真に鯨を収めていく。気が付くと周りの通行人も立ち止まり、その空に浮かぶ怪物を見上げている。

しかし店員は「あれ、おかしいな…」と興奮を解体させながら言った。「鯨がうつってない…」

周りの通行人が携帯電話をとりだして鯨を写真におさめようとする中、おれは全く身動きが取れずにいた。

おれは、間違いなくこの鯨に監視されている。何故かはわからないが、おれの全身の感覚という感覚がこの鯨に向けて放たれているのを実感した。


 やがて、地平線を見据えていた鯨が一変して目線を下に移した。おれは向かい風にも似た重圧を体に感じたのを覚えたが、動くことはできなかった。

そして鯨はその巨体を翻し、顔をこちらに向けると、通行人たちが一斉にざわつく。眼は相変わらずおれを捉えて離さない。この鯨は間違いなく我々にとって善良なものではないということは、恐らくこの場にいた殆どの人間が感じているだろう。先ほどまで写真を撮りながら興奮していた店員は酔いがさめたように黙ったまま鯨を不安な面持ちで眺めている。


 次の瞬間、鯨が大きく口を開け、体をうねらせながらこちらに突進してきた。

通行人たちは「逃げろ!逃げろ!」といいながら我先にと押し合い方々へ散っていったが、おれだけは動


 この突如夜空に現れた鯨は最初からおれをねらっていたのだ。くことができずに立ち尽くしながら突進してくる鯨を睨むように見ていた。

何故身動きが取れないのかはまだわからないが、とにかくおれを捕食せんとしているのは間違いない。

気づけば周りの通行人や店員は全て消え去っていた。今この洋菓子店の前にいるのはこの大きな蛇と無力な蛙だけということになる。

まあ、これはこれでいいじゃないか。空に現れた鯨に食べられた青年は今後の歴史上においてもまず再来することはないだろう。言ってしまえば何かを成し遂げた偉人と同列というわけだ。

さあ怪物よ、飲み込んでくれ。少々意外な結末だったが、長い長い懲役刑もこれで晴れて満了となったわけなんだからな。


 そうして若槻鳩彦は、鯨に飲み込まれた。

 店員たちが戻ってきた後には、鯨はもういなかった。



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