共感と創作について
家に冷蔵庫が来た。ケイが実家に帰り、その時ケイを迎えに来たオヤジさんか何かが持ってきてくれたらしい。その中にはウオッカと三ツ矢サイダーだけが入っている。酒もジュースもぬるいまま飲むより冷たい方がうまいし、混ぜたものなんかは余計にそうだ。たまらなく汗をかいている。
俺はもう全てを諦めている。
変な言い方になるな。
他のものに期待する事をやめた。
意味がないからだ。
俺は頭がおかしい。
感じ方がおかしい。
例えば西野カナやエグザイルやK-popの歌を聴いてもまったく興奮しない。
ニルヴァーナやピストルズやロッシーニやメタリカの方が興奮する。
脳が跳ねる瞬間というものがある。
それは多分みんなが体験した事のあるものだと思う。
例えば何かで一等賞になった時。
例えば運命の人(ふざけた言葉だ)とセックスをしている時。
例えばいい音楽を聴いている時。
そういう時何か脳が跳ねる感覚というものがあると思う。
何かうねりの中で自分がボールになり転がっているような、ピンボールで球になって弾かれてあっちやこっちや光や音に跳ねつけられているような感じだ。
そういうものは多分脳のどこかに電気が流れるとなるのだと思う。
そういうものはドラッグを打つ事で代替になる。
その、電気が流れるスイッチが、たくさん居る人と違っているだけなのだ。
電気が脳のどこかに流れると、そういう状態になる。
俺のずっと使っているエフェクターに、ディストーション1というエフェクターがある。(どうでもいいが今は正規品でなく、モデファイ品を使っている。)
それの両端にシールドを突き刺して、電源に9vのコンセントを刺して、踏めば、赤か青のランプが点り、ギターの音がめちゃくちゃに歪む。
通電とは、そういう感じだ。
例えば西野カナのトリセツ(この間村上龍のエッセイで最近の救いようのない、カラオケに行って友達と楽しく過ごして将来の夢は何もないという取扱説明書があるような女子高生が居るという文を見てこの歌を思い出して笑ってしまった。)を聴いても俺はそのスイッチが通電にならない。
本当に意味がわからなくて歌詞を見たがわがままな、自分を受け入れてくれという女の歌詞にしか見えなかった。
例えばニルヴァーナのSmells Like Teen Spritという曲がある。(中二病の奴が好きな曲だ。最近は、ワンオクだとか、マンなんたらミッションがカバーしていた。最低だった。)
あの曲の歌詞に意味はない。
意味がいろいろ語られているが、意味がないというのが本当なのだと思う。
意味のないエネルギーだけがそこにある。
そういうものの方が、俺はよっぽど"共感"する。
俺は別に俺が優れているとか舌が肥えているとか言いたいわけではない。
ただ変なだけなのだ。
だから俺は何にも期待しない。
資本主義は当然、多くのものに向けて売る。
その多くのものとは違う脳の仕組みをしてしまっているのだから、俺はもう諦めて、自分でそれなりに気持ちよくなるしかない。
ほとんどのものは意味のない事に無理に意味をつけようとしている。
人間には意味がない。
愛にも恋にも意味はない。
じゃあなんで生きているのか? という話になる。
死のうとすると痛いからだ。
脳が跳ねるエネルギーがあるからそれで慰めて生きているだけだ。
本当は何にも意味はない。
死のうとすると痛い、という事と、エネルギーがあるという事しかない。
それにすら意味はない。
ただ自分が感じる事である事なのは確かだ。
意味なんていう、他者からの目を気にすると、それがわからなくなる。
気持ちいいか、辛いか、生きているか、死ぬか。本当にあるものは、それだけだ。
創作について考えていた。
俺は創作という言葉が嫌いだ。
創作をしているという人間も嫌いだ。
それについて考えていた。
よく居るが、活動報告に今度○○賞に応募するための短編を書いていますなんて言う奴。
あれを見ると最低な気分になる。
そのことについて考え、一つ答えが出た。
何度も書いている気がするけど、俺には好きな人が居て、それは村上龍と富野監督とカートコバーンだ。
そいつらの共通点として、創作は恥ずかしいものだ、と認識しているという事がある。
俺もそう思う。
創作とは本来恥ずかしいものだ。
裸になってチンチンぶらぶら振ってるんだ、好きになってください。
創作とは本来恥ずかしいものだ、完璧な人間は自分をわかってもらおうなんて恥ずかしい事はしない、欠点があるから創作なんてやるんだ。
俺は自分自身を愛する、多分あんたよりも良く。それが良くないってわかってる、だからってどうしろってんだ?
恥ずかしいものだとわかっているからこそ、他人に少しでも見せられるよう、必死に努力する。
結局他人のために本気になんてなれない。
自分があるだけだ。
俺も最近、それに気づいた。
思い出した、というべきかもしれない。
子供の頃、俺がいくら痛くても悲しくてもおかあさんは他人だから、わからない、と言って、母親がなんでそういう事いうん、と泣くことがあった。
何度かあった。
俺はその時から変わっていないみたいだ。
他人が死のうが俺は痛くない。
俺が死のうが他人は痛くない。
"創作"を他人にアピールできるような、人に好かれるようなものだと思ってる奴は、ゴミだ。
言ってしまえば、飯の種を食うため、見世物小屋に出ている事と、なんら変わりない。
そこに偉そうな顔をして道化として立っているか、結局自分の置かれている状況を理解して、精々愛想を振りまくか、程度の違いしかない。
今取り組んでいる事が一つある。
あった。
ひと段落して、熱が冷めてしまった。
ある人がいる。
その人は俺がずっと好きだった人だ。
その人が俺が、本質的に、生理的に、嫌いなものを褒めた。
俺はその人と話したくて必死に取り組んだ。
俺は、白けてしまった。
結局、俺も人間と、何も変わりない。
今はゲームを作っている。
戦略ゲームだ。
元からあるMODで、洋楽の人物が、将軍として出てくるMODがあった。
そのMODの出来、というか、人物の造詣が、ゴミすぎたので、自分で作ろうと思った。
カーク・ハメットが女なんだぜ。
笑っちゃうよな。
将軍にするために、キースリチャーズとミックジャガーの絵を描いた所で、白けてしまった。
俺は、ここに居てはいけないのはわかっているが、どこに行けばいいのかわからない。