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最終話 欠損剣士・前編

 新堂はクリアファイルをポケットの中に詰め込み、ボストンバッグから槍を取り出した。フレイスピアの遺品である槍は、新堂の手によく馴染んでいる。バッグの中には斧も入っているが、それはさすがに手に持っていくには重かった。新堂は斧を背中にしばりつけていくことにする。正直、武器としては素早く振り回せないので使いづらいのだが、何かの役に立つだろう。

 最後の決戦に赴くために、彼は小屋を出た。

 月明かりは、施設への道をよく照らしている。新堂はその道をたどった。多くの人が歩いた足跡が見えている。その割には恐ろしいほど人の気配がしない。

 施設が見えてきた。建物は二階建て、地下もあるだろう。新堂が実験を受けていた建物と比べてもそれほど大きさに差異は感じられない。足元は、踏み固められている。足をとられるようなことはないだろう。

 フレイスピアは、索敵能力の範囲についてはおおよそ、建物一つぶんくらいが限界だと語っていた。だが、実際にそうであるとしても、フレイマーの能力も同じだけであるとはいえない。フレイスピアを基にしてさらなる改良が施されているのかもしれないからだ。

 やがて、建物の近くまでやってきた。血の臭いが濃くなる。鮮血ではないが、腐りかけたようなものでもない。つい最近、このあたりで血が流れたのだ。命に関わるほどの量が。

 フレイソードのものかもしれない。新堂にはそう思える。

 今、それを考えている場合なのかどうか。

 新堂は頭を一つ振った。これ以上余計なことを考える暇はない。今は、とにかく今はフレイマー、それにサイズウルフとの決戦を考えるべきである。対策がないわけではないのだが、恐らく自分は生きてここから出ることはないだろう。もう二度と太陽を拝むことはできそうにない。

 ふと、新堂の頭にアックスツヴァイのことがよぎった。彼女は無事だろうか。例の電話があったので、恐らく無事だろうとは思っているのだが、追われる身になったことは間違いない。捕まって殺されたにせよ、無事に逃げおおせているにせよ、この施設の中にはもういないことは確実だが、フレイ・リベンジの中でも話が通じそうな唯一の戦士だった。気になるのも仕方がない。

 もし、この施設の中で彼女を見かけることがあったなら、それは偽物である。あるいは、洗脳を受けて完全に敵になっているので全力で戦うしかない。

 新堂はやがて覚悟を決める。左手から、短剣を抜いた。身体強化ユニットが血液中に流れ始める。

 十分に身体能力の強化がなされたことを確認し、新堂は建物の中に入る。まだ、彼の身体は身体強化ユニットに対する免疫をつくってはいないようだ。

 間に合った、と新堂は思う。何度か、まだ五回くらいしかこの力を使っていないが、この能力が減退することがあるのだとしたら、今でなくて本当によかった。これが最後になるのだから、今だけはどうかまだ、この力を使わせてくれ。

 特に警報も鳴らなかった。それどころか、カギもかかっていない。建物の中は静まり返り、誰一人、生きた人間がいないかのような雰囲気である。

 気配がまるでない。入る前からうすうす感じてはいたが、まさかここまで人の気配がしないとは思わなかった。実際、新堂は堂々と正面の入り口から闖入し、通路を十メートル以上も歩いたが何も起きない。そこに、人の気配などなかった。話し声も、足音も、まるで聞こえない。常人ならばともかく、新堂は改造された戦士だ。フレイスピアやフレイソードほどではないが、それなりに耳もさとい。にもかかわらず、人の気配はまるで感じられない。

 新堂は慌ててはいなかったが、不気味には感じていた。敵が逃げ込んだ、最後まで残していた秘密の、最終拠点である建物なのだ。備えも何もない。警備のけの字もないようなこの有様は、まるで侵入者を誘っているようでもある。とするならば、この先には罠がしかけられているのかもしれない。誘い込んで、始末するといったような恐ろしいデストラップがある可能性。それはゼロではないが、今のところそうした気配はない。迷わせるような複雑な道ではないし、ありがちな『不自然に傾いた通路』や『色彩感覚に異常を与えるような色配置』『不安にさせる絵画』というようなものもない。

 明らかに、歓迎を受けている。

 それがよい意味でないことは火を見るより明らかでありながら、歩みを止めるわけにはいかない。

 この奥にいるのはサイズウルフ、そしてまだ見ぬfr-05フレイマー。彼ら二人が協力すれば恐らく、自分は簡単に倒される。そうされないために自分には脳髄があるわけだが、所詮は素人考えの机上の空論かもしれぬ。

 身体に走ったわずかな震えを止めるために、新堂は歩みを止めた。両手を握り締める。

 心臓は高鳴っていた。最後だから緊張しているのか。

 人生のクライマックスというものがあるのなら、間違いなく今このときだ。それに対して体が燃えているのだろうか、晴れ舞台を前に緊張しているのだろうか。それともどちらでもなく、ただ死の恐怖から震えているだけだろうか。


 明らかな敵地。

 俺が銀将だというのなら、成れるところだ。敵陣に突入したのだから。

 彼はそう思い、自分の胸に手を当てて、心臓の鼓動を確かめた。ここにきて得体の知れない力でパワーアップというのは感じられないが、銀将は必ずしも成銀になるのが正解だとは限らない。成銀には刺せない、斜め下の敵を刺せるのだから。

 敵の気配がない。

 新堂は強い緊張を感じながらも足を進める。もしや、すでに彼らはここを引き払い、新しい場所へ行ってしまったのではないかと疑問さえ感じられた。そうでなければ、あれほど多数いた施設の兵士たちや、研究員達はどこへ行ってしまったのだろうか。

 歩みを進める彼に、ふと一つの扉が目に入った。カギが開いているのは同じだが、ドアまで少し開いている。

 自分を誘っているように、中途半端に開いたその扉。もしかするとただ単に誰かがしっかり閉めなかったというだけかもしれない。あるいはまたこれこそが罠の作動装置なのかもしれない。

 新堂は足でその扉を少しだけ蹴り、すぐにその場から退避した。扉は開き、九十度以上に開放されたが何も起こらない。爆発も、落下物もない。

 罠ではなかった。

 新堂はそれでも慎重に、部屋の中を覗いた。隠し階段か何かでもあるのかと思ったが、資料室であるらしい。彼が目指していたものは、ここにあるかもしれなかった。

 相変わらず、周囲に人の気配はまるでない。自分の過去を探るのなら、今しかないだろう。

 警告のように、頭痛がよみがえる。過去を探るなと戒める痛みが、彼を襲った。顔をしかめながら、しかしそれでも彼はその場に留まった。ポケットにしまったクリアファイルを取り出した。

 槍とファイルを持って、新堂は資料室に入る。整理棚が四方に並べられ、それらから溢れんばかりにファイルやケースが収められていた。

 フロッピーなどの電子媒体になっている資料もあった。新堂が欲しい資料は、フレイシリーズに関するものだ。

 資料室のドアを閉めて、新堂はクリアファイルを広げる。これと一致するかどうか確かめながら資料を見ていこうと思ったのだ。探している資料はすぐに見つかった。まるで最近誰かがこれを使ったように、上の方に置かれていた。急な引越しでこれらの資料もひっくり返されたのかもしれない。

 資料の中にいくつかのメモリーカードが発見された。中身は写真か、あるいは動画だと思われる。資料室の端に、それを再生するための端末があった。新堂はためらいなく、メモリーカードを端末に差し込んで再生させる。

 予想通り、中身はデジタルカメラで撮影されたと思われる、実験の様子だった。

 新堂は槍を取り落とした。頭痛はひどくなる。強く締め付けられるような感覚だ。頭が重い。急激に気分が悪くなり、考えがまとまらなくなる。

 フレイスピアを救出して、サイズウルフと出会ったときにも同じようなことになった。それと似ている。何かが、新堂に考えるな、知るなと強く警告をしているのだ。なぜそうまでして、自分の過去を知られたくないのだろうか。新堂はしかし考えがまとまらない。視界の中に白い粒があらわれて、乱れていく。


 端末の画面に映し出されている映像は、fs-00フレイソウルのものから始まっていた。新堂も見たことのある、彼が他者の精神力を奪うところを映像として残していた。最初は動物に対して実験が行われていたが、どこで手に入れてきたのか、人間を対象として実験も行われ始めた。

 新堂は片目を閉じて、右手を額に押し付けた。頭痛はいよいよひどくなってきた。それでも、画面から目を離せないでいる。

 フレイソウルの前に、三人の男女が連れてこられる。どこでさらってきたのか、三人とも不安げな表情である。男が一人、女が二人だった。いずれも十代か、二十代くらいの若さの残る顔立ちだ。

 実験室の中は広くはない。その中に、フレイソウルと三人の男女は取り残された。出口はしっかりとロックされて、逃げ場はない。


「ああ」


 新堂は何かに思い当たったような気がした。電流に焼かれたような頭痛が幾度となく走り抜ける。

 画面の中の男女は逃げ惑っている。いや、それぞれに知恵を働かせて、かなり俊敏に逃げ回っている。小賢しい逃げ方をも辞さない。男もなかなかの動きをみせているが、それよりも二人の女が強気で、矢継ぎ早に指示を飛ばして少しでも長く、全員がフレイソウルから逃げ延びようとしているようだった。

 フレイソウルは全く焦っていないようだ。本気を出せば、すぐにでもつかまえられると思っているのかもしれない。実際、画面の中の三人の男女は徐々に疲れているようで、じわじわと動きが鈍っている。いずれは捕まってしまうだろうと思えたが、そこまで時間を待っていられないのか、画面の外から銃弾が放たれた。恐らく、三人の機動性を奪うためのものだと考えられる。誰が撃ったのかまでは見えないが、銃弾が男の足に命中したことだけはわかった。

 彼はふらついて、その場に倒れた。しかしすぐに上半身を引き起こし、やってくるフレイソウルを睨みつける。

 女二人は銃撃されていない。まだ逃げることができた。新堂は焼け付くような痛みの中でこれを見ている。他人事とは思えぬ、画面の中の三人の男女。

 男は、片足でなんとか立ち上がる。フレイソウルは彼に接近する。それまでに動物にしたように、人間から精神エネルギーを奪うために。女二人はまだ無事だ。それを確認し、男はフレイソウルに向けて接近しようとした!

 女二人を助けるための行動だということは、新堂にも理解ができた。彼は自分ひとりを犠牲にすることで、女二人を助けようとしたに違いなかったのだ。

 誰かの叫び声が、新堂の耳に届いた。今見ている映像には、音声はほとんど収録されていない。ノイズが入っているだけだ。にもかかわらず、新堂の焼けるような脳は、思い出すように声を再生させていた。

 女達の振り絞るような声が、自分を呼ぶものであることに男は気付いていた。

 しかし、次の瞬間にお前は知る。その声は、別れを惜しむものではないということに。

 新堂には、この先の展開が見えていた。

 これを、この展開を、この実験を、俺は知っている。

 目を見開いて、新堂は画面を見ていた。目を離せない。敵地にいるということさえも忘れたかのように、彼は画面に食いついていた。

 女が一人、新堂を庇うように彼の前に立つ。

 もう一人の女は、フレイソウルに向かって飛び掛っていた。

 男が女達を護ろうとしたように、女二人もこの男を護ろうとしていたのだ。男がそうしたように、自分の身を犠牲にすることによってだ。自分が犠牲になろうとすれば、こうなることは予想ができたはずだ。男は瞬間的にそう後悔した。

 その後悔の念を忘れるはずがない。

 自責の念、後悔の念、慙愧。ここでお前は叫んだはずだ。彼女の名前を呼んだはずだ。

 新堂は、そういったことは思い出せたが、そのとき彼がなんと叫んだかは思い出せなかった。自分の名前よりもむしろ深く心に刻んでいたはずの、女の名前を失念している。

 音声をカットされている映像は、何事もなく再生されていく。フレイソウルに挑んだ女は、あっけなく彼に捕まってしまった。彼女の体が不自然に痙攣した。その後、まるで神から命を与えられていた人形が罰を受けて人形に戻されたように、ぐったりと萎えて、床の上にぶざまに転がった。肉の塊が落ちる、どたりという無機質な音が新堂の記憶から再生される。

 実験対象は一人だけで十分であったらしく、そこで実験室の扉は開いた。映像はそこで終っていた。

 次の実験の映像が映し出される。新堂は再生を一時停止させ、荒くなっていた呼吸を整える。


「ああ、ああ……そうだった。そうだよ。これだ」


 両手で重くなるばかりの頭を支えた。彼は下を向いて、この後のことを思い出す。フレイソウルに、あの男に立ち向かった女は、それからもう二度と俺のことを認識できなくなった。何もかもを奪われて、ただ生きているだけの肉人形になったのだ。俺が幼い頃から一緒になると決めていて、勇気を絞ってそれを告げて、くだらない喧嘩を何度もして、結ばれてからも二人で困難に立ち向かい、打ち勝ってきた俺の、二人といない最愛の人。

 そいつをどこにでもいる人間の一人だからとあっけなく奪ってくれたこいつらは、許せないと怒ったはずだ。このときの、俺は。

 新堂は、先ほどの映像であらわれた三人の男女が、自分と、自分の妻、それに自分の姉であることを理解していた。彼は、決して忘れてなどいなかった。たった今、思い出したのだ。

 彼を記憶喪失へ追いやったのは、施設による記憶操作もあるが、それ以上に新堂自身が思い出さないようにと厳重に記憶へカギをかけてしまっていたことが要因であった。過去を思い出そうとすると頭痛が起こるのは、施設による操作が原因ではなく、新堂自身が思い出そうとすることを拒否していたからなのだ。


 彼の妻は、やがて彼の目の前で腑分けされることになり、新たな戦士の材料となっていった。どの戦士の材料となったのかは、わからない。fs-01かもしれないが、そうでないかもしれない。新堂は、自分の妻が解体されていくところを最後まで見ていた。姉には見るべきでないと諭されたが、新堂は彼女がどういう形であれこの世から消えていくところを見届けねばならないと思ったのだ。結果的にそれが彼の心の傷を拡大させることにはなったが、今思い出してみて、新堂の胸に疑問が残った。

 彼女の脳は、どこにいったのかという疑念だ。解体は、まっさきに頭から行われた。それも彼女の体が生きているうちに、培養液のようなものまで用意してのものだった。つまり、施設は生きている彼女の脳髄を入手しているということになる。脳など一体なんの役に立つのだろうか。それも、フレイソウルが精神力を吸い取ったあとのものだ。中身は腑抜けになっていても構わない、たとえば何か薬の材料となるのだろうか。だがそれなら別に培養液などに入れて生存状態を保つことはない。では、本当になんのために彼女の脳が必要だったのか。

 しかし、考えたところで今その答えは出そうになかった。

 いずれにしても当時、深い悲しみから彼は自分の記憶を閉ざしたのだ。施設は自分から忘れてくれたのなら経費節減になったとばかり、彼には簡単な催眠療法で記憶を消すだけにとどめた。

 施設にやって来る前の記憶が新堂になかった理由は、これでおよそ説明できる。

 俺は、彼女の仇を討たなければならない。新堂はそう思いなおした。頭痛は、ひどかった。しかし、これは自分が望んだことだ。自分が悲しみを思い出さないために、記憶にカギをかけてしまった。自分がしたこと。

 頭を振った。槍を取り戻す。

 この槍は、フレイスピアのものだ。俺を庇ってくれた姉さんのもの。

 背中には友としたフレイアックスの斧を負って、新堂は立ち上がる。自分の過去を、知った。彼は自分の目的の一つを、ここにきて達成したのである。


 彼は、この施設が許せない。

 身体強化ユニットを使ったときに、強く施設を憎むようになっていた理由も、これなら説明がつく。強化ユニットの作用が新堂の記憶を一部取り戻させていたのだ。あいつらが憎い、という部分を特に強く。

 今の彼は、そうした強化ユニットの作用とは無関係な部分まで、事実を細部にわたって思い出している。短剣を戻し、強化ユニットの効果が消えたところでもはや記憶は消え去ることがないだろう。

 新堂は武器を持って、資料室を出た。相変わらず人の気配はゼロである。

 怒気をもって、新堂は奥へと足をすすめた。

 エレベーターを発見し、彼はそれに乗り込んだ。地下に降りることができたので、迷わず地下一階へ行く。

 一階から地下一階へ行くだけなのに、エレベーターは長く動いていた。嫌な予感がする。この地下一階は、恐らくとても深い位置に作られているのではないだろうか。高速エレベーターなのだとしたら、五階か六階まで到達するような時間をもう過ぎた。しかし、まだエレベーターは到着しない。

 こうしたところを研究員に悟られないためなのだろうか。それとも階段で行っていては日が暮れるからなのだろうか。どちらか、もしくは両方の理由により地下への階段はなかった。

 そのような密室へ、新堂は行く。



 フレイサイズは、寝台列車の中に寝転がっていた。新堂は後から来ると言っていた。自分は先に行って、彼を待たねばならない。そのくらいの聞き分けはあると思っている。一人だけになるのは少し寂しいが、一人で生きていけないわけではない。何をしてでも、生きていける。

 外はもう、暗い。闇だ。わずかな町の明かりが遠くに見える程度であり、列車は快調にそれらの景色を後方に流し去っていく。フレイサイズは鎌を手に、流れていく景色を見つめていた。

 このまま何事もなければ、新堂に教えられた駅まで列車の中で過ごすはずだった。

 しかし、彼女はふと、自分が持っている鎌を見た。その刃には、フレイアックスの血がついていた。もちろんすでにそれは拭われて、今はそのようなものはついていない。しかし、これは確かにフレイアックスの命を奪うことになった凶器の一つなのだ。フレイサイズは、狼面のあの男を思い出していた。ぶっきらぼうに見えて、よくこちらを気にかけてくれる、色々と教えてくれるあの男は、自分にとってもひどく大切であった。失って悲しくないはずがない。フレイ・リベンジたちが憎く思えないはずもない。

 新堂は、後から来ると言った。それは何故だろうか。

 猫頭のフレイサイズは、それ以上考えることができなかった。思考がうまく回転しない。複雑にものを考えることは、苦手である。ひょっとしたら、何か買い物でもしているのかもしれない。フレイアックスやフレイスピアの遺体を回収しているのかもしれない。

 何かが、まずい気がしていた。このまま自分がここにいることは、よくないと思えた。

 フレイサイズは、感じていた。ひどく強い焦燥を感じている。何かをなすべきだという、強くこみ上げるものを感じている。

 今ここで、寝ていてはダメだと結論する。

 行かなければならない、ここを出なければならない。

 決意を固めた。フレイサイズは窓を開ける。寝台列車の都合上、わずかしか窓は開かない。頭が通れば身体をねじ込む自信はあったが、その頭も通りそうにない。

 しかし、寝台列車は次の駅までもかなり時間をかけていく。それを待っていては、何かが手遅れになると考えられる。

 窓ガラスを破るしかない。わずかしか開かない窓に頭をくっつけて、フレイサイズは列車がスピードを落とすのを待った。いくら自分自身が頑丈だとはいえ、このようなところで万一着地に失敗したら目も当てられない。

 進行方向にカーブが見えてきた。それほど急な曲がりではないが、おそらくスピードは落とされるだろう。

 フレイサイズは鎌の背で窓を叩き割った。次の瞬間、彼女は破れた窓から外へ飛び出す。

 列車はそれでもかなりの速度であったから、普通の人間なら大怪我をしていただろう。外は、田舎道だった。田んぼの脇にある、舗装もされていない道だ。

 さすがに列車から飛び降りたのであり、フレイサイズといえども綺麗に着地できるわけもなく地面に転がった。外套が汚れて、土埃だらけになってしまう。

 列車の中では騒ぎになるかもしれないが、飛び出してしまったフレイサイズとしては後のことなどどうでもよかったし、気にしようともしていない。単にそこまで考えがまわらないだけかもしれなかった。

 ともかく彼女は、新堂のもとへ戻ることを決めていた。叱られるかもしれないが、などということは考えていない。今、彼には自分が必要なはずだと決めつけて、信じていた。それを止められるはずなどない。また、説得する人間もこの場にはいない。

 行き先は、フレイスピアの血が教えてくれる。

 フレイサイズはここがどこかもわからなかったし、地図も持っていなかったが、目的地の方角だけはわかっていた。新堂とともに最後の施設へ赴いたときに、フレイスピアの血が感じられた小屋があった。あの場所を目指していけばよいと感じている。新堂は、間違いなくそこへ行ったはずなのだ。

 ブーツを履きなおして、止め具をきつくする。これからはもう、止まらない。走り続けて、彼のもとへ行くと決めた。目標を定めて、血染めのメイド服を着た大きな猫が、駆け出す。

 鎌を背負い、フレイサイズは走る。手加減のない、本気の走りだった。

 元来、猫ができる運動能力を大きく超えている。持久力も発揮している。賢明な走りだ。

 風のように、猫が走っていく。暗色の外套を着ていることもあって、走る彼女は誰の目にも止まらなかった。

 テールランプを並べている渋滞した車の屋根の上も、彼女にとっては道にすぎなかった。それどころか、走っている車の屋根の上でさえも平気で足場にした。罪悪感の欠片もなく、ただただ新堂のもとへ急ぐという一心をもって、彼女はあらゆる手を講じて駆ける。

 同じ方角へ向かうトラックを発見したフレイサイズは、その屋根の上に飛び乗る。そこでわずかに休憩を取った。

 しかしそのトラックはすぐに赤信号につかまった。彼女はトラックを飛び降り、再び道路を走った。

 道がなくなれば田畑の中をも走りぬけ、山の中を突っ込み、民家の屋根を飛び、ただひたすらに急ぐ。何があろうとも、関係がなかった。

 このまま彼女は歩みを止めないかとも思われたが、急ぎに急ぐ彼女の進行方向に、見知った気配が出現していた。

 やむなく、急ブレーキ。泥だらけになったブーツが異音を発して、靴底から土煙を上げる。しかし、やってきた気配は、新堂ではない。しかしながら、何度か会ったことのある相手。

 つまり、敵である。鎌を背中から抜いて、両手に握った。

 そこは列車から降りたところと似た、田んぼの中にある広めの道だった。道幅はおよそ三メートル程度。外灯がひとつあって、周辺には蛾や羽虫がわずかながら飛んでいる。

 こうしたところにあらわれたのは、土に汚れた作業服の上にジャケットを着込んだ犬面の女だった。その顔を隠そうともせず、外灯の光の中にあらわにしている。両手にはフレイサイズのものと似た、大きな鎌を持っている。

 サイズウルフだ。何度も戦っていた相手でもある。間違えるはずもない。

 しかしサイズウルフは、フレイサイズの前にやってきてもすぐさま鎌を振り回したりはしない。下を向いていて、フレイサイズへはちらりと目をやったきりだ。

 だが、それでも何もしないわけにはいかないのだろう。やがて鎌を持ちかえる。しかしまだ構えずに、こう言った。


「どうして戻ってくる必要がある、フレイサイズ。あんたに質問しても無駄なんだろうが、きかずにいられない」


 フレイサイズは話しかけられていることに気付いた。だが、構えを解かず、ただサイズウルフの話を聞くことにする。


「お前自身は、あの男のことをどう思っているのか知らないが。お前の素性には同情してしまいそうだ。知っているのか、自分が何者なのかってことを」


 やはり構えもしないままサイズウルフはそう問いかける。しかし、フレイサイズは微動だにしない。首肯することも、首を振ることもしなかった。ただ、聞いているだけである。

 特に反応を期待しているわけではない。サイズウルフは話を続けた。


「お前は、あの男の、新堂の嫁さんのつもりなんだろうがな。実際、それよりももっと因縁深い関係なんだよ、お前たちは。フレイサイズ、お前ほど呪われた存在を私は他に知らない、私自身でさえももう少しマシな出自だろうと思う。お前は新堂のカミさんなんかじゃない、もっとおぞましいヤツだ」


 ほとんど侮辱といってもいいほどの言葉を、サイズウルフはぶつける。しかし、そうした言葉を聞いてもなお、フレイサイズは動じない。同じ、大きな目で、敵であるサイズウルフを見据えていた。

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