第八話 波乱・前編
スピアエルダーとサイズウルフが施設に戻ってきたのは夕方になってからだった。あの場から施設に戻るまで、サイズウルフはスピアエルダーの手を握っていた。フレイスピアの目潰しを食らったことで、道を歩くことも難しくなったからである。フレイスピアと同じように索敵能力に優れるスピアエルダーが手をとって、導いてやらねばならなくなったのだ。
施設までたどり着いて、二人はすぐに洗面所に向かって目を洗った。
欲を言えば実験用の蒸留水が欲しいところだが、とにかく目が痛い。そんなものを用意させるような時間が惜しかった。二人でトイレの洗面台に並び、大量の水で両目を洗う。十分すぎるほど水を使って洗い流し、清潔なタオルで拭ったが痛みはひかない。目を開けられなかった。
「まだ痛みますか」
スピアエルダーはタオルを差し出しながら訊ねる。サイズウルフは灰色の体毛を濡らし、目を閉じたまま頷いた。
「この分では二日ほど、痛みはとれないでしょう」
「そうか、まずいな」
タオルを受け取って、顔を拭う。サイズウルフ自身は気付いていないが、拭ったタオルには彼女の体毛がついている。スピアエルダーはそれを予見しているので返されたタオルはそのまま、トイレの隣にある洗濯物入れに放り込んだ。
「迅速に命令を遂行することは、不可能となりました。上層部への報告が必要かと思います」
「わかってる」
「報告は私がしましょう。ウルフ、あなたは休憩室で休んでいてください」
スピアエルダーも視力が回復しているわけではないが、サイズウルフよりは動けると思っていた。そのため、サイズウルフには休息を勧める。少しでも早く、視力を回復してもらう以外にない。サイズウルフはそんなスピアエルダーの言葉に短くぶっきらぼうに答えてはいるが、なされるがままといえる状態だった。
まるでサイズウルフの世話役のように、甲斐甲斐しくスピアエルダーは動く。彼女を休憩室まで引っ張っていき、そこへ座らせておく。自分は引き返し、通信室へと急いだ。
通信室は二階の奥だ。階段を上がり、廊下を歩いていく。その先に、誰かが待ち受けている。
スピアエルダーは何者かの気配を感じ取り、足を止めた。敵ではないが、通信室に入ろうとしている人間に用事があるらしい。
「何か、御用でしょうか」
そう問いかける。待ち伏せていた人物は顔をあげ、こう言った。
「お帰りなさい、スピアエルダー。姐さんが、あなたに用事があるそうです」
「それじゃ、あとで連絡します。ありがとう、バイス」
声で相手が誰かを察したスピアエルダーは、そう応えた。だが、ソードバイスはそこを動かない。通信室の前に立ちふさがったままだ。
「まだ何か?」
「誰かと戦ったのですか」
ソードバイスの問いは、目を閉じたままのスピアエルダーを気遣ったものだった。
「戦いました。何か薬物をかけられて、両目が強く痛みます」
「治療は受けられたのですか、スピアエルダー。失明の危険がある薬品かもしれません」
「そのような危険な薬品ではないと思います。もし心配なら、私よりも同じ薬品を受けたウルフを医務室へ連れて行ってあげてください」
「わかりました」
そう言って、彼はようやくそこをどいた。道が開いたのでスピアエルダーは通信室の扉へ手をかける。
扉を閉じようとしたとき、背後から声がかかった。
「あなたもすぐに、医務室へ行ってください。姐さんへは俺からも言っておきますから」
「ありがとう、バイス」
簡単にそう答えてから、通信室の扉を閉じた。椅子に座り、手探りだが操作しなれた手つきで回線を開く。
報告はすぐに終った。上層部からの指令は特に変更されず、視力が回復次第彼らの追跡と捕獲をするようにとのことだった。回線を閉じ、通信室を出る。
その足で休憩室へ引き返す。通信の結果をサイズウルフに伝えるためだった。しかし、休憩室にいるのはサイズウルフではなさそうである。誰かがいるには違いないが、ウルフではない。
「おかえり」
休憩室にいたのは、アックスツヴァイだった。
「ええ、ただいま。えっと、ウルフを見かけなかった?」
「わんこなら医務室へ行かせたよ、あんたもぐだぐだ言ってないで行ってきたら」
「そうしたいけど、斧子。私に用事があるって?」
スピアエルダーはアックスツヴァイと向かい合うように座った。まだ目は開けられないが、何か紙をめくる音だけは聞こえている。アックスツヴァイは何か本を読んでいるようであった。
「目をやられたんでしょ、せっかく面白いものを見せてあげようと思っていたのに、残念。全く残念きわまるな」
「何を読んでいるの」
「疑問を解消させるモノかな。ちょっとした資料ってやつさ。fs-00からfr-05まで網羅された完全攻略本、公式資料集」
アックスツヴァイは笑っていた。手に持っている資料は持ち出したものではなく、縮小コピーされたものになっている。どうやら彼女自身の手で必要な部分をさらに抜粋されたようで、四束もあった資料は文庫本サイズに圧縮されていた。
「fr-05? fr-05がもう、存在していると」
スピアエルダーは訊ねた。今のところフレイ・リベンジはfr-04アックスツヴァイが最新だったはずである。fr-05の存在は、知らされてもいない。
「研究段階ではあるね」
声を落とし、アックスツヴァイはささやく。
「fs-01フレイダガーのリベンジにあたるんだけど。これまでのfs、fr両シリーズの技術を結集した最後のフレイ・リベンジになるみたい。fr-05フレイマー、ってのがすでにつくられはじめているとか」
「作成まで始まっているわけ」
「おそろしいことにこのフレイマーがfs-00からfr-04までの全ての“実験体”を通した研究の最終目的、らしいんだけど」
「最終目的って」
全ての研究の最終目的、と聞いてスピアエルダーは身を乗り出した。アックスツヴァイが資料室から持ち出し禁止の資料をあさってきたなどとは知らないスピアエルダーは、その話が触れてはいけないものだとは思ってもいない。
「つまり、fs-00フレイソウルを含む全てのフレイシリーズ、そして私たちフレイ・リベンジも、このfr-05フレイマーを作り上げるために生み出されたってこと」
「なるほど、最終的なところはそこになるんだ。我々のしてきたことや、ここの研究員の調査も全て、そのフレイマーという戦士を作り上げるためになされているのだと」
「そう、そういうことなんだよ。それともう一つあんたが知りたそうなことがわかったね」
「何がわかったの、もったいぶらないで」
笑みを消さないアックスツヴァイに、スピアエルダーは少し焦れる。
「フレイシリーズの方々なんだけど」
言いかけたとき、アックスツヴァイの携帯電話が鳴った。着信らしい。話の途中だったのだが、仕方がないとばかりにため息をついて、電話をとる。
「はい、なんですかね?」
かけてきたのは、ソードバイスだった。彼は声をひそめて、こう言ってきた。
「姐さん、警察がやってきました。軽い事情聴取だと言っていますが、いつ令状をもってやってくるかわかりません」
「警察? 一体何の用事で」
思わず訊き返す、今まで警察などに目をつけられたことはない。家宅捜索ではないらしいが、いずれはそうなるかもしれない。そうなれば、全てが露見してしまう。
「脱税容疑でないことは確実です。あるいは、フレイダガーたちがそのようにしたのかも」
「上層部は?」
「連絡はありません。こちらから指示をあおいだほうがいいかもしれません」
「ああ、そう。そうかもしれないね」
なんとか落ち着く。アックスツヴァイは通話を終えた。今玄関にいるであろう警察に対処するのは、研究員たちに任せればいい。
どうするべきか、少し考えてみる。いくつか対処法はある。
「斧子、警察がきたって?」
「らしいよ、今のところ令状は持ってないから踏み込んでは来てないけど。どうするかちょっと考えないといけないね」
スピアエルダーの言葉に応じて、軽く説明した。アックスツヴァイは二人で今後のことを考えるべきだと思う。
fr-04アックスツヴァイにとって、この施設の中にあるもので一番大切なものといえば何をおいてもまずfr-03なのである。スピアエルダーこそ、自分に一番必要なものだと考えている。植えつけられた記憶と経験、作り物の身体、そうした共通点があり、話が合う相手なのだ。何かがこの施設に起これば、まず護らねばならないものは自分の命、その次にスピアエルダーの命だ。そのスピアエルダーはといえば自分のことをそれほど大切に思ってはいないらしいが、そこはご愛嬌というものだ。彼女には彼女の事情があろう。
「玄関に、警察が来てる。ってことは多分、裏口や非常口も固められてると思うな、私は」
スピアエルダーは両目を閉じたままそう言った。それは恐らく当たっている。つまり裏口からこっそり逃げ出すという選択肢はここで潰える。
だが選択肢はまだたくさんある。
「ここにじっとしていたらどうなるのかな」
「サイズウルフを発見されたら、言い逃れができなくなるよ。『ああいったもの』を造っているということが公になると、施設は解散させられるかな」
「じゃあ、だめだね」
やはり何か対策をとらねばならないらしい。サイズウルフ、スピアエルダー、ソードバイスはそれぞれ万全とは言い難い状態だ。何か行動を起こそうというのならば、自分がせねばならないだろう。fr-04アックスツヴァイが。
部屋の中にはフレイアックスとフレイサイズがいる。二人きりだった。
フレイサイズが、新堂のいないときでもじっとしていられるのは、フレイアックスのおかげだった。狼と猫という組み合わせだったが、不思議にフレイサイズはフレイアックスの言うこともよく聞いた。
「新堂は必ず明日までには戻ってくるから、大人しくするように」
という彼の一言により、わがままな猫は部屋の隅に座って、新堂を待つことになったのである。フレイサイズはフレイアックスに同族のにおいを感じ取っていたのかもしれない。多分二度と、人間として世に出ることができない者としての。
しかし念のため、フレイアックスは部屋に残っている。フレイサイズの監視役である。
彼に猫の世話を任せて、新堂とフレイソードは情報収集と作戦行動のために外へ出ていった。
フレイスピアはといえば、先ほどからずっとバスルームにこもっている。カラーボールをぶつけられたので、なんとかにおいや色をこそぎ落としてしまおうと必死になって足を洗っているのだ。
風呂に入りだしてからもう三十分、四十分になろうかとしている。
香りの強い石鹸でかなり念入りに洗ったが、それでもにおいは完全に落ちたとはいえない。そうたやすく落ちるようなものであっては実際に強盗や盗賊へぶつけたときに困るだろうが、今の自分としてはいい迷惑である。フレイスピアは湯船に肩までつかって、自分の右足を眺めていた。とはいえ、もやがかかったように見えない。
水彩マーカーで描いた絵に雨があたったようだ。視界全てが滲んで、見えない。視力の低下はフレイスピア自身が思うよりも早く進行している。あと一ヶ月はもつかと思っていたが、この調子ではあと一週間ももたない。視界は間もなく、白一色になってしまい、二度と色を取り戻さないだろう。
しかし、今の自分はカラーボールでマーキングされたような状態である。数日は出歩けない。迂闊に出歩けば、サイズウルフの嗅覚によって居場所を容易く感知されてしまう、かもしれない。スピアエルダーはそれを見越してカラーボールをぶつけにきたに違いないのである。
ただでさえ時間がないというのに、数日も出歩けないとは。
フレイスピアは湯船からあがった。これ以上お風呂の中で考え事をしていても仕方がないと思える。バスタオルをとって、身体を拭う。着替えて部屋へ戻ってみると、フレイサイズとフレイアックスが顔を寄せ合って何かしている。
あの二人に限って、何か間違いが起こるはずはない。そう思っていたのだが、これこそが誤りだったか。フレイスピアは怪訝な表情で二人に近寄ってみるのだが、よく見えない。
「フレイアックス、何をなさっているのですか?」
そう呼びかけてみると、フレイアックスはすぐに振り返った。フレイサイズもこちらを見上げる。二人とも無表情に近いので怖いものがあった。
「退屈だから、遊んでいた」
素っ気無い返答がフレイアックスから発せられる。何の遊びをしていたのか気になるが、フレイスピアはそこまで突っ込んで訊けない。それを察したのか、フレイアックスは立ち上がりながらこう言った。
「じゃんけんだ、ただの。教えたら、しきりにそればかりやりたがる。代わってくれ」
そう言われてフレイサイズを見てみると、何か期待する目でこちらを見ている。見えない目にもそれがわかってしまった。
フレイスピアは、濡れた髪もそのままにフレイサイズの前に座る。仕方がないという気分だった。右手を差し出すフレイサイズに、こちらも右手を出す。
「じゃんけん、ほい」
何気なくパーを出してみる。フレイサイズはグーだった。
勝ったが、だからどうというわけでもない。フレイサイズは一応自分が負けだということは理解しているらしく、次の勝負をねだるように右手を上下に振っている。無表情に見えて、悔しいのかもしれない。
何となく、面白い。フレイスピアの口元が緩んだ。
「考えてみたら、施設ではこういうのは教えてくれないでしょうしね。フレイサイズ、気が済むまで付き合ってあげます。じゃんけん、ほい」
今度はフレイサイズがチョキを出している。先ほどと同じようにパーを出したので、フレイスピアは負けとなる。
フレイサイズは勝っても、すぐに次の勝負をねだった。フレイスピアはそれに応じて、じゃんけんを続ける。何度か勝ち負けが続いたところで、フレイスピアはフレイサイズの学習能力が意外と高いことに気がついた。
命令を聞いて、大体わかるような子なのだ。じゃんけんくらい理解できて当然かもしれない。
フレイスピアは、じゃんけんを中断した。この子に何かを教えたい、と思う。ひらがなくらい読めるように、何とか学習させられないだろうか。そう思いながら、フレイスピアはフレイサイズの頭を撫でた。
「フレイサイズ、新しい遊びを教えてあげます」
大きな猫は頷き、フレイスピアを見上げた。
『あっち向いてホイ』を教えること二十分、猫はようやくルールを理解した。根気よく教えたフレイスピアはフレイサイズがルールを覚えたことにほっとした。やはり、しっかり教えてやれば覚えるのだ。ある程度命令に従うのも、施設が繰り返し教えたことを覚えたからだと思われる。
しかし、本当の苦労はそこからだった。新しい遊びを覚えた猫は遊び相手を解放せず、フレイスピアはそれから四十分にわたって『あっち向いてホイ』をさせられることになったのである。フレイスピアは教えたことを後悔したが、遊びを放棄することはしない。求めるだけ、フレイサイズが気の済むまで、遊び相手を務めた。
「お疲れ様」
三連勝を決めて満足したらしいフレイサイズから解放され、お茶を飲むフレイスピアに声がかかる。ずっとテレビを観ていたフレイアックスだった。今テレビは子供向け教育番組を映しており、フレイサイズはそれを眺めている。
「フレイアックス、どうして彼女にじゃんけんなんか教えたのです」
「あの子は、馬鹿じゃない。俺たちが思うよりずっと、周りを見ている。状況を知っている」
フレイスピアの質問に、フレイアックスは変則的な返答をした。
「それとじゃんけんにどういう関係があります?」
「覚えられる。学習能力がある。それを有効活用させてやった」
「次は、字を教えてあげられませんか。ひらがなだけでもいいんです」
「時間がかかる。あんたの目がダメになる方が、早い」
素っ気無くそう言ったフレイアックスであるが、その言葉はフレイスピアの心を射抜いた。新堂にも、はっきりと話してはいないのだ、そのことは。
「なぜ私の目のことがわかるのです」
「視神経が死んでいる。手の施しようが無い」
「大丈夫ですよ。私は人の気配に敏感にできていますから。目が見えても見えなくても、戦闘においてはさほど変わらないと思っていただいて構いません」
質問にまともに答えないフレイアックスにそう告げる。フレイアックスは冷たく応えた。
「あまり自分を偽らない方がいい」
フレイスピアは、一度目を閉じる。静かに深呼吸をしてから目を開き、自分の両手を見た。手を開いているか、閉じているかはわかる。なんとか。
「明日には、じゃんけんができなくなっているかもしれませんね」
自嘲ではなく、ただの事実だった。その言葉にフレイアックスは答えない。
フレイスピアは膝を抱えるようにして座り直した。自分の右足を見下ろす。香水をかけているが、それでもやはりサイズウルフや犬には嗅ぎ分けられてしまうのだろう。これが消えるまで数日。
座して待つのか。それとも、覚悟の上で外へ出るのか。
そう考えたとき、ふとフレイスピアの頭にひらめきが落ちた。
「いいこと、思いつきました」
額に手をやり、考えをまとめる。もしかしたら、敵の裏をかけるかもしれない。が、すぐにその思考はフレイアックスの言葉にさえぎられる。
「自分を餌にして敵を陽動しようという作戦なら、賛成しない」
「危険だからですか?」
フレイアックスを横目に、そう訊ねた。まさにそのとおりの考えだったからだ。
「裏の裏をかかれる可能性があるからだ。新堂たちが帰ってくるのを待て。彼らも何か作戦を練っていた」
「そうですか」
ふたたび膝を抱えて、フレイスピアは教育番組を観ているフレイサイズを見た。メイド服を着た大きな猫はいつもの通りの無表情でテレビ画面を観ている。その姿も、あと数日で永久に見ることはできなくなるだろう。
フレイスピアは、ぴくぴく動くその耳や尻尾もよく観察した。忘れないようにしなければと思ったからだ。新堂が帰ってきたら、彼の顔もよく見ておかなければならないだろう。ついでに、フレイソードも。
それから数分後に、新堂とフレイソードは戻ってきた。