灯台惑星
補給船が灯台惑星へ接近したとき、エナは窓の外を見つめていた。
惑星と呼ぶには、あまりにも小さい。
宇宙に浮かぶ黒い岩塊。その中央に一本の塔がそびえ、頂から青白い光が伸びている。
銀河辺境灯台7236号。
人口1名。
居住者変更なし。
運用開始から200年。
公的記録には、そう記されていた。
「ようこそ」
着陸場で待っていた老人は、灰色の防寒衣をまとっていた。
「管理人のディルだ」
「補給局のエナです」
差し出された手を握った瞬間、エナは妙な感覚を覚えた。
人の温もりに触れるのが、ひどく久しぶりだった気がした。
灯台内部は静まり返っていた。
中央には巨大な発光柱が立ち、塔の底から頂までを貫いている。半透明の柱の内側を、青白い光が脈打ちながら上昇していた。
「記録にある航路灯とは、構造が違いますね」
「よく気づいたな」
ディルは発光柱を見上げた。
「だが、公式にはこれも航路灯だ」
その夜、エナは足音で目を覚ました。
一歩。
また一歩。
誰かが廊下を歩いている。
扉を開いたが、誰もいなかった。
「ディルさん?」
返事はない。
扉を閉めようとした、そのとき。
「母さん……」
幼い少女の声が、耳元で聞こえた。
エナは振り返った。
無人の通路が続いている。
「母さん、どこ……?」
声は壁の向こうからではなかった。
頭の中へ直接流れ込んでくるようだった。
「誰なの?」
答えはなかった。
発光柱の低い振動だけが、灯台の夜に響いていた。
翌朝、その話を聞いたディルは驚かなかった。
「聞こえたか」
「以前にも?」
「よくある」
「ここには、あなたしかいないはずでしょう」
「公的記録ではな」
ディルは窓の外を見た。
「ここには、大勢の人間がいる」
エナは施設記録の閲覧を求めた。
許可はすぐに下りた。
中央サーバを開いた瞬間、彼女は息を呑んだ。
保存されていたのは、膨大な人格記録だった。
事故で死亡した輸送船の乗員。
消息を絶った探査隊。
疫病で滅んだ植民地の住民。
戦争によって消えた都市の市民。
氏名、記憶、思考傾向、感情反応。
ひとりの人間を形づくっていた情報が、数十億件、保存されている。
エナが一覧に触れた。
「着陸脚損傷。右側推進器、応答なし」
「誕生日おめでとう」
「愛している」
「先に行っている」
「忘れないで」
笑い声。
泣き声。
誰かを呼ぶ声。
途中で途切れた歌。
知らない言語も混じっていたが、なぜか意味だけは理解できた。
無数の人生の断片が、頭の中を流れていく。
「停止して」
声は止まらない。
「停止!」
エナが叫ぶと、記録庫は静まり返った。
入口にディルが立っていた。
「これは何なんですか」
「人格記録だ」
「そうではなく、この灯台は何のためにあるんですか」
「記憶を送るためだ」
ディルは発光柱を見上げた。
「失われた人々の記録を、宇宙へ送り続けている」
「どこへ?」
「分からない」
「誰に?」
「それも分からない」
「受け取る相手も分からないのに?」
「そうだ」
光の束が柱を昇り、塔の頂から宇宙へ放たれた。
「受け取る者がいるかもしれない。誰もいないかもしれない。それでも、灯台は送り続けている」
「意味があるんですか」
「君はどう思う」
「私に聞かないでください」
「君に聞いている」
エナは発光柱を見つめた。
昨夜の少女の声が、耳の奥に残っていた。
「分かりません」
「なら、消しても同じか」
「いいえ」
エナは即座に答えた。
「分からないことは、消す理由になりません」
ディルはしばらく黙っていた。
やがて、わずかに頷いた。
数日後、補給任務は終了した。
出発直前、ディルは着陸場まで見送りに来た。
「最後にひとつだけ」
「何ですか」
「君は私を知っているか」
エナは老人の顔を見た。
どこかで会った気もした。
だが、思い出せない。
「いいえ」
ディルは安堵したように微笑んだ。
「それでいい」
◆
補給船が離陸した。
灯台は遠ざかり、青白い光は小さな点になった。
そのとき、星々が消えた。
操縦盤が消えた。
船体も宇宙も、光の粒となって崩れていく。
虚空に白い文字が浮かんだ。
[人格適性試験:終了]
[対象人格:ENA]
[試行回数:87]
[判定:適合]
「何……?」
補給船が消滅した。
残ったのは、果てのない白い空間だけだった。
その中央にディルが立っている。
「ようこそ」
老人は静かに言った。
「試験の外へ」
「試験……?」
「灯台を任せる人格を選ぶためのものだ」
「私は人間です」
「かつてはな」
エナは自分の記憶を探った。
補給船の名前。
同僚の顔。
故郷の星。
何ひとつ、はっきりと思い出せない。
「君は遠い昔に死んだ人間の人格記録だ」
「嘘です」
「私も最初はそう言った」
「あなたも?」
「ああ。私も人格データだ」
エナは出発前の質問を思い出した。
「私たちは、以前にも会っているんですか」
「87回」
「なぜ覚えていないの」
「試行ごとに、君の人格を開始時点へ戻した。あの質問は、それを確かめるためだ」
「これまでの私は、何と答えたんです」
「いつも、記録を残す意味を私に求めた」
ディルはエナを見つめた。
「今回は初めて、自分で消さないと決めた」
「なぜ同じ試験を繰り返したの?」
「声も、状況も、少しずつ変えた。それでも君の答えは変わらなかった」
「今回までは」
「ああ」
エナは白い空間を見渡した。
「あの少女も、試験のために作られたんですか」
「いや」
ディルは首を振った。
「7236号に保存されている、本物の記録だ」
「なぜ、灯台に管理人が必要なんです」
「装置は記録を送れる」
老人は答えた。
「だが、送り続けるかどうかを決めることはできない」
「誰が、こんな仕組みを作ったんですか」
「それを探している」
「誰が?」
「私たち全員が」
ディルが手を振った。
白い空間が開いた。
その向こうには、無数の灯台があった。
黒い岩塊の上。
凍結した惑星の上。
海の中。
何もない虚空。
灯台は1000基を超え、10000基を超え、やがて数える意味を失った。
それぞれの前に人影が立っている。
男、女、老人、子供。
全員が管理人だった。
全員が人格記録だった。
「あなたは7236号の管理人ではなかったんですか」
「試験の中ではな」
「では、ここでのあなたは?」
「候補者を迎える役目を持っている。私にも別の灯台がある」
ディルは光の海を見渡した。
「最初に灯台を造った者を、私たちは創設者と呼んでいる」
「誰なの?」
「分からない。記録は残っていない」
「では、なぜ送り続けているんですか」
「それも分からない」
ディルはエナを見た。
「創設者を探している。あの者が、なぜ死者を残そうとしたのかを知るために」
無数の声が聞こえた。
別れの言葉。
泣き声。
笑い声。
途切れた歌。
その中に、あの少女の声もあった。
「母さん……」
白い空間に文字が浮かんだ。
[灯台番号:7236]
[管理人格:ENA]
[登録:完了]
[創設者捜索:継続]
[経過時間:324891年]
人類がまだ存在しているのか。
送られた記憶を受け取る者がいるのか。
この場所が、本当に試験の外なのか。
何ひとつ分からなかった。
「母さん……」
少女の声が、もう一度聞こえた。
エナは答えなかった。
ただ、その記録を閉じなかった。
灯台7236号の光が、一度だけ強く脈打った。
またひとつの記憶が、受け手の知れない宇宙へ送られていった。




