第九話 陽動・中編
すべきことは、すでにした。できればこれから帰還したいところではあるが、もはや力が入らない。
フレイスピアはなんとか起き上がろうとしたが、それが無理であることを知った。傷の痛みではなく、出血のせいだ。しかしフレイスピアは諦めず、手を伸ばした。何かつかまれるものを探している。
「かなり強いにおいがするものですね。しかし、これで私たちの居所を突き止めようというのでしょうか」
スピアエルダーが自分の背中を気にしている。そこにはべっとりと蛍光塗料がかかっていた。フレイスピアが直接、そこにカラーボールを叩き付けたせいである。チーズの腐ったような、お世辞にもいいにおいとはいえない臭気が漂っていた。
「それより、スピアエルダー。彼女の身体は持ち帰らなければならないのでしょう。その役目は私がしますから、あなたは先に戻って、そのにおいを落とす努力をなさるべきです」
そう言ったのはソードバイスだった。彼は未だ動き続けているフレイスピアの右手を片足で踏みつけ、腰に下げていた剣を抜く。
「そうかもしれませんね。しかしソードバイス、あなたは何をなさるおつもりですか。ここに長く留まることは、危険だと思えますが」
「このところご無沙汰でしたので、彼女にお付き合いいただこうかと。新堂がここを探り当てる可能性は低いです。ご心配なさらずにお帰り下さい」
言いながら彼は剣を床に突き刺し、血に染まったフレイスピアの身体を見下ろした。見下ろされたフレイスピアは霞んでほぼ何も見えない視界の中に、自分が情欲の対象にされていることを知った。とはいえ、嫌悪は感じない。勝手にするがいい、という諦めの側面もあったが、どうせ行為が終るまでの間、自分の命はもたないだろうと思えたからでもある。
「死の淵にあるとはいえ、彼女は戦士です。あなたの毒牙にかけていいとは思われません。あなたの行為に、私はあまり感心しません」
やんわりとした口調だが、スピアエルダーはソードバイスを非難している。しかし、スピアエルダーにとがめられたくらいで行為を中断したりはしない。
「これは、俺の存在意義でもあるのです。スピアエルダー、いいから早く戻ってください。あなたがここにいると探り当てられる可能性が高くなる」
邪魔なスピアエルダーを早く追い返そうとしたらしいソードバイスの科白であるが、それに返事をしたのはスピアエルダーではなかった。
「もう遅い」
声は意外な方向から飛んできた。今まで気にもしていなかった、隅のほうからである。声は鋭く、殺気を放っていた。
スピアエルダーはすぐに槍を構えたが、ソードバイスは新たに出現した気配に顔を向けながら、ゆっくりと剣をとっただけである。そうしながら、訊ねた。
「そこで何をしている」
しかし、その声に応えることも無く、気配はソードバイスに襲いかかっていた。
ソードバイスは敵の攻撃を剣で防ぎ、大きく後ろに下がった。
敵はそれ以上彼を追撃せず、倒れているフレイスピアを庇うようにそこへ立ちふさがる。その正体はすぐに判明した。
「誰かと思えば、フレイソード」
スピアエルダーが敵の正体を明かした。
確かにそこに立っていたのは、fs-04フレイソードだった。彼は足元に倒れるフレイスピアを護るように、剣を構えていた。片刃の、少し短めの剣だった。
「これ以上、この人に手出しはさせない」
「あなたは一人で、私たち二人からその子を護ろうというのですか」スピアエルダーは少しだけ目を開けて、赤い目でフレイソードを見た。「無駄です」
「やってみなくてはわからぬ。それに、お前たちは二人とも傷を負っている。万全ではない」
「それを差し引いても」
スピアエルダーはそう言いかけたが、ふと口を噤んだ。そして次の瞬間、再び目を閉じ、足を踏み出してフレイソードに襲い掛かった。
素早い攻撃だったが、フレイソードは剣を振ってその一撃を払う。彼は夜の闇の中でも、十分すぎるほどに敵の攻撃を見切っている。
何度かの攻防の後、フレイソードは一気に剣を跳ね上げた。瞬間、澄んだ音がしてスピアエルダーの槍の穂先が切断される。
しかしそれにも構わず、スピアエルダーは武器を握り直してわずかに残った穂先をフレイソードに叩き込もうとする。
スピアエルダーの突きこみを回避するため、フレイソードは素早く剣を引き戻す。振り上げた剣をそのまま打ち下ろし、槍に打ち当てるつもりなのである。
だが、それは成功しなかった。フレイソードの技量の不足によるものではない。
ソードバイスが介入したからである。横から攻撃をしかけてきたソードバイスの姿に気付いたために、彼はそれをも回避する必要性に迫られたのだ。彼は体勢を大きく崩しながらも二つの攻撃をなんとか避ける。次の一手には全く繋がらない無様な回避といえたが、この場合は仕方がなかった。
フレイソードは床を這うような低い姿勢になりながらも、素早く二人のフレイ・リベンジから距離をとった。そうしておいて、すぐにまたスピアエルダーに挑みかかった。
わずかの間でも、フレイスピアから離れるわけにはいかないからである。今の彼女に抵抗する手段はまるで残されていない。剣を振り下ろされればそれだけで絶命することが決まってしまう。
「甘いですね、フレイソード」
スピアエルダーは応戦した。穂先が折れた槍を振り、フレイソードの剣を防ぐ。
フレイソードの実力はスピアエルダーよりも高く思われたが、昼間のように完全にスピアエルダーを翻弄することはできない。ソードバイスがそこにいるためでもあるが、何よりも彼のこころは今、乱れていた。
フレイスピアが倒されたのである。
深く傷ついたフレイスピアは、恐らく二度と戦えないだろう。死ぬかもしれない。それを止められなかった自分も許せないが、彼女に襲い掛かったフレイ・リベンジはもっと許せない。全力を持って、打ちかからなければならない相手だった。
その怒りのこころが、彼から冷静さを奪っている。敵を翻弄できる素早さと動体視力をもちながら、攻撃をしかけずにはいられないのである。
ソードバイスはまだ傷が完治してはいないが、それでも剣をとっていた。すぐにフレイソードが怒りに冷静さを失っていることに気付く。横から剣を伸ばし、ちょっかいをかけた。
ただそれだけで、フレイソードは乱れる。所詮はがむしゃらな攻撃に過ぎないのだ。
「くそ!」
フレイソードはそう叫んで、ソードバイスの剣を払った。当然、正面にいるスピアエルダーに対しては無防備になる。
これを見逃すほどスピアエルダーも甘くはない。槍を突きこんだ。この攻撃は標的の左肩に突き刺さるが、致命傷とはならない。剣が戻ってきて、突き刺さった槍は途中から切断された。
切られた槍を戻し、スピアエルダーは素早くソードバイスに目をやった。
「時間です。これ以上、彼らを相手に出来ません」
「フレイスピアはどうする、連れて戻れないか」
ソードバイスはそう返答したが、スピアエルダーは首を振った。
「もう、彼女が到着しました」
瞬間、屋上に新たな影が出現した。片手に大型の懐中電灯を持っていて、それでこちらを照らしている。
「フレイ、サイズ」
懐中電灯を持った人影に、ソードバイスは見覚えがあった。血に染まったメイド服を着た、猫のような姿。まぎれもなくfs-02フレイサイズである。
片手には懐中電灯、もう片方の手には当然武器である大きな鎌を持っている。
「来ましたね、フレイサイズ」
スピアエルダーはそこにいるフレイシリーズの三人を順に見やった。fs-03フレイスピア、fs-04フレイソード、そしてfs-02フレイサイズ。いずれも、捕らえなければならない標的である。だが、残念ながら今は捕らえられない。戦力が不足している。
ここは撤退しなければならない。フレイスピアの身体を持ち帰ることは、無理だ。
フレイサイズは鎌を携えて、懐中電灯をこちらに向けて歩いてくる。まだ傷が治りきっていないはずである。サイズウルフの与えた傷はかなり深く、普通の人間なら一ヶ月以上の入院生活となるものであった。フレイサイズの生命力がいかに強くとも、そう簡単には癒えない。
だが事実として、彼女はここにいる。
恐らくただ無理をしてここに来ているだけだ、とスピアエルダーは思っている。今は到底本来の実力を発揮できる状態ではないだろう。
しかし、それでも戦えば不利である。ソードバイスに傷を負わせたのは、フレイサイズなのだ。つまりフレイサイズの実力はソードバイスよりも上、フレイソードの実力はスピアエルダーよりも上である。
フレイソードの傷を考慮しても、総合的に考えると今は我々が不利といえるだろう。
スピアエルダーはそう判断した。よって、退却を提案している。
「ちっ、猫め。前はよくもやってくれたな」
にもかかわらず、ソードバイスはその指示を無視した。彼は負けず嫌いな性格であった。以前に正面からぶつかり合って、負けたことを気にしているのだ。なんとかしてこの猫を打ち負かしてやろう、と思っているに違いなかった。
しかし今はその手段がない。体調も万全とはいえない。
それでもソードバイスは、逃げるという選択肢を採用する気になれなかった。
自分と同じ、万全とはいえない状態のフレイサイズに剣を向ける。そうしておいてゆっくりと足を踏み出し、間合いを詰めていく。
剣を向けてくるソードバイスに対して、フレイサイズは懐中電灯のスイッチを入れたまま、それを足元に落とした。両手で鎌を持ち直し、ブーツを履いた両脚を開いて、ゆっくりと鎌の先をソードバイスに向ける。猫の大きな目が、闇の中に光って見えた。
フレイサイズは口元を引き締めたままだった。フレイスピアが倒れているところも、フレイソードが傷ついているところも見えているはずであるが、その表情はまるで変化していない。人形のように、ただ無表情を保っていた。
彼女のことを疑問に思ったのは、倒れているフレイスピアだけだった。
なぜフレイサイズがここにやってきたのか、ということを疑問に思えるのは、この場ではフレイスピアしかいなかったのである。フレイソードはフレイスピアが新堂たちに黙ってやってきたということを知らないし、フレイ・リベンジたちはそのようなことを気にする余裕がない。
いずれにしても、フレイスピアの計算ではフレイサイズはここに来るはずがない人物であった。万が一そのようなことがあるとしても、新堂が同行してくるはずである。フレイサイズは新堂に一番懐いているのだから、新堂にくっついてくるということはありえた。だが、単独でこのようなところに来るなどと、考えられない。
「ふっ、フレイ、サイズ」
目潰しを食らったはずの目を開き、フレイスピアはなんとかフレイサイズを見ようとした。彼女の名前を呼ぼうと声さえもしぼった。それらに対し、フレイサイズはすぐに反応を見せた。顔をそちらに向けたかと思うと、ソードバイスのことなどかまわぬと言いたげに早足でフレイスピアのもとへと駆け寄ったのである。
ソードバイスが無視されたことに憤り、フレイサイズに向かって剣を振るったが、彼女はそれに鎌で応じた。ほんの一瞬で、ソードバイスの剣は吹き飛んでいく。想像以上の膂力で振り回されたらしい鎌は、あっけなくソードバイスから剣をもぎとってしまったのだ。
「なっ、なんだと」
自然とそのような言葉がもれた。ソードバイスは驚愕する。あらためて、フレイサイズの強さを思い知ったのである。スピアエルダーは当然の帰結だと思っているので、特に驚いたりはしない。
「まだ退かぬつもりですか、ソードバイス」
「当然」
諦め悪く、ソードバイスはそこに残った。もう何を言っても無駄だと思ったスピアエルダーも、一応そこに残っている。最も恐るべき敵であるフレイサイズが積極的にこちらに攻撃を仕掛けてこないので、ひとまず危険はないと判断したからである。
一方、フレイサイズはフレイスピアの元へたどり着いている。傷ついたフレイスピアを見るや、その場に屈みこんでその顔を覗き込む。当然、何か言葉をかけるといったことはしなかった。フレイサイズは、これまでに一度も言葉を話したことはない。期待するだけ無駄というものであった。だが、フレイスピアにはわかっている。彼女は、この自分を心配しているのだと。
フレイサイズは、フレイスピアを心配してくれているのだ。
友情か、仲間意識か、連帯感か。いずれにしてもフレイスピアにとっては、嬉しいものだった。フレイサイズのような打算も何もない、仲間の中でも最も純粋な存在から心配をされるということは、彼女と自分が間違いなく、何かの絆で結ばれたということであるからだ。
すみませんフレイサイズ、もうあなたとは遊べません。
フレイスピアが思うことは、それだけだった。フレイサイズは納得してはいないが、不満を口にしたりはしない。彼女は、フレイスピアが死ぬということを知っているようだった。
フレイソードができるだけゆっくりとフレイスピアを抱き起こした。そうしながらも彼の目はフレイ・リベンジたちを見ている。いつ彼らが襲い掛かってきても対処できるようにしているのだ。だが、フレイサイズがやってきた今、彼らは手を出してはこない。
「どういうつもりだったのです、フレイスピア。独断専行、命令無視ですか?」
「そのとおりです」
フレイスピアの声は小さく、弱々しい。だが、彼女はなんとか声を絞り出す。フレイソードはそれを聞こうと、彼女の口元に耳を寄せている。
「フレイスピア、あなたは」
「私がしたことの意味は、フレイサイズが、知るでしょう。私たちは、彼らを追い詰めるために、彼らの居場所を知らねばなりません」
そこまで言ってフレイスピアは咳き込みをおさえた。
「わた、は、時間が、残されていま、せん」
彼女の口の中には、血が溢れている。
「フレイ、ソード。あなたは、いま、でも、……私のことを、好いて、くれている、のですか」
小さくなり、途切れ途切れになる言葉を、フレイスピアが紡いでいく。フレイソードはそれを聞き取った。しかし、今の言葉は聞きなおさないではいられない。
「今、なんと」
「いまでも、わたしを、す、き、なの、ですか」
今度は聞き違えようがなかった。このようなときに、そのようなことを訊くのか、とフレイソードは思う。
この人は、すでに自分が助からないことをわかっているのだ。
ならば隠しても無駄だ、とフレイソードは判断する。しっかりと頷き、フレイスピアの言葉を肯定する。途端、抱えていたフレイスピアの身体が浮き上がった。
いや、彼女自身が上体を起こしたのだ。だがなんのために?
そう思う暇もなく、フレイソードの唇に暖かなものが触れた。顔を寄せてきたフレイスピアの唇が触れている。ほんの一秒、二秒ほどの間だった。すぐにフレイスピアの身体は力を失い、元のようにぐったりしてしまう。
だがフレイソードは呆然としていた。思わずフレイスピアの顔を凝視してしまう。
彼女はゆっくりと応えた。
「今の私、には、このくらい、のことでしかあなたに、むくいること、が、で、できません」
フレイソードはその言葉で、ようやく彼女の意図を理解した。ここにやってきた自分に対する、礼なのだ。
「十分です」
「そうですか」
もうわずかにしか、自分に残された時間はないだろう。フレイスピアは死を受け入れるべく、身体から力を抜きつつあった。だがフレイソードはまだあきらめてはいない。
フレイサイズはそうしたやりとりと今の接吻を見てはいたが、何も言わない。鎌を握りなおして彼ら二人を護るように、敵であるフレイ・リベンジに目を向けた。
「ラブシーンですね、人前で堂々と」
ソードバイスがげんなりしたように言う。スピアエルダーは見えていないのでなんのことかわからなかったが、今の言葉からおおよその事態を把握した。
「うらやましいのですか、バイス」
「そんなことはありません、むしろ逆です。ああいうのは秘めるものです」
先ほどまでフレイスピアをどうにかしようと思っていた男の言うことではない。スピアエルダーは肩をすくめた。彼女は早くここから立ち去りたいのである。
しかし、見る間にフレイソードが行動に出た。彼は傷ついたフレイスピアを抱えて、立ち上がったのだ。
まだフレイスピアは息絶えていない。わずかでも、命をつなぐ可能性にかけた彼の、強引な荒業だった。救急車よりも早く駆け抜けて、病院へかつぎこむ。そうしなければならないと彼は思ったのだ。
「フレイ、ソード」
不満げなフレイスピアは小さくそう呻いて抗議している。だが、フレイソードは彼女を下ろしはしない。
「逃げるつもりかな」
無論、目の前でそれを許すほどソードバイスも甘くない。ここは退却すべきだと考えているスピアエルダーとは逆に、彼はここで攻撃をかけるべきだと考えていた。
ソードバイスが駆け出し、剣を向ける。叩き落された剣は、すでに拾いなおしていた。しかし退却していくフレイソードの背中に斬りつけようとする彼の前に立ちはだかるのは、やはりフレイサイズであった。
フレイサイズの鎌を警戒し、ソードバイスは一度足を止めた。後ろから走ってきているスピアエルダーを待つためである。
「二対一なら!」
全員が万全の状態ではない。傷の治りきっていないフレイサイズとソードバイス、目潰しから回復していないスピアエルダー。数の上ではフレイ・リベンジが有利といえた。
スピアエルダーはフレイソードが退却したことを受けて、ソードバイスにしたがっている。数の有利を見たからである。
「押し切ってしまいましょう、この猫を倒せば、恐れる敵はフレイダガー一人だけになります」
「無論」
しかし、二人でかかってこられているにもかかわらず、フレイサイズは鎌を彼らに向けたまま動かない。あくまでも逃走はしないらしい。
それほどに自信があるということかもしれない。
スピアエルダーはそう思った。だが、足は止めない。短くなった槍を突き、敵の胸元を貫こうとする。
「もらった」
ソードバイスも、同時に袈裟懸けの一撃を放っていた。