第十二話 自害・中編
まずは、敵の位置を知る必要がある。新堂は一度深呼吸をして、できるだけ心を落ち着かせようと努めた。短剣を抜いているせいか、どことなく落ち着かない。
「フレイサイズ、スピアエルダーはまだこの建物の中にいるのか」
質問に、フレイサイズは頷いて答えた。彼女が指で示した方向は、ほぼ真下。角度から考えて、一階か二階の女子トイレに潜んでいる可能性が高かった。
しかし、フレイサイズが位置を知ることが出来るのは恐らくスピアエルダーだけだ。サイズウルフのほうはわからない。二人一緒にいるという前提で行動するのは、危険だ。怪我をしているスピアエルダーをトイレに隠しておき、サイズウルフは単独で行動しているということも考えられることであった。
とはいえ、さすがにこの建物から脱出するときは一緒に行くであろう。サイズウルフがスピアエルダーを置き去りにしてここを去ったということは少し考えにくい。つまり、敵はまだこの建物の中にいる。
二人の所在が完全にわかるのであれば、サイズウルフがスピアエルダーから離れたところを狙って、スピアエルダーを殺しにいける。どちらか一人でも殺してしまえば、フレイサイズと二人でかかって、サイズウルフであろうとも亡き者にしてくれる。そしてサイズウルフが死んでしまえば、残りのフレイ・リベンジなど問題にならない。アックスツヴァイの電撃だけは恐ろしいが、フレイアックスがいればそれも防御することが出来る。フレイ・リベンジさえ壊滅させれば、施設を護るのはただの兵士達だ。これらは短剣を抜く必要もなく片付けられるほど弱い存在、全く問題ない。
施設の壊滅を目指すなら、一番の問題はサイズウルフなのだ。彼女さえ始末してしまえば、あとは何とかなる。そして今が、彼女を仕留める最大の好機。逃す手はない。
「あ、あの」
そんな声が聞こえて、新堂は考えから現実に引き戻された。振り返ってみると、先ほど婦警がこちらを見ている。
「すみません、お名前だけでも教えていただけませんか」
「名前か、俺はしんど……。うん、新堂だ」
問われて名前をこたえようとしたが、そのとき新堂は自然にフルネームを名乗ろうとしていた。しかし途中で『自分の名前など覚えていない』ということを思い出して、新堂とだけ名乗った。
違和感が胸にこみ上げる。
なぜ今、俺はファーストネームまで言おうとしたんだ。
その問いに答えられるものはここにはいない。
「し、新堂さんですね。そ、そちらの方、あっ」
婦警は何かに気付いたらしく、目を見開いて口元に手をやった。
新堂は左手に短剣を戻しながらそれを見た。違和感と身体強化ユニットは無関係ではないだろうと感じたからである。
「その、その人はもしかして」
記憶力のいい婦警だったらしい。新堂はなぜ彼女がこれほどに慌てているのかを察した。以前、ニューフレイ製薬に対して捜査を行ってもらうために、警察には資料を提供してある。その際に決定的な証拠として持っていったのがフレイサイズの写真つきの研究レポートだったのだ。
あのレポートには今新堂が知っていることの大半が載っている。あれに書かれていないのは、今日アックスツヴァイから入手した幾つかの情報くらいだ。無論、フレイダガーが新堂と名乗っていることも書いてある。『新堂』と名乗ったことと、フレイサイズの容姿から記憶のスイッチが入ったのだろう。素性はばれてしまったらしい。
こうなってしまっては、隠す必要はない。というよりも、隠せない。新堂は観念したように首を振った。それからフレイサイズを指差して、こう言った。
「知っているのか、この猫はフレイサイズだ。俺たちはそう呼んでいる」
「やっぱりそうなんですね。こないだ、資料がきました。ニューフレイ製薬の実験結果だといって」
二十人以上も警察官を殺したニューフレイ製薬のしたことだ。警察内部で資料が出回るのも異例の速度であった。
「そうか。しかし今はそんなことどうでもいい。早く倉庫へ行って隠れていてくれ。あいつらはまだこの建物の中にいる」
「は、はいっ」
まだ殺人鬼二人がここにいると聞いて、婦警はさっさと退却していった。ひょっとすると、死体や血痕の点在するこの署内を歩くのが怖くなり、新堂と会話するために戻ってきたのかもしれない。
そのときようやく、外から鳴り響いていたサイレンの音が鳴り止んだ。外を囲んでいる警察官の数は三桁に達するだろう。
フレイ・リベンジはこの状況をどう考えているだろうか。彼女達、というよりサイズウルフなら三桁だろうが四桁だろうが、ただの警察官など紙を引きちぎるように打ち倒してしまえるだろう。しかし、いかにサイズウルフとて瞬く間にそれだけの命を奪えるものではない。
今ここに新堂も、フレイサイズもいる。警察官の相手をしている間に、背後を突かれる可能性が高い。
それに、先ほどの婦警はやや察しが悪かったとも言えるが、連絡を受けた隣の警察署はニューフレイ製薬の一件と今回のことを結びつけて考えないわけにはいかなかっただろう。となれば、あらためて考えるまでもないが、この包囲は恐らくとても厳重で、しかも特殊部隊を抱えている可能性がある。先ほどの婦警が連絡をしたのだから、中にまだ生きている人間がいることは伝わっている。その人間を救出するために突入してくるか、あるいは投降を呼びかけるか、どちらかだろう。
新堂はゆっくりと窓際に移動し、外の様子を確かめた。
パトカーは数十台規模で敷地内に駐車され、それに乗ってやってきたであろう、百名以上もの盾を構えた警察官達が外で待機している模様だ。まだ突入はしてこないらしい。
「フレイサイズ」
新堂は注意深く彼らを観察しながら、横にいる猫に声をかけた。
「あの制服を着ている連中は警察官だ。完全に味方とはいえないが、殺すなよ。悪い言い方をすれば、彼らを利用することもできる」
フレイサイズは素直にこくりと頷き、武器を握り締めた。
現場周辺はにわかに騒がしくなり始めている。当然だろう。警察署を襲撃して、中にいる警官をあらかた殺してしまったような凶悪犯がいるのだ。また、すでに警察署から逃げてしまったかもしれないからと、周囲の民家にも警察が訪ねてまわっているようだ。必要なら、避難もさせるに違いない。
当初、サイズウルフたちはこうした状況を作り出しておいて、集まった警察官をも全て力任せに押しつぶしてしまうつもりだったに違いない。彼らならそれが可能であるし、そうしたほうが後々有利になるだろうと予測するからである。しかし、今は状況が違う。ここに新堂とフレイサイズがいる。その上スピアエルダーは片足のアキレス腱を切る大怪我を負っているはずだ。もはや当初の予定通りにはいかない。ゆえに、彼らも考えているはずだった。どうすればこの状況を乗り切れるのか。あるいは、どのようにして全員を殺してしまうかということを。
新堂は考えても無駄だという結論に達した。とにかく、行動を再開する。
今は、生き残った人間を探して、一箇所に集めてしまいたいと思った。
女子トイレの隣から、捜索を再開する。トイレの隣は階段であるが、その隣は更衣室のようだ。ロッカーが並んでいる。ここは無人だった。
更衣室の隣は何かの事務室らしかった。何人かが机に座ったまま絶命していた。机ごと肩から袈裟懸けにされている者もある。これをやったのはサイズウルフだろう。生き残っている人間はいなかった。
結局四階にはもう生きている人間はいないらしい。新堂とフレイサイズは階段を降りる。三階にでたが、どうやらここでは部署ごとに部屋が分かれていたらしく、雑然と事務室が並んでいた。
新堂たちは一つ一つ事務室の扉を開けては中を確認したが、そこにいた人間の大半は胸を刺されるか、真っ二つにされているかの二択だった。ほとんど奇襲に近いものだったと予想される。階段から遠くなるほど、銃を手に持っていたり、警棒をとっていたりする死体が目立った。
三階、最後の部屋は保安課だった。新堂はドアを押し開く。
ドアはすんなり開いたが、死体は少なかった。倒れているのはひょろりと背の高い感じの男と、やや体格のよい男の二人だ。新堂は血だまりの中に倒れている二人を見て、死体だと判断した。しかしドアを閉めようとして、やめた。部屋の中に戻る。わずかな音が聞こえたからである。どちらかの一人が生きているのかと思ったが、触れてみると二人とももう冷たくなり始めている。確かに死んでいるようだ。
しかし、続いて何かの音が新堂の耳を刺す。そこで彼は顔を上げた。窓だ。窓の外に、誰かがいる。
いや、誰かではない。見知った顔だ。
「フレイアックス!」
新堂はすぐに窓を開けた。フレイアックスは別れたときと変わらない格好で、すぐに部屋の中に入り込んできた。
外套を着込んできた彼は、状況を説明しようとする新堂をさえぎる。
「ラジオで散々、特別報道番組を聞いてきたから大体のことはわかる。今、外はすさまじい数の警官で埋め尽くされているが、俺が入ってくるときには夜陰に乗じて何とかできる程度のスキはあった。ここは裏側に植えられた木々の陰になっていてわかりにくいしな」
フレイアックスはそう淡々と語りながら、すぐに窓から離れた。新堂たちもそれにならう。
「それで、何をしているんだ」
「生存者を探している。さっきフレイ・リベンジと接触したが、逃げられた。サイズウルフは無傷だが、スピアエルダーは片腕と片足に傷を負っているはずだ。特に足はアキレス腱を切っているから、俊敏な動きはできないはず」
「それで、生き残った人間は見つかっているのか」
「二人だけ見つかった。四階の倉庫に隠れているように言ってある。しかし、この分では他の生存者は期待できそうにないな」
新堂の説明に、フレイアックスはふむりと頷く。彼も何をすべきか考えているようだった。
「フレイソードが外に車を用意している。ここを脱出したらすぐに逃走できるようにな。事情聴取とか面倒くさいものからは逃げた方がいいだろう」
「ああ、ありがたいな」
新堂も頷いた。
「三人になったことだし、一先ず四階倉庫に戻ってみようと思う。フレイアックス、ついてきてくれるか」
「そのつもりだ。それにしても、この中は血なまぐさいな」
鼻先に手をやりながら、フレイアックスは口元をゆがめる。新堂は宣言どおり、四階の倉庫に向けて歩き出しながら言った。
「そこらじゅう、死体が転がってる。俺がフレイ・リベンジだったら死体のふりをして奇襲をかけてるところだ」
「むごいな。奴らは罪もない人を手にかけることに心を痛めないのか」
「いや、命令だからやっているだけだろう。そういう指令を平然と出せる奴こそいかれてる」
新堂は先ほどのスピアエルダーの言葉を思い出しながらそう言った。命令ならどんなことでも聞くという、スピアエルダーの言葉。
「どちらにしても、同情などしている場合ではない」
そのとおり、と新堂は思いながら、何も言わなかった。
ほどなく、四階の倉庫に帰りついた。カギは新堂が壊してしまったので、簡単にドアが開く。ひょっとするとサイズウルフに発見されて、殺されているのではないかと不安になったが、そんなこともなく、彼らはそこにいた。
先ほどの婦警と、言葉もなく怯えていた警察官。合わせて二名。怯えていた警察官も、婦警がそばにやってきたことで少しは落ち着いたのか、今度は新堂の姿を見ても怯え戸惑うことはなかった。
しかし、彼に用事はない。新堂は婦警に話しかけた。
「仲間が到着した。彼はフレイサイズと違って言葉を話すことができる。彼の名はフレイアックスだ」
「は、はい」
フレイアックスを紹介したが、婦警の反応は曖昧だった。当のフレイアックスも憮然とした表情のままで、突っ立っているだけである。彼は婦警などに興味はなかった。
しかし新堂はこの婦警に用事がある。すぐに彼は用件を切り出した。
「すまない、さっき通話を切っていない電話があると言っていたが。あれはまだ手元にあるのか」
「あります」
婦警は胸元をおさえた。胸ポケットに入っているのだろう。
「貸してもらうわけにはいかないか。どうしても外にいる警察に伝えたいことがある」
「わかりました、どうぞ」
隣にいる警察官はやめておけという顔をしたが、婦警はあっさりと新堂に電話を手渡した。外に警察官が大量にやってきて完全にここを包囲してしまった以上、これ以上通話を続けていても、事件の伝達というところではあまり意味がなかった。通話を続けているのは、ただ自分たちの身に何が起こるのかを記録してもらう意味しか持ち得ていない。
新堂は婦警から電話を受け取った。少し古い型の携帯電話と見えたが、通話が続いているはずである。彼はすぐに、それを自分の耳に押し当てた。
「聞いてもらいたいことがある。俺たちは犯人ではないが、彼らについての情報を持っている」
そう言ったところ、電話回線の向こう側では混乱が生じた。誰が出るだの、どういう応答すればいいだの、小さな声で聞こえてきている。多分受話器をおさえているのだろうが、新堂の耳には聞こえてしまう。
やがて、受話器の向こう側から落ち着いた男の声が聞こえてきた。責任者であるらしい。
『話を聞こう。その前に、君は誰なのか教えてくれないか。警官ではないのかね』
「俺は新堂。ニューフレイ製薬で人体実験に使われていたただの人間だ。ゆえに施設を脱走して今に至る。しかし、俺のことをくわしく説明している暇はない」
『君がそこにいる署員たちを殺傷したのかね』
「違う。俺はそれを止めるために、犯人を追ってここにきた。間に合わなかったがな。しかし犯人の二人組みはまだ、この署内にいると思われる。また、少なくとも一人は確実にこの署内にいると断言できる」
『君の言葉を信用してもいいのかね』
「そうしなければ、外でこの警察署を包囲している人間全てが死ぬ。脅しているわけではない。犯人のうちの一人は、それだけの力を持っていると言っている。信じなければそれでいい」
新堂は舌打ちをしかかった。この責任者らしい男は、なかなか疑り深い。とはいえ、自分がここにいるということは、それだけで疑われて仕方がない。犯人と無関係だなどと、思えないのだろう。
『話を聞こう。言ってみたまえ』
「その前に、教えて欲しいことがある。今、四階と三階を見てまわったが、生存者が二名。この電話の持ち主もふくめて二名いた。この他に、そちらで署内に生存者を誰か確認してはいないか?」
新堂の質問に、責任者はすぐに返答しなかった。何か調べているのかもしれないが、何かを疑っているという可能性もある。だが、しばらくしてから返答があった。
『こちらでは他の生存者からのコールは確認されていない。君は生存者を二名、保護してくれているのだな。感謝する』
素っ気無い口調で感謝を告げられたが、嬉しくはない。しかし、情報は有効だ。この二人を除いて、ひとまず生存者はいないということになっている。つぶさに調査をしたわけではないのでわからないが、外から確認されているのはこの二人だけである。
「わかった。俺はこの生存者二名を、早々に外に逃がしたいと考えている。そうでなければ、犯人に見つかってしまうと殺されかねない」
『そうしてくれると助かる。だが、君は犯人に対抗できるのか。彼らは非常に強大な武力を持っている。得体の知れない力で、署員を倒してしまうほどの実力だが、信じていいのか』
「信じていい。今から俺たちは、外に出る。仲間が二人いるから、五人。五人で外に出る。攻撃をかけないでほしい。どうせ、狙撃手も配置しているのだろうが、頼む。どうか攻撃をしないでくれ」
『無論だ。だが、もしこれが嘘であった場合には即、攻撃を開始する』
「構わない。それと、犯人の襲撃があった場合にも攻撃を開始してくれなければ困る」
『わかった』
新堂は相手が了解したことを確認して、婦警に携帯電話を返した。通話はまだ切っていない。
「新堂」
フレイアックスが扉を開けようとしている新堂に声をかけた。
「どうしてこいつらを逃がしてやる。フレイ・リベンジが一旦逃亡した者になどに興味を示すとは思えない」
しかし、新堂はすぐに反論する。
「多分、彼らは命令を受けている。『全滅させろ』か、『逃げるものにも容赦するな』といったような命令だろう。三階で見た死体の中には、明らかに逃げようとしたり、隠れていたところを殺されたものがあった」
「なるほど、だがなぜこの二人を助ける気になる。放置しておいても、別に心は痛まないだろう。善行をしても利益になるとは限らないぞ」
新堂は扉を開けて、周囲を確認した。婦警と、臆病な警官を連れて外に出る。
「階段で行こう。フレイアックス、帯電しておいてくれ」
「わかっている」
先頭に新堂、次に婦警、真ん中にフレイアックス、彼に守られるように臆病な警察官、最後にフレイサイズ。こうした順で階段を下りていく。
新堂は一階の階段付近にある女子トイレにスピアエルダーがいることを知っているが、強く警戒したにもかかわらず、スピアエルダーもサイズウルフも、一行の前に姿を見せることはなかった。
ほどなく、出入り口。正面玄関にたどり着く。
建物のドアは内側から施錠されている。ロックを解除する前に、新堂は振り返った。
「この二人を助ける理由なんだが」
「ああ」
さっきの話か、とフレイアックスは頷く。新堂は照れくさいと思ったのか、少し早口でこう言った。
「なんとなく、フレイスピアならこうしただろうと思ってな」
彼は言い終わるとすぐに向き直り、ロックを解除してドアを押し開く。