病癒えて
病 癒 え て
1
「息子を大学にと思っています。この四月から高校二年生になります」
「そうですか。娘さんは中学二年でしたね。するともうすぐ三年生ですね」
「家内も三月の初めからコンビニで働き出しました。パートですからたいしたことにはなりませんが」
「失業保険はどうなっています?」
「九月までの支給です」
「ご希望どおりの給料はとても難しいと思いますが、何とかご要望に近い所をリサーチしてみましょう」
茂はそう応えて面接を終えた。今日のところは本人の要望を聴取して引き取ってもらうしかない。今までの仕事の経験を生かせる勤め先が一番だが、技術を身に付けている人とそうでない人とで大きく差がついてしまう。
年功序列、終身雇用制度が日本の労働慣行として定着し、今日の日本の繁栄を築いてきたと茂は思っている。しかしアメリカの雇用慣習を日本に持ち込み実力主義、効率主義を言い出した経営者がここ数年急速に増大している。特に人件費の節減で経営環境を改善しようとリストラ流行りの感があると思えて仕方が無い。
とはいっても大企業に定年まで勤めて、リタイア後も茂のように再就職支援会社に就職できたのは、矛盾しているようだがリストラ流行りのお蔭である。複雑な思いであるが、大手電気メーカーの福利厚生部長として四千三百人の面倒をみてきた恩典としてこの仕事につくことが出来たと言っても過言ではない。別府に二年、魚津に一年半、そして四国讃岐にやって来て半年になる。
魚津では大変だった。表日本と裏日本という言い方は最近余りしなくなったが、今回の斡旋作業では産業の空洞化を茂は身をもって味わった
農業だけでは喰えないと、農繁期以外は出稼ぎ風に働いていた人たちも多い。東京や名古屋まで出かけて行くのはためらいがあり、できるだけ地元でというと大変難しい。構造改革と称して、中央では色々と取り沙汰されているが、地方の公共事業が激減して働き場のない人たちが溢れてきた。そんな状況下での再就職斡旋である。土木関係の会社の倒産も毎月耳にする時世だ。四十七人のクライアントで、希望を叶えられたのは半分にも満たない惨憺たる実績で、茂は四国に回されたのだった。
四国一の、大手冷凍食品会社が経営改善と称してリストラに踏み切り、八十七人が再就職を願って茂の会社にリストアップされてきた。これといった特殊技術を持たない社員にとって、今回のリストラは深刻である。高年齢の社員で、しかも特別これといった技術を身につけていない、ラインに就いていた者が多い。だから次の就職斡旋もことさら難航している。考えてみれば高度経済成長の真っ只中、身を粉にして現場で汗を流し、あと少しで定年という時に、首になってしまった人たちである。酷い話だ。会社の今はこの人たちの手によって、支えられてきたと言っても過言ではない。それを承知のうえで、経営の側から見れば生き残りを賭け、株主の要求に応えるためにはやむに止まれぬ処置であろう。
2
「結婚が遅かったものですから、まだ長男が大学二年生なんです」
「どちらの大学ですか」
「東京の私学の工学部に行っとります」
「工学部ですか。それは頼もしいですね」
「子供にだけは私のような現場の仕事はやらせたくないと思って」
「そうですか。東京は家賃も高いし、なかなか大変ですね」
「アルバイトもしているようですが、何しろ理系ですから、実験の授業が多く、レポート提出までグループで作成するそうで、個人の勝手は許されず、思うようにならんと言うとります」
「いや、うちの息子も理系でしたから事情はよく解ります」
「ああ、お宅もそうでしたか。文系に進んでくれてもよかつたんですが」
「最近就職難ですが、理系のほうが文系よりいいのと違いますか」
「そうだといいんですが」
「下のお子さんは、高校生?」
「下は女の子で、今高一です」
「するとお子さんはお二人だけ?」
茂は書類である程度わかっていたが、気持ちをほぐすためにわざと会話を進める。
「息子には自分の遊ぶ金くらいは、自分で稼ぐようにと言ってやりましたが、なかなか」
「理系では、アルバイトは夜しかできないでしょう」
「親の心子知らずで、いまどきの若いもんは
いい気なもんです。こんなことになると判っていたら、東京に出さずに地元の大学に行かせていたらと思うこともあります」
次の就職先に対するクライアントの希望を聞いて、一応面接を終えようとした矢先、こんな愚痴を聞かされた茂は、まだ予定の半分も終わってない。気は焦るものの、これも仕事の一部と思い直して我慢するしかない。
「高年齢で再就職先を探す、あなたのような立場の方に、お望みのような給料を出す企業は一寸難しいですよ」
「実は女房が乳がんで入院しまして、近くのスーパーにパートで行っていたのも辞めたもんですから、マンションの払いが厳しいんです」
「事情はよくわかりますが、余り高望みをしないで下さい」
面接で職務経歴書を作成し、本人の強み、弱み、希望職種、業種、希望年収、勤務地などの聞き取り調査をする。こうして八十七人全員の面接を終えるのに、スタッフ三人で四日もかかった。
早速、翌日から面接データを持って企業めぐりである。普通、支店長はカウンセラーが主要業務であるが、茂のような地方支店勤務ではそうも言っておれない。支店長として二十七人、現場希望者を担当することになった。造船が今は好景気だから、ターゲットは丸亀の造船所めぐりだ。未経験の人でも勤まる仕事はなかなか無い。雑用的な仕事を六人ほど確保して初日は終えた。
「少々通勤が遠くなりますが、とりあえず丸亀の造船会社を紹介します」
「丸亀ですか」
「丸亀はいけませんか」
「いや、そんなことはありません。少し遠くてもいきます。ただ、造船会社というのがちょっと引っかかりまして。今までの仕事とはまるで違う世界のように思われますので」
「まあ、何とかやってください。欲を言っていたら再就職は難しいですよ」
「すみません。頑張らなくてはなりませんな。ひと歳とっているんですから」
「明日面接に行ってください。今まで通りにはなりませんが覚悟の上で」
奥さんが癌で入院しているSさんに一番に声をかける。その人の置かれている立場を考えて事を進めるのが茂のやり口だ。三日ほど経ってSさんから電話連絡があり、給料は厳しいが、この際贅沢は言っておれないので決めてきたとのことであった。一先ず安心する。どうか長続きすることを願うばかりだ。
3
八月の半ば、茂は夜に何回も目が覚めるようになった。多いときには三回から四回トイレに行く。尿意を催して目が覚めるのだが、量はチョロチョロであまり出ない。血液検査での前立腺腫瘍マーカーのPSA数値は五・四で、精密検査を受けるように、大阪に残してきた妻の雅子からうるさく言ってくるが、仕事に追われてなかなかそのチャンスがない。PSA数値が四を超えると、前立腺癌か肥大の心配があると言われている。M電気にいたころは年に二回の検診があり、これといって問題はなかった。再就職してからは、小さな会社なので社の健康診断は無い。自分で管理するしかないことは重々わかっていたが、どうも最近気になってきた。
観音寺での仕事が一段落した九月の初め、茂は中学の友人、大さんの息子の勧めで、高松の公園近くのR病院の泌尿器科を受診した。尿検査、レントゲン検査に続いて、CT検査をした。茂は診察に際して、何があっても驚きませんから、告知をしてほしいと訴えていた。検査後の診断でMドクターから
「前立腺癌と膀胱癌の疑いが濃厚なので、試料を採取して顕微鏡検査をして見ましょう」と淡々と告げられた。覚悟はしていたものの、やはり少々ショックだった。かつての会社で退職二年後に、大腸がんで他界した親しい先輩がいた。とうとう俺もこんなことになってしまったか。
「おい、前立腺癌と膀胱癌の疑いがあるといわれたよ」
「まあ、やっぱりそうだったの。早く精密検査を受けて頂戴と言ってたでしょう」
「まあそう言うな。まだ疑いがあるという段階なんだから。忙しかったのだから仕方ないよ。一週間先に顕微鏡検査をしてもらうことにした。一週間後には結果がわかるそうだ」
「私、明日にでもそちらに行くわ」
「心配するな。もし癌としても手術で完治するとドクターは言っていた」
「でも転移していたら手術しても駄目なんでは?」
「まあ、検査の結果待ちだよ」
その夜、妻の雅子にこのことを電話連絡したら妻の方がショックを受けたようであった。明日にも観音寺に来ると言う。精密検査は一週間先の予約だから急がなくて良いと言って電話を切ったが、さすがその夜は眠れなかった。
翌日出張所に出勤したら事務のN嬢が心配して声を掛けてきた。
「いやたいしたことは無かったよ」
とさりげなく応えてその場は終わったが、一週間後の精密検査で又休暇をとるので、その時はバレバレになる。入院、手術ということになれば更に隠し通せるものではない。その時はその時だと思いながら仕事を始めた。
あちこち回って、再就職先の情報を手に入れていたので、今日からは自分の担当するクライアントを、再度呼び出して斡旋作業に入る。
六人予定していたが、内定したのは四人だった。やはり今までの給料から、ガタッと落ちるのでなかなか納得がいかない人も居る。今の経済状況と自分の置かれた立場を、自分なりに消化できないのも無理は無いが、覚悟するまでに時間のかかる人も居る。それはそれで仕方ないことだと、茂は気長に待つしかない。自分のしている仕事は人助けだからと、茂は自分に言い聞かせながら、根気強く頑張ることにしている。
4
Mドクターとの約束の日がやってきた。事務所には、一寸用事があるのでと断って三日間の休暇をとり病院に行く。約束の時間を二十分程過ぎて呼び出しがあった。
分娩台のような装置に脚を縛られて、内視鏡で針生検の為の試料を採取する。大きく深呼吸して腹部に力を入れず、口を大きく開けているようにとドクターから注意があった。局部麻酔なので作業のすべてをモニターで見ることができた。痛みはほとんど無い。挿入の時少し違和感がある程度だ。自分の膀胱の中が手に取るように見える。
「これから何箇所か試料を採取します。チクッとしますが心配は要りません」
そう言って何回か内視鏡の出し入れがあって、三十分程で検査は終了した。
事後の用心のため二泊の入院である。病室に戻ると心配そうな顔で雅子が待っていた。
昨晩大阪から駆け付けてくれていた。単身赴任がここ三年ばかり続いていたが、今度からは雅子も一緒に住むといってくれた。二人の息子は既に、東京と名古屋に就職して独立している。後は結婚を待つだけだ。大阪の家を無人にすると家の劣化が激しいからと、茂から単身赴任を言い出していたのだが、今度ばかりは雅子も承知しない。今のアパートは、一人住まい用の六畳にキッチンだけの間取りだから、どこか探さなくてはなるまい。茂はベッドに横たわりながら考えていた。そうだ、N嬢は地元出身だから、どこかいい所はないか頼んでおこう。住まいが確定してから雅子には来てもらえば良い。検査結果は退院までに判明するとのことだから、その結果を聞いて雅子は出直すことになった。検査の翌日から二日間、どこも痛みは無く何もすることの無い退屈な日を過ごした。退院予定の日の朝、病室の整理をしてMドクターの診断を待つ。十時ころ呼び出されて診察室に行く。パソコンに茂の検査結果を出して説明が始まる。
「前立腺は針生検を八箇所やって検査の結果五つ癌細胞が見付かりました。でも小山さん心配は要りません。顔つきの良い癌ですから、放射線治療で何とかなります。しかし癌の転移が心配で、転移していたら前立腺の手術をしても意味がありません。特に転移が心配ですから、MRIの検査と骨シンチグラフィーの検査が必要です。膀胱の方にも間違いなく癌がありますが、これは比較的進んでいるので切除手術が必要と思います。とにかく今日の午後、MRIと骨シンチの検査を受けてください。その結果で今後の治療計画を立てましょう。先に前立腺をやっつけて、それから三ヶ月程置いて膀胱癌の手術と言うことになると思います。」
茂は最初の診察後、ネットで色々検索していくらかの情報を手に入れていた。だから前立腺の方は、肥大という診断を半分期待していたが、少しがっかりした。覚悟はしていたので、妻の雅子ほどのショックは無い。でも自分はどんな診断が下ろうと大丈夫だと思っていたが、やはりその時が来ると勝手なもので、やはりショックは隠せない。
午後MRIと骨シンチの検査を受けたが、ドクターは多忙で、結果についての説明は十日後の予約となった。
〈もうここまでくると、事務所のスタッフに内緒という訳にいかないなあ。打ち明けざるを得ないだろう〉
そんなことを思いながらとりあえず退院した。
5
「骨転移は無いと思います。前立腺癌の治療を放射線療法ですることをお勧めします。埋め込み式は当院ではやっていません。近くでは香川医大でやっていますが、まだ歴史が浅いと思います」
十日後の診断でそう言われた茂は、手術方法でまだ迷っていた。放射線照射に二通りの方法があり、全摘出手術やホルモン治療なども考えられるとネットで情報をつかんでいた。
「先生、どの方法でやるか仕事の関係もあり、少し迷いがありますので、香川医大でセカンドオピニオンを受けたいと思います。紹介状を書いて戴けませんか」
「ああ、そうですか。確かに入院期間がそれぞれの方法で違いますし、メリット、デメリットもそれぞれですから、ご自分で納得のいく方法を選ばれるのが賢明かも知れません」
「わがままを言って申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
茂は紹介状を持って香川大学病院に行った。
できれば入院日数の少ない小線源療法が望ましいと、素人なりに考えて来たのだ。泌尿器科のK教授は小線源療法を手掛けていて、入院は四、五日で済むと言う。ただこの療法はまだ日本に導入されて日が浅く、手術例が少ない。
アメリカでは半数以上の人が実施しているという。日本では放射線アレルギーが世間でまだ強く、少数の大学病院で実施しているだけであるとネットにはあった。保険は一年前にやっと適用されるようになったという。
「ステージ2ですから小線源療法でやりましょう。順番待ちで来年の五月まで予定が詰まっています。埋め込みのカプセルはチタン製でドイツに注文します。手術の前には埋め込みの設計図を作成しますので、希望されるなら四月の終わり頃もう一度来てください。」
そう言われて茂はホッとした。自分の希望通りやってもらえる。手術までかなり期間があるが、この癌の進行は緩やかとのことなので大丈夫だろう。早速四月の二十七日を予約して帰った。
予約当日設計図作成のため、もう一度CTを撮った。しばらく待機して診察室に呼ばれて行くと、K教授が
「山本さん、残念ですが、あなたの前立腺に結石があり、それが邪魔をして正確な設計図が作れません。我々としてはやるからには万全を期したいと考えます。曖昧な設計図で実施することは避けたいと思います。どうか小線源療法は諦めてもらうしかありません。申し訳ないことですが」
茂は一瞬頭が真っ白になった。結石?・・
予期しないことであつた。もちろんK教授にも予期しないことであったろう。当初、小線源療法でやりましょうと、あっさり引き受けていたのだから。
「全摘出手術が適当と考えます。どうなさいますか」
K教授の言葉が茂の耳を素通りする。さてどうするか。茂は
「も少し考えさせてください。R病院で相談したいと思います」
そう言うのがやっとであった。R病院から預かっていた画像など受け取って、その日の内にMドクターの診察を受け、香川医大での状況を説明する。
「よく判りました。結石があるとすれば、放射線外照射も少々問題があります。全摘出が妥当でしょうね」
「急いだほうがいいでしょうか」
「PSA数値も七・六まで上がっていますから早いほうがいいでしょう」
「放射線治療はあきらめます。全摘手術でお願いします」
「ほかへ転移しないうちに実施した方がよいでしょう」
「よくわかりました。よろしくお願いします」
「山本さん、あなたはネットで色々リサーチされて、良くご存知と思いますが、念のために言っておきます。今までの術後の症例で、五年生存率は八十%、十年生存率は七十%と言われています」
「長くて十年と覚悟したほうがいいのですか」
「いや、これは今の医学界での定説で、もちろん平均のデータですから、短い人もあれば長い人もあります」
「ああ、そうですか」
重大な告知だが、面と向かってあっさりと言われると、余り事に動じない茂であったが、何か変な気分であった。自分の寿命がくるまで、自然体で生きようと考えていたのに、生存率を言われると嫌な気分だ。ネットである程度知っていたが、自分の事として言われると、平常心ではおれないものだ。
6
そして五月の十七日に全摘出手術を受けることになった。前立腺摘除にはかなりの出血が伴うことがあると言うので、非常時の輸血用に自分の血液を預血する必要がある。千二百ccの預血が必要ということで、手術二週間前から三回採血に行った。そして術前検査のため三日前に入院する。入院といってもどこも痛いところは無く、検査をするだけで一日ベッドでごろごろする生活で、今までの多忙な毎日から開放され、勿体無いような休息を与えられた思いであった。
一日目は、主治医のMドクターから手術の概要の説明、麻酔医のドクターの説明などで終わる。妻の雅子は三時頃まで居て帰る。六時に病院での初めての入院食を食べる。食欲は普通。献立は白魚の唐揚げ、アスパラ、和え物、野菜の油炒めで、この程度の食事で終わっていれば、太ることも無く健康な体型を保てるに違いない。今までの自分の食事の量は、大いに反省ものである。味付けもまあまあで、グリンアスパラはうまかった。
二日目の朝八時前に主治医のMドクターが病室を訪れ、今日は出血凝固、呼吸機能等生理学的検査をするとの説明があった。十時頃呼吸機能検査は、職場でやっていた肺活量検査とは比較にならぬ程しんどい検査だった。夕方七時頃、又主治医のMドクターが病室に顔を見せ、どうですかと問診して帰られる。
三日目は朝、昼と二食とも検査体制の食事になり、夕食は絶食と看護師から聞く。午前七時半頃主治医が回診に見える。そして午前中に造影剤注射後、レントゲン撮影をする。その結果軽い肺気腫が発見されたとの事で、昨日の呼吸機能検査がしんどかった原因らしい。夕方六時すぎから八時まで点滴をしたが、しばらくウトウトしたようだ。いよいよ明日は手術だ。覚悟するしかない。上手く摘除出来る事を祈るだけだ。夜はハルシオンを飲んで十時過ぎに眠りの体制に入る。
翌日の十時ごろ、息子たち二人と妻の雅子が病院にやって来てくれた。
「親父、頑張れよ」
長男の光が茂の顔を覗き込んで言う。
「頑張れよと言われてもまな板の上の鯉だ。全身麻酔だからなあ」
「先生の説明では心配要らないと言ってたからね」
と妻の雅子も、茂の気持ちを和らげようと言葉をかけてくれる。次男の豊が
「心配してもどうしようもないんだから、ドクターに任せるしかないよ」
と気休めを言ってくれる。茂は家族全員が駆けつけてくれて、有り難い事だと思いながら聞いているうちに、麻酔が効いてきたのか、意識が次第にかすれてきた。
夕方五時過ぎに目覚めて、手術は成功したとのMドクターの回診時の説明でやっと安堵し、手術後家族とリカバリー室で面会する。
「よかったなぁ、親父。うまく切除できたらしいよ」
「あ・・」
返事をしたつもりだが、のどが渇いて言葉にならない。雅子が気がついて看護師に吸い口瓶を頼んでくれ、三口ほど飲むとやっと声がまともに出るようになった。
「もう大丈夫だ。お前たち二人は仕事もあることだから早く引き上げろ」
「うん、新幹線に間に合うように帰るよ。今度はリハビリが肝心だからな」
と豊がえらそうに言う。
「二週間くらいで退院できるそうだから、もう来なくていいだろう?」
光があっさりと言う。
「おう、ありがとう。お前たちも体に気をつけてやれよ」
「うん、お袋と夕食を食べて、六時過ぎには失礼するよ。疲れているんだからゆっくり眠るといいよ」
ベッドで余り体か動かせないので腰が痛いのと、陰茎にカテーテルが挿入されているので、動くたびに痛みがあって、ほとんど眠れずに朝を迎える。何度も看護師がいかがですかと聞いてくれるが、手術も入院も初めてなので、切り取ったのだからこんなものだろうと我慢する。余り痛がっても男の面子にかかわると思い我慢した。
手術翌日、十時頃自分の病室に帰る。雅子は徹夜で待っていてくれた。感謝、感謝。カテーテルのせいで相変わらず寝返りが出来ず、腰が抜けるように痛む。昼食から重湯など流動食、点滴の連続である。咳をすると傷口にこたえ痰が切れない。背中から硬膜外痛み止めを常時注入しているが、これが無かったらとても耐えられないだろうと自分を納得させる。
夕方六時過ぎ主治医のMドクターの回診があつた。昨晩痛くて眠れなかったことを訴えると、
「痛いのは我慢しないで言ってください。痛み止めで対処しますから、遠慮や我慢は不要ですよ」
と事も無げに言われる。それを手術前に聞いていたら、昨晩のあの苦しみを我慢せずに済んだのにと悔やまれた。
手術後三日目も、相変わらず流動食と点滴治療だ。二十四時間がとてもとても長く感じられ、退屈なので持ち込んでいた五木寛之の「心とからだ」を開いてみる。健康で生活している時は忙しくて、時間が足りないと思っていたのに、暇をもて余すとは不思議なものだ。今晩は痛み止めの座薬と眠剤をもらって就寝する。
四日目、昨日に引き続き「心とからだ」を読む。「生老病死」は避けられない事実である。病も人は生まれながらに持っている。それがどういう形で出現するかの違いだ、と書いてあるが、ひょっとしたらそうかも知れない。病と折り合いをつけ、上手く付き合うことしか無いというのも肯かれる。今日は少し廊下を歩いてみる。硬膜麻酔のチューブが外れ、痛み止めの錠剤と座薬でしのぐこととなる。早く導尿カテーテルがはずせる日が来てほしい。そしたらどれほどすっきりすることだろう。
術後八日目に抜糸半分、九日目に残りの抜糸をする。午後レントゲン室で映像を注視しながら管の撤去をしてもらう。少々痛みがあったが無事終了した。尿漏れパッドをつけて病室に帰る。管が無くなってヤレヤレといった感じである。以後排尿の度に排尿量の記録をとる。夕方七時過ぎ主治医来室し、経過は順調と告げられる。
看護師は日に何回と無く時間を決めて検温や世話をしてくれる患者になって看護師が天使という言葉が実感としてわかってきた。患者にとっては大変ありがたいことで、安心できる。ドクターがたも勤務時間はどんなになっているのか、大変な重労働であるように見受ける。
全摘出の場合、個人差はあるものの尿漏れがあるので、肛門括約筋の訓練をして防止に供えるよう、看護師から方法を指導され、暇で気が付いたとき肛門を締める運動をしてきた。漏れの無い人もあれば半年、一年と続く人もあり、頑張るようにと指示される。尿漏れパンツをはき続けるなど、考えただけで憂鬱だ。よし、そうならない為に頑張らねばと毎日続ける。導尿カテーテルをはずしてから、ドクターより尿漏れがあるか何度も聞かれたが、病院の購買で買ってきたパンツも、そんなに使うことも無く日が過ぎていく。尿漏れ防止体操のおかげだ。ドクターも珍しいと不思議がっている。
7
こうして術後十九日目に、めでたく退院を迎えることが出来た。朝、診察が始まる前に主治医のMドクターから、退院後の生活の指示を受ける。酒は適量なら問題ないとの事だった。膀胱癌の手術は十一月頃考えましょうと言われた。
その後看護師より生活習慣病予防の食事など、妻の雅子と一緒に指導を受けて、めでたく退院した。カテーテルが外れてからは朝、昼、晩と廊下を歩き、脚力の衰退を防ぐべく努力したが、家に帰って歩いてみるとやはり病後をもろに感じるほど、足が萎えているのに気づいた。しばらく無理をせず、出社はドクターの指示通り一週間後と考えて、事務所に退院の報告をしに行ってそのまま帰る。
今後は三ヶ月ごとに、PSA検査で経過観察をすることになった。マーカーの数値は〇・〇〇三程度で、全く心配ないと太鼓判を押され、今後の生活に自信が出てきた。とりあえずの目標は五年、無理はせずにやりたいことをしようと思う。夏は大事をとって大人しくしている事にし、秋涼しくなったら又好きなテニスをしよう。膀胱癌の手術も三ヶ月以上の間隔が必要で、十一月頃にと言われている。それまでに体力をつけておくことも必要だろう。五木寛之ではないが、病と上手に付き合って生きるしかない。そんなことを思いながら茂は職場復帰を考えていた。
8
六月の半ば、ほぼ一ヶ月ぶりで出社する。
茂の入院中もスタッフが頑張ってくれ、斡旋作業はかなり進んでいて、残り二十名ほどになっていた。ありがたいことだ。体調を気遣ってくれて、当分の間、事務所での電話の対応で片の付く仕事を担当することになった。掛かってくる電話の主なものは、再就職先の待遇に関するもので、特に勤務時間と残業手当に関することが多い。小企業では労働組合も無く、トラブル解決はなかなか難しい。せっかく職を手にして、又首になりたくないので、どうしても会社に直接談判したくないから茂たちの事務所に訴えてくる。六時頃退社したが、さすがに疲れた。今日は早く寝ることによう。
職場復帰二日目、新聞の求人広告のチェックを朝一番にする。これと思う会社に電話を掛けて該当するものはリストアップする。昼過ぎまでかかりやっと一段落した。午後からハローワークに行ってみる事にした。自分の担当するクライアントに適した仕事は無いかリサーチする。
茂は既に別府、魚津と経験を積んで、二百人を超える人たちの再就職斡旋に携わってきて、慣れてきたとは言うもののやはり骨の折れる仕事だ。しかし人助けの要素があるからこそやりがいもある。心機一転、活き活きと勤務している状況を聞かされると、疲れも吹っ飛ぶ一番嬉しい時である。
斡旋先は大企業と違って地方の中小企業だから、収入の低さ、ワンマン社長への対応の難しさで転々とする人もいる。比較的、官業、大企業からのリストラの多かった今までの支店では、希望が高く自信過剰の人が多く、何回も転職して、やっと自分の置かれた状況を知り、適応していったケースが多い。高年齢の人はマンション管理人になった人もいる。
九月の半ば、少し涼しくなってきたので茂は次の手術に向けて体力をつけるため、地元のテニスクラブに入会した。日曜日の九時から昼までの三時間、毎週出かけることにした。常連は二十名ほどで、減量と健康を兼ねてなのか女性が三分の二と多い。茂は岡山の名門商業高校で軟式テニスをやっていたが、M電気に入社してからは硬式テニスに替わり、テニス暦は四十年を超える。
少しずつ体を慣らして、今日で四週目になる。ぼちぼちゲームをしてみようと、挑戦する。四十過ぎの会社事務をしているという、近くの主婦とペアを組んで三試合した。
「小山さん、あんた癌の手術をしたというのに、えらい元気やなあ」
対戦相手のクラブ会長の吉岡さんが、驚いたように言う・
「だんだん体を慣らさないと、足、腰がいかれてしまいますから」
「まあ、あんまり無理せんほうがええで」
「ありがとうございます。ぼちぼちやりますのでお手柔らかに」
心配していた尿漏れもなくプレーすることが出来てラッキーだった。
若手の青年組と対戦した一ゲーム目は玉のスピードが違い、ストレート負けした。同年齢のシニア相手では一勝一敗だった。以前、無理をしてアキレス腱断裂になった同僚がいたことを思い出し、年齢と体力を考えて楽しむことに心がけている。若い時から長年やってきた者に限って「昔取った杵柄」ではないが、体力は弱っているのに、この程度のボールは打てると思って、どうしても無理をしがちである。対戦相手も歳を考えて、似た者同士が一番である。昼前に帰宅して飲んだビールは最高だった。
9
こうした生活がしばらく続いた十月の終わり、現在の支店での支援活動も収束し、高松に支店を開くよう本社から指示がきた。早速今の支店をたたみ、事務所探しと安いマンション探しのため車を走らせる。今のアパートから高速に乗れば、一時間程の距離だがそんなわけにもいかない。スタッフの内、事務の N嬢は家庭の事情で退社した。後のスタッフはそのまま引き続いて一緒に仕事をすることになったので、パソコンの出来る事務員は現地で探さなくてはならない。何はともあれ事務所探しが一番だ。不動産屋で物色して雑居ビルの二階を契約することが出来た。住まいは家賃七万の二DKを見つけて仮予約し、雅子に相談して決めることにして、ひとまず高松を引き上げる。
茂は今の事務所の撤収を二人のスタッフと N嬢に任せて、翌日も高松に雅子を乗せて走った。マンションの贅沢は言えないからと、雅子も同意してくれて決定する。そして電話の引き込みなど、新しい事務所の立ち上げの段取りをする。机などの事務用品は近距離だから、今の事務所から搬送することにしている。事務員探しにハローワークで聞いて見るが、該当の求職者は今のところ無かった。仕方が無いので、電話番号が決まってから求人広告を出すことにした。
膀胱癌の手術のことも気にはなっていたが、
とにかく軌道に乗せるまでは身動き出来ない状況で、雅子は心配して、ヤイノ・ヤイノ言うが、宮勤めの宿命で仕方がない。クライアントは五十人程度と本社からは言ってきている。一ヶ月ほど経過してほぼ見通しがついてきた。
10
十一月の初め、以前世話になったR病院のMドクターの診察を受ける。
「あれからずいぶん日が経過しているので、再度検査をする必要があります。手術前に三日間検査入院してもらいます。いつごろがよろしいですか」
「先生、今度は高松に支店を出して仕事をしていますので、通院ではだめでしょうか」
「尿検査、造影剤を入れてのレントゲン検査、膀胱鏡検査、MRI検査とありますので入院してもらいます」
「そうですか、解かりました。それでは仕事の段取りをしなくてはなりませんので一週間後でどうですか」
「はい、結構です。簡単な入院の説明を聞いて帰ってください」
こうしていよいよ次の手術を受けることになった。
茂はネットで膀胱癌について少し情報を掴んでいたので、出来ることなら表在性乳頭状癌〔悪性度が低い〕であって欲しいと願っていた。もしそうなら、内視鏡手術で簡単に済む。入院期間も比較的短期で済む。しかし期待は裏切られ、術前検査でのドクターの判定は浸潤性癌(悪性度の高い癌)であった。
「膀胱摘出をしましょう。幸い転移は無いようなので、それが一番安全です。癌を完全に取り去るほうが後々いいと思います。どうしますか」
「摘出の後はどうなりますか」
「腸で人工膀胱をつくり、尿道につなぐことになります。術後しばらく慣れるまで少々難儀ですが、慣れてしまえば後は安心です」
「尿漏れなどはどうでしょうか」
「個人差がありますが、・・・。長い人で半年から一年、短い人は一週間くらいで済む人もあります。ですが個人差が激しいのでやってみなければ何とも言えません」
「やっぱりホームページにある通りですか。覚悟しておかなくてはなりませんな。判りました。お願いします。何時入院になるでしょうか」
「来週まで手術が入っていますので、十二月の第一週はどうでしょう」
「解りました。それまでにまだ日数があるので、仕事の段取りを着けてお願いします」
こうして十二月三日入院、六日に手術ということになった。
「山本さん、手術後はしばらくお風呂に入れませんから今日はゆっくりお風呂に入って下さいね」
まだ二十代半ばの若い看護師から優しく声を掛けられ、茂は納得して、たっぷりと湯の張ってある湯船に身体を沈めた。命に関わる程の手術では無いが、出血がひどい場合もあるというので、今日まで三回に分けて預血をした。上手く無事に終わってくれることを願うばかりだ。後はまな板の上の鯉と言うべきか。前回の前立腺手術の時もそうだったが、茂は余り深刻には考えなかった。
その夜は睡眠薬ハルシオンと、緩下剤を服用して十時過ぎに就寝した。ぐっすり眠れたようで目が覚めたのは六時前だった。浣腸したら多量の大便出た。不安は無い。八時前、妻の雅子がやってきた。初めてのことではないので雅子も淡々としている。九時前、軽い全身麻酔を打たれて十分もしない内に眠ったようだ。手術室に行くためのエレベーターは記憶に無い。この後、手術室で硬膜外麻酔を打たれたのだろうがそれも全く覚えが無い。気がついたのは三時前でICUのベッドの上だった。まだ少し朦朧としている。雅子の話だと、手術時間は三時間半ほどだったそうだ。身動きが出来ないので腰が抜けるように重い。
Mドクターが術後の回診にみえた。
「上手くいきましたよ。輸血も無く済みました。これで後は回復を待つだけです。明日の朝は病室に帰れますから、しばらくここで辛抱してください。痛みが出るようでしたら痛み止めを出しますから、遠慮せずに看護師に言ってください。」
茂は有り難うございますと言おうとしたが、きちんとした言葉にならなかった。喉が渇いていたのと、まだ麻酔から十分醒めていなかったようだ。
またウトウトして、気がついたら五時過ぎで傍に雅子の姿があった。自分ではあまり時間がたっていないように感じた。手術箇所は痛みも何も感じることなく大丈夫だ。有り難う。ドクター方、看護師さんたち、皆さん有り難う。感謝の言葉しかない。病人にとって看護師はまさに天使だ。本当によく世話を焼いてくれる。三時間おきの検温、血圧測定、傷口の確認と問診、排尿量の測定と手早く済ませてくれる。
長い長いICUの一日が過ぎて、十時前に病室に戻る。廊下やエレベーターの中をストレッチャーで押されていくのは、前の手術の時と同じように少々照れくさい。夕方、Mドクターが回診に来室。
「明日からは少し歩いてください。そのほうが回復が早いですよ。朝、昼、夕方と日に三回は廊下を歩いてください」
そう言って引き上げていった。これも前回と同じ忠告だった。カテーテルを挿入しているので、身体を動かすと痛みが出る。長い一日が終わり、またハルシオンの応援を頼んで眠りに就く。
お蔭で、今朝も爽やかな目覚めであったが、導尿カテーテルが刺激してか、相変わらず動くと痛みが走る。でも立ち上がって歩く時は少し痛みも和らぐ。そこで早速ドクターの忠告を守って、一周八十メートルほどの廊下を恐る恐る歩いてみた。点滴、バルーンカテーテル、蓄尿バッグをつけたままで、首からは硬膜外麻酔の入ったロケットをぶら下げての物々しいスタイルである。こんな不恰好な姿で、他人が見れば噴飯ものだろう。今はいろいろな装置が進歩して、意外と早く歩くことを薦められる。以前なら四、五日は寝たままで過ごしたのに驚くばかりだ。昼も一周してみるが特に問題は無い。夕食から全粥が配膳されたが美味かった。元気な時は案外無頓着に食べていたが、術後三日目に喉を通る物は何でも美味く感じた。また八時頃、廊下を一周してハルシオンの助けを借りて就寝する。
あくる日の朝食から、固粥が出てさらに食欲が増しすべて平らげる。午前中に硬膜外のロケットも除去してもらう。痛み止めの錠剤・ボルタレンと胃薬のセルベックスが支給され、一日一回服用するようにとのことだ。看護師から、痛みが我慢できない時は、痛み止めの注射をしますからと言われる。今日は腹部の痛みも、ペニスの焦燥感も無くなって、昨日に比べるとだいぶ楽になってきた。順調に回復している感じで安心する。夕食前、看護師に洗髪をしてもらう。とても気持ちが良い。
前回の前立腺手術のときと同じように、尿漏れ防止の体操を教えてもらい、暇なときは繰り返して実施する。肛門の辺りのお尻りの筋肉を締め付ける運動の繰り返しである。寝ていても出来る体操で、意識して締めるだけだから難しいことではない。前回、効果抜群だったので信じて頑張るしかない。今回も尿漏れだけはなんとしてもクリァーしたい。茂にとって、男の沽券に関わる問題だ。兎に角暇なときは意識して体操に挑戦した。
今日で手術後十日目、やっと導尿カテーテルが除去された。なんとすっきりして爽やかなことか。やれやれ、これで身動きが全く自由になり清々する。でもしばらくは尿漏れパンツを身につける。やはり僅かではあるが尿漏れがある。前回の前立腺手術の時と同じなので、慣れてはいるが妙な感じだ。
今日で術後十三日、半抜糸の日である。特に異変はなかった。いつものように廊下の散歩と、尿漏れ体操を繰り返す一日となった。そして翌日の午前、全部抜糸してもらい、術部の造影検査をした。順調に回復していることをドクターから聞かされて一安心する。
術後十五日目の朝、ドクターからいつでも退院して結構ですよと言われ、茂はまた再就職支援の仕事に復帰できると思うと元気が沸いてきた。明日退院することを雅子に連絡して、入院費用を持参するように頼む。
翌日、二十日振りに我が家に帰った茂は、ゆっくりと風呂に入り、久しぶりの晩酌をする。僅か二合ばかりの酒でほろ酔い気分になった。久しぶりなので良く廻る。雅子からは程々にしなくては小言を貰う。
11
高松での仕事は、入院前にほぼ片をつけていたが、最終的な撤収は部下に一任していた。本社に退院の連絡を入れたところ、次の勤務地として岐阜を提示され承諾した。別府に始まって新潟の魚津、四国の観音寺、高松と勤めてきているので、どこを指示されようと驚くことは無い。すでに部下が岐阜に行って事務所立ち上げは完了して業務を開始しているとのことだった。定年退職して六十四にもなる茂を、使ってくれる会社に感謝しなくてはなるまい。
いつものように整理をして、高松からいったん大阪の家に帰ることにする。そして退院後の養生もあり、年が明けて岐阜に向かうことで本社の了解を得た。
正月は久方ぶりに、子供たち二人も大阪の家に帰ってきて、無事退院した茂を囲んで長閑な三が日を過ごすことが出来た。家族の絆のありがたさを、今年の正月ほど実感したことは無かった。
12
茂は岡山県の西の端、笠岡市神島に昭和十五年に生まれた。五人兄弟の長男で、父は小さな写真屋を営み、貧しいながらも兄弟みなを高校に行かせてくれた。茂は地元名門の商業高校を昭和三十四年に卒業した。そして大阪に本社のあるM電気に就職し、事務屋として様々な部署を経験したが、最後は福利厚生部長として、商業出としては破格の出世を遂げ、退職したのである。
そして今回の立て続けの手術を受けるまで、病気らしい病気もせず元気に過ごしてきた。現役のころ会社の先輩たちの中に、退職して数年で、鬼籍にはいった人たちの報せを聞いて驚いたものだが、自分もそんなことにならぬよう、少し健康管理に気をつけねばという思いを強くしたのだった。
「お父さん、癌の手術を二回もしたんだから、もう仕事を完全に辞めたらどう?」
「もういい歳なんだから、少しは家族の言うことも聞いてよ」
兄弟そろってうるさく言う。
「手術は成功したんだから、心配要らん」
「もうじゅうぶん働いたじゃないの」
妻の雅子までが一緒になって説得にかかる。
「まあそう言うな。お父さんは今の仕事に生きがいを感じているんだ。リストラされて困っている人たちを相手に、頑張っているんだ。何もしないで粗大ごみになりたくないよ」
「趣味の写真でもやったら」
「そうそう、いつかCDを作って友達にやると言ってたじゃないか。それがいいよ」
あれこれ言う息子たちを説得して、なんとか息子たちは折れた。しかし妻の雅子は二回の入院、手術のことを心配して、泣きながら引退するようにと訴えた。でも茂は首を縦に振らなかった。
13
松の内が明けて一月の七日、茂は一人でアパート探しの為に岐阜の町に居た。川にそって発展した城下町らしく、昔の名残も随所に残る落ち着いた町であった。
不動産屋を三軒廻って、結局二つめで紹介された物件を契約した。今回は茂一人で生活することにしていたので、六畳と台所の付いた、小じんまりとしたアパートで十分だった。それでも敷金十万、家賃五万円であった。一旦大阪に帰り、最低限の荷物をまとめて、一月十四日に正式に赴任した。
鵜飼いで有名な、長良川の河畔に発展した岐阜にやって来て二ヶ月になる。六十名の求職希望者を企業から依頼されていた。まだ十三名しか斡旋が成立していないという。茂は少々焦りを感じていた。誰とでもすぐに親しくなれる茂の性格は、こうした仕事にうってつけだし自信もあった。リストラした企業から進行状況の問い合わせがあったが、報告を聞いた労務課長は不満足の様子であった。
企業としては、茂の会社に一人あたり百三十万円の依頼金を納めて、再就職斡旋の契約を結んでいる。後ろめたい思いを抱きながら、リストラしたかつての社員が、一日も早く再就職できれば心理的にも楽になるし、経費も一回で済む。二年にまたがれば倍の依頼金支払いを余儀なくされるから、苛々するのも無理はない。
一方、茂の方も早く岐阜を処理して次の依頼地へ行かなくてはならず、気が焦る。本社からは、月に何度も進捗状況の報告を要求されるし、企業へも、月一度は報告しなくてはならない。比較的のんびりタイプの茂ではあるが、督促が続くと余りそうもしておれなかつた。
なんとか一年の間にけりをつけたいとスタッフ三人でがんばり、一年三ヶ月ほど経過した三月には、四十名ほどの再就職を達成することができた。トヨタ王国の名古屋を控えていたのが幸いしたのだろう。下請けを含めてトヨタ関係が七割を占めた。ありがたいことである。さすか世界のトヨタといわれるだけあって、景気が悪いといわれながらも、輸出は相変わらず順調で、関連企業にも大勢世話になった。
14
本社からは三月の上旬、次の勤務地に愛媛を指定してきていた。リタイアー前の仕事以上に、やりがいを感じていた茂にとって、それは苦痛ではなかった。いろいろな土地で生活することは新鮮で、それぞれの地域の風土のよさを今までにも満喫してきたので、むしろ今度はどんな体験ができるかと、対象者には悪いが、旅行気分が片隅に潜んでいたことは否めない。三月の中旬、岐阜の事務所を引き払い西条に行くことを承諾した。
各地を転々としてきた茂は慣れたもので、簡単な引越しの用意をして、ひとまず大阪の家に引き上げた。
今回は妻も同行すると言ってくれたので、家事一切から解放されての勤務となった。
三月下旬、茂は妻を伴って伊予西条に車を走らせた。明石海峡大橋を渡り、徳島から徳島自動車道にのり、一時間半ほど走って、途中「ウダツ」で有名な脇町で降りて観光を兼ねて休憩する。あちこちの「ウダツ」を見てきた茂は、どこも形式は一緒なんだと納得した。少し早いが、吉野川サービスエリアで軽い昼食を取り、川之江ジャンクションから松山自動車を通って、伊予西条に着いたのは午後一時前だった。今回は本社がマンションを用意してくれていたので、家探しの手間は省けて大助かりだ。行ってみると二LDKで、二人で住むにはちょうど手ごろの広さだった。
15
雅子との生活を始めた伊予西条は水の都と称せられ、石鎚山系からの豊かな水をたたえた加茂川が、町の真ん中を流れてしっとりと落ち着いた雰囲気である。早く町に溶け込みたいと思い、茂は妻の雅子を伴って、日曜日には毎週のように散策に出かけることにした。
今日はその初日で、水の都、水の都と至る所に看板を建てて、ピーアールしているのが目につくので、それを確かめようということになった。
流れに沿って歩いていくと、標高二千メートルに近い石鎚山から流れ落ちた水を加茂川から引き込み、市内いたるところで「うちぬき」と称する自噴水がある。江戸時代には人力で鉄の棒を打ち込み、くり抜いたところに竹を入れて、地下水を確保したという。今は鉄パイプをエアーハンマーで地下水層まで打ち込んで取水して、生活用水をはじめ、農業・工業用水として利用している。
市内には二千箇所のうち抜きがあり、ほとんどの家庭は打ち抜きの水を飲料水として使い、水道普及率は二十数パーセントだという。今時珍しい町だと石版に紹介されている。
そんな説明書きをあとにして散策を続けると、アクアトピアの案内板があり、最初に出くわしたのが「観音水の泉」だった。観音堂のそばの湧水なのでこの名前がついたという。途中には三メートルほど吹き上げている噴水もあった。そしてそのわきに「名水百選」、「水の郷」の認定書が石版に刻まれていた。おりしも桜が満開で観光客や市民の散策の姿も続いている。
さらに歩いて行くと、アクアトピアの案内板があった。豊かな水の流れを利用して、「湧水」「流水」「遊水」「景水」「静水」と名付けた五つのゾーンに整備されている。「流水」ゾーンでは蛍が舞い、アユが泳ぐせせらぎを目指して自然の川を作り出している。
「遊水」ゾーンはふれあいの小川で、人々がゆったりと座って水辺を楽しめるように、いすや意思のテーブルもセットされていた。
「少し疲れたわ。ちょっと休みましょうよ」
雅子は長椅子を見つけて座り込んだ。茂も周りの風景を二、三枚カメラに収めて隣に腰を下ろした。
「石鎚山のお陰で、この町は水に不自由することがないらしい。以前勤務した高松は夏になると取水制限がしばしばあって、大変だったのに。高松あたりの人はうらやましいことだろうなあ」
「早浦ダムの貯水量が新聞やテレビに時々出ていたわね」
「以前滞在した高松は、雨が少ないと夏は毎回水不足に見舞われるんだ」
「大阪は昔から水の都と言われて、そんなことがなかって良かったわ」
「琵琶湖のお陰じゃろう」
「讃岐は石鎚山と剣山の間に位置するから、水不足で溜め池が多いんだ。昔は水争いが絶えなかったらしい」
「米作りには水が命だもんね」
そんな話をしながら一休みして、また散策を続ける。
「流水」ゾーンさしかかると、突然雅子が歓声を上げた。
「お父さん、ほれ、あそこに魚が泳いでるよ。鮎かしら」
「あれはウグイだろう。体に色鮮やかな模様があるから」
「さっきの説明には、蛍や鮎の生息を目指していると書いてあったわよ」
「うん、確かにそう書いてあったが、今泳いでいるのは鮎じゃないよ」
「鮎は清流に棲むというから、きっと鮎もいるんでは?」
「まだ鮎の季節には早いだろう」
「そうね。夏になったら見られるかも」
「景水」ゾーンでは川の辺の道には遊歩道が設けられているので、ゆっくりと安心して散策を楽しむことができる。散歩しながら水の景観を楽しむことが出来るように、石組みを作り、水草を植え、変化のある流れを作っている。そして「静水」ゾーンまで進むと、流れがほとんどなく、小波のお堀のように設計されていて様々な工夫を施していてみごとだった。
確かに看板どおり豊かな水に恵まれていて、市民の憩いの場が約二キロにわたって設けられていた。
茂は雅子と昼前まで水辺の散策をして今日の市内探索を終えた。
こうして天気のいい日曜日には雅子を連れて市内の散策を重ねた。地方の小さな町なので、その後三回の散策でほぼ全域を歩くことが出来、西条の様子の大体をつかむことが出来た。
16
茂は西条の仕事を最後に、再就職斡旋の会社を退職した。そして一年ほど経った二千九年の九月、アメリカのサブプライムローンの影響で、世界同時不況が起こり、日本もその影響を受け、就職難の時代が到来した。新卒の若者の就職先もままならず、派遣切りも全国的に広まってきた。良いときに再就職支援の会社を退職して本当に良かったとつくづく思う茂であった。
完全リタイアして大阪の我が家に帰ってから1カ月ほどたった5月、大阪に帰っていることを知ったかつての先輩同僚から麻雀の誘いがあった。OB仲間が10人ばかり集まるという。
三年ぶりに彼らと会えるかと思うと、茂は今日はいつもと違って、電車の走る速度がやけに遅く感じられた。約束の時間より三十分も早く着いた。まだ誰も来ていなかった。しばらくロビーでコーヒーを注文して仲間の来るのを待つ。その内、一人来、二人来てメンバー十人が揃った。テーブル二つに五人ずつ分かれてゲームを始める。茂は一年ぶりのマージャンで、少し手間取ったがやがていつものペースで、早上がりの茂の渾名どおり続けて二番安上がりをした。
麻雀を終えて会食の席でビデオクラブを作って仲間と楽しんでいるという元営業部長の岡本さんから、クラブに入らないかと誘いを受ける。茂はこじんまりとした写真屋を経営していた父親の影響で、写真とかビデオ撮影には少なからぬ興味を持っていたので、一つ返事でOKする。月に二回撮影旅行に出かけては編集したビデオをホテルで上映し合評会をおこなっているらしい。
今月は飛騨の高山に撮影旅行を予定しているという。楽しみだ。ビデオは現役の頃手にしていたので早速後映像部門の課長をしている後輩に頼んで編集機を買い求めることにする。
五日ほどして編集機が届いた。初めて使う機器なので高山に行く前に少し使い慣れておこう。そうだ、大阪城でも撮ってみるか。城を訪れるのは高校を卒業してM電気に就職のため上阪した時と、茂の結婚式でオヤジを連れて行った時と今回で三回目である。荒れから四十数年、どれだけ変貌を遂げているか興味津々でビデオカメラを担いで大阪城に向かった。
終わり