第二話 フレイサイズ・中編
部屋の中に入った新堂は、愛の営みに忙しい一組の男女を発見する。二人は同時に新堂の乱入に気付いた。男のほうは、慌てたように女から飛びのいた。女のほうは少し疲れているらしく、のろのろと動いて身体を隠す。
男のほうが新堂の顔を見て、ひっ、と息をもらす。
「お前、新堂だな! な、何をしに戻ってきたんだ」
続いて発する声がふるえている。
「黙っていろ、今お前に用事はない」新堂は彼のほうを一瞥する。「大きな声を出したりしたら、その咽喉が潰れることになるぞ」
「だが、どうせ俺たちを殺すのだろう。お前はお前を改造した俺たちを恨んで、復讐するために戻ってきたんだ、違うのか」
「そのとおりだが」
うるさいやつめ、と新堂は思った。もう気絶させてしまおうかと思ったが、女の目の前でそれをするのは恐らくよくないだろうと思ったので、我慢する。新堂は床に落ちていた青いマントを拾い上げて、女へ放り投げた。
「あなたがfs-03フレイスピアか?」
マントを受け取る女に、新堂が訊ねる。女はあっさりと答えた。
「私がフレイスピアです。皆様にそう呼んでいただいております」
素っ気無ささえも感じるほど、冷たい声だった。感情のまるでこもらない声だといえた。
「御用でしょうか」
どこかぼんやりとした目線を新堂に投げてくる。そういえば、このフレイスピアの視力はほとんどない、と書いてあったなと思い出す。矯正も不可能ということだから、メガネをかけても無駄だ。視神経の異常なのだ。手術も効果がない。つまり、二度とこのフレイスピアの視力は戻らないのだ。永久に。
「あなたを救いにきた。廃棄されると聞いて、ここから連れ出しに」
新堂は正直に話した。フレイスピアがこたえる。
「あなたは研究員ではありませんね? 私はこの研究施設の所有物です。彼らの許しを得ずに外へ出ることはできません」
この反論に、新堂は呻いた。
これは少し厄介だぞ、と思いながら口元に手をやった。命を救ってやったのだから自分を廃棄することを決めた研究施設への復讐とともに味方に加わってくれるだろう、という甘い期待がないわけではなかったのだが、どうやらその期待は予想通り、砕かれることになったようだ。
しかしなんとか説得したい。どうしても無理ならばフレイスピアを味方に引き込むことは諦めて、フレイソードやフレイアックスの救出に向かうことになる。だが、その前に味方を一人でも得たい。一人と二人では、違うのだ。たとえその一人が盲目でもだ。
「だがあなたは廃棄される。捨てられるのだ」
「知っています。ですが、結果として死に至ろうとも、この研究施設の所有物である私は、その意に反したことをしようと思えません」
「一度、所有権を捨てられた。あなたは自由なのだ。俺があなたを拾う」
「捨てられた私を、あなたが?」
マントを手に持って、それで身体を隠しながらフレイスピアは問いをなげる。新堂は頷いた、しかしそれがフレイスピアにはわからないことをすぐに思い出す。
「そうだ」彼は肯定した。「俺があなたを拾う。あなたが必要なのだ」
「私を、必要とされるのですか」
その言葉には軽い驚きが込められていた。自分が失敗作であり、廃棄されても仕方がないという自覚があったに違いない。それを必要だというのだから、驚いても仕方がなかった。
「必要だ」
「ありがたいお言葉です」
フレイスピアは、感動したらしい。しかし、彼女の判断は変わらなかった。
「ですが、私はあなたとともには行けません。あなたのしていることは私にはありがたいことでも、この研究施設からみれば強奪となってしまいます」
「そうだな」
新堂は、少しだけ苛立った。分からず屋め、と心中に思いながら次の言葉をさがす。ゆっくりとしているような時間はない。今にもこの部屋の外では、既に新堂の位置を突き止めた追撃隊が機関銃を手に突撃をかけようとしているかもしれないのだ。
「だが」
「無駄です。これ以上問答しても、あなたに従う理由はありません」
「そうか」
フレイスピアは、頑なだった。新堂はもう、諦めざるを得ないようだ。
「捨てられるというのなら、黙って捨てられる。それが忠義というやつか」
新堂は息を吐く。無駄足か、と思った。
「忠義ではありません。私の信念、でしょうね」
「どういう?」
「裏切らない、それだけのことです」
「なるほど」
『裏切らない』が信念なのか。これは味方にすれば本当に頼もしそうだが、敵であるぶんにはうざったい以外のなにものでもないな。
そうした感想を抱き、新堂は扉の外をうかがう。そろそろ脱出の準備に掛からなくてはならない。
「外に出る気か?」
部屋の中にいた研究員が、新堂にそう言った。
「おっと、忘れるところだった」
それで思い出したと言わんばかりに、彼は研究員に目をやる。彼はつかつかと床に倒れたままの研究員に近寄り、爪先で蹴りつけた。研究員は鼻血を噴いた。
「何をする!」
「フレイスピアと添い遂げる気もないくせに、彼女を抱いたからだ。俺が逃げた後、さっきの続きをされては夢見が悪い」
先ほどは思いとどまったが、こいつをこのままにしておくと自分が去った後、先ほどの行為が再開されるのかと思うと気分が悪かった。新堂は遠慮なく靴の先を研究員にめり込ませる。何度か蹴りつけると研究員は大人しくなった。新堂は顔をあげ、フレイスピアの顔を見た。彼女は平然としている。
「止めなかったな。なぜだ」
新堂が訊ねると、彼女はこたえた。
「さっきの続きをされては、かないませんから。内緒ですよ」
その言葉に少し新堂は安心した。フレイスピアとて、自分の意思が全くないわけではないのだ。それなら、このあと気が変わるという可能性もある。ひとまずここは立ち去ろう。
新堂は部屋を出る。彼の顔に小さな微笑が宿っているのを、フレイスピアは視界に捉えた。だが、彼女の視力ではその小さな笑みなど、ぼやけてしまってまるで見えぬ。どこに新堂の顔があるのかすらも、わからないほどなのだ。それでもフレイスピアには、新堂が微笑んでいることがわかった。つられて、自分の口元にも笑みが浮かぶ。
フレイスピアが微笑みをみせていることなど、逃げようとしている新堂は気付かない。扉をわずかに開けて廊下の様子をみるが、来たときと同じように静まり返っている。
新堂は慎重に身体を廊下に出し、すぐにトイレに逃げ込んだ。女子トイレに入ったが、先ほど自分が押し込んだ研究員が変わらず失神している以外に異変らしいところはない。妙だな、と彼は思った。警報も鳴ったし、注意喚起もされたのだ。俺を殺そうとしている連中は、一体どこで油を売っているのだろうか。
そう思いながら一階に下りると、階段のすぐ下に黒い服の男が待ち構えていた。黒い服を着た兵士だった。手には銃が握られている。かなり威力がありそうだ。粗悪な密造銃ではなく、メーカー製のものだと新堂は見たが、彼の乏しい知識では細かい区別などつきそうになかった。
兵士は警告もなく手に持った銃の引き金を引いた。銃が火を噴き、新堂を狙う。
新堂は咄嗟に真横に飛びのいていた。弾丸は彼の作業服を焦がしたが、怪我を負わせるまでにはいたっていない。
「畜生」
新堂はすぐさま兵士に襲い掛かった。
兵士は冷静に向かってくる新堂に狙いを定めて引き金を引こうとするが、その前に新堂が組みついた。銃口を押しやり、右手で相手の顔を叩く。呻いた相手の腹部を蹴り上げる。
兵士はそれだけでもう意識を失い、床に崩れ落ちた。
彼をすぐさま物陰に引き摺っていく。手近にあったロッカールームに気絶した兵士を放り込みながら、新堂は考えをめぐらせる。兵士に見つかった途端、身体が動いた。
当然のように相手の腕に組み付いて銃を封じ、簡単にあしらってしまった。つまり、自分は強い。だが、なぜ強いのだろうか。まだ短剣を抜いてもいない。生体強化ユニットは働いていないはずである。
俺は、強い。ではどこで訓練を受けたのか。車の運転ができる。ではどこで講習を受けたのか、免許は持っているのか。
新堂はロッカールームの壁にかけられた鏡で、自分の姿を見た。作業服の上に白衣を着た、ただの男だ。
まじまじとその姿を見るが、どこの誰なのか覚えがない。思えばこの研究施設で研究対象となっていた頃にも、まともに鏡を見た覚えなどない。知らないうちに整形されたので自分の知らない顔なのだろうか。それとも自分の顔さえも記憶から消されているのだろうか。
俺は誰だ。何者なのだ。
新堂は呻いた。彼の記憶は、ここへやってきてからのものしかない。自分が持っている知識や技能は、一体どこで習得したのかわからない。
自分の手がかりになるものは、自らの内にはほぼなかった。唯一、感情だけが手がかりを示してくれる。強い負の感情だけが彼の手がかり。この研究施設と研究員達が、なぜか憎いということ。プロトタイプという言葉にひどく嫌悪感を覚えること。実験という言葉を聞くだけで怒りがこみあげること。
彼の中に、フレイソウルと対峙したときの細かな記憶と感情は、欠落していた。
「俺は、この施設と敵対していたのか?」
そう思えるのだ。だから彼は脱出した後も、そのまま平穏な暮らしを求めて逃亡するということをしなかった。反逆の道を選んだのだ。自分の感情に従うことで、自分の素性を知る手がかりが増えるかもしれなかった。
新堂は舌を噛み、片目を閉じた。少し落ち着こうと思う。
今は、自分の過去を探っている場合ではない。時間がないのだ。ここから直ちに脱出しなければ、追い詰められてしまう。
しかしその判断は少し遅い。ふと気がつくと、部屋の外には兵士達のいる気配がする。先ほどの銃声のせいだろう。
新堂はドアの脇にひそみ、兵士達が突撃してくる瞬間を待った。ほどなくドアが蹴り開けられ、兵士達がなだれこんでくる。
彼らは突撃してきた勢いそのままにロッカールームに入ったが、新堂の姿を発見できない。彼はどこに消えたのか。ここではないのか、と引き返そうとする彼らに銃声が突き刺さった。重い銃声だった。
「どこだ!」
新堂の放った最初の銃弾が、躊躇なく一人の兵士の右腕を砕いた。新堂はできるかぎり、腕や足を狙っている。胴体は防弾チョッキに護られているだろうという見込みがあったからだ。続いて何発か打ち込み、兵士達を沈黙させる。
新堂はドアの脇にあるロッカーの上に隠れていたのだ。見下ろす体勢で撃つハンドガンは、なかなか高性能だった。
頭を撃っても、兵士達のかぶるメットを貫く。銃弾は面白いように人間を殺していく。新堂は知らないが、彼の奪った銃は口径の大きな、きわめて強力なものだった。
兵士達を無力化したところで新堂はロッカーから下り、息のある彼らを気絶させるとそのまま放置し、すぐにロッカールームから逃げ出した。他の人間もすぐにここへやってくるだろう。これ以上の戦闘は避けたかった。
だが、うまくはいかない。研究施設から出ようとした新堂の前に、配備された追撃兵が待っていた。その数は、二十人をくだらないだろう。
最初に見た兵士と同じ装備、銃を持っている。
「ちっ」
新堂の舌打ちは、銃声によってかき消された。咄嗟に回避行動をとるが、隠れる場所がない。ならば、敵の数を減らさなければ。
倒した兵士達から奪った銃をがむしゃらに撃ちまくった。
冷静に狙いを定める余裕などない。そのうちの何発かが命中したらしく、何人かが苦悶の声をあげて倒れた。
だが、新堂を狙う銃弾の数はほとんど減らない。彼は必死だったが、敵も必死である。なかなか粘る。
新堂の意識は敵を減らそうとしながらも、大半は回避に向いていた。
まずは防御。
敵の攻撃を一撃でも食らったらそれで終わりだからだ。
新堂は結局、研究施設の中へ戻らざるを得ない。扉の中へ飛び込む、追ってくる追撃隊。
兵士達は無駄口を聞かずにただひたすら新堂を殺そうとしている。
くそ!
新堂は呻いた。最悪だと思った。二階へ進むために、階段をかけあがる。無意識のうちに、フレイスピアのところへ行こうとしている。一体何のためにそうしようとしているのか、自分でもわからなかった。彼女は敵ではないが、味方でもない。
この土壇場の状況を見せて、力になってくれるように懇願しようというのか。
そうではない。
ではなぜ自分の足はそちらへ向いているのか。
自問自答する新堂だったが、答えは簡単だった。ここで頼れるものが彼女以外にないからだ。どうせ死ぬのならば、少しでも自分へ好意を向けてくれる人のところでという思いもあったのかもしれない。
ふと、階段を途中まで上りかけて足が止まる。背後からは兵士達が追ってきているというのにだ。
階段の上に、人の気配を感じた。誰かが立っている。新堂は見上げた。そして知った。
「お前」
大した表情もみせずに彼を見下ろしてくる、フレイサイズがそこにいるということを。
fs-02 フレイサイズ。
ネコ同然の頭部に、白い髪を伸ばした女。
やわらかな灰色の毛皮をまとった、神秘の姿。
彼女はまだ裸同然だった。灰色の毛皮に身を包んではいるものの、その上には血に染まった白衣が一枚。それだけだ。膝下までを隠すほど長い白衣は、まるで薄手のコートのようである。
背後から迫る追撃隊の気配。
新堂はすぐに階段を上った。なぜここにフレイサイズがいるのかということなど考えている場合ではない。彼女が味方かどうかわからないが、背後にいる者たちは間違いなく敵だ。敵でないものの方へ逃げることに、何のためらいがいるだろう。
フレイサイズは尻尾を持ち上げて、ゆらゆらと動かした。追撃してくる者たちが新堂に向けて銃撃を行うと、その尻尾が突然反応し、白衣を持ち上げて逆立つ。次の一瞬、フレイサイズはその場から消えた。
新堂は目の前からフレイサイズが消えたので、思わず背後を見た。そこにフレイサイズがいる。彼女は階段の上から踊り場へと飛び降りたのだ。着地した先には追撃兵がいる。新堂が振り返ったときには、すでに一人が踏み潰されていた。
両腕を振り回すフレイサイズ。力任せの攻撃だが、それだけで二人の兵士達が顔を割られて倒れた。
返り血に彼女の手が赤く染まる。
「ばかな」
一瞬フレイサイズが味方なのではないかという期待を抱いたが、新堂はすぐにその期待を追い払った。淡い期待など無駄だ。彼女は不快なものを殺しているに過ぎない。そう思ったからだ。
だが追撃隊が彼女によって殺されていることは確かだ。今の段階で彼女を敵と判断することもできない。
階段を上りきった新堂は、右足を刺されたような感覚を味わった。撃たれたか、流れ弾か。
くそ!
悪態をつきながら、床に倒れこむ。だがすぐに起き上がろうとした。無理だった。銃弾は貫通していない。威力の弱い銃だったらしい。もしくは、どこかへ跳ね返って威力の落ちた流れ弾だったかだ。
だがそんなことはどうでもいい。新堂は倒れた身体を引き摺り、階段の下を覗き見た。
フレイサイズはまだ戦っている。銃弾をかわし、敵を一人ずつ確実に倒している。いや、殺していた。
力の加減をまるでしていない。彼女に殴られた兵士は顔の形が変わっている。叩きつけられたものは、身体の厚みが半分くらいになっている。
やりすぎではないのか、と新堂は思ったが、相手は銃でこちらを遠慮なく撃ってきているのだから仕方がないのかとも思った。
素早く、確実な動きだ。実にしなやかで、力強い動きである。まるで猫のようだが、彼女の場合冗談にもならない。髪がなければ彼女の顔は猫そのものといってもいいほどなのだ。
「なんという強さだ」
新堂は息を飲む。これほどフレイサイズが戦闘能力に長けているとは知らなかった。彼はレポートのフレイサイズの項目を読まなかったことを後悔した。
そんな彼のところへ、誰かが接近してくる。下からではなく、二階の廊下からだ。
足音でそれを察知した新堂は、左側へ目を向ける。
ぎょっとした。槍を持ったフレイスピアだ。あのマントではなく、服を着ている。飾り気のないブラウスと黒いパンツ、それに白衣を着込んだだけだが、先ほど見たマント一つだけという服装に比べればずっとマシに見える。
マシに見えるどころか、彼女の美貌がより引き立っていた。
だが、その手には彼女の身長ほどの槍が握られている。穂先は鏡のように磨かれていて、それでいて重厚だった。スピアというよりも、ランスというほうが相応しいように見える槍だった。
「新堂さん」
名を呼ばれて、新堂は上体を起こした。
くそ、俺を殺しにきたのか。
彼がそう思ったのも無理はないことだ。
「その槍と、服はどうしたんだ」どうでもいいことを訊ねる。「よそ行きのものか」
フレイスピアは、穂先を上にして、杖のように地面を突く。
「これは私の普段着です。槍は戦闘訓練用にお借りしているものです、この研究所から」
「廃棄されるのでは、なかったのか」
彼女はその質問に答えなかった。かわりに、何が起こっているのかと新堂にたずねる。新堂は見たままこのことを説明してやった。
「フレイサイズが俺を追ってきた兵隊たちと戦闘中だ」
「フレイサイズ? fs-02ですか? 彼女はあなたにしたがったのですか」
「わからん。というよりも、どうして彼女がここにいるのかどうかも、わからないんだ」
素直に新堂がそう言った。
フレイスピアは、見えない目で彼の顔を見た。彼女の弱い視力では、はっきりと新堂の顔をとらえられない。だが、彼が何か困っているのだということだけはわかった。