「君の瞳は嘘を見抜けない」と婚約破棄された治癒師ですが、転生前は心電図を読む臨床検査技師でした
「君の『琥珀眼』は欠陥品だ」
王立治療院の大広間に、第二王子ロイドの声が朗々と響いた。
「聖女リリアの心は清らかだと、その瞳は映せなかったのだからな」
大理石の床に、居並ぶ治癒師たちの視線が突き刺さる。私は——アンバーは、診断台の前に立ったまま、その光景を眺めていた。
(脈拍、毎分百二十。声の張り上げ方からして交感神経が優位……興奮性の頻脈ね。要するに、気持ちよくなって喋ってる)
王子の隣には、聖女リリア。波打つ金髪、潤んだ碧眼。儚げに目を伏せ、まるで自分が傷つけられた被害者のような顔をしている。
だが、私の琥珀眼には見えていた。
彼女の胸の奥で打つ鼓動が——どす黒く濁った琥珀色のグラデーションで、ぐにゃりと歪んでいるのが。
(やっぱり、今日も濁ってる。この人の心音だけ、人前と裏で別人みたいに変わる。普通こんな波形は出ない)
「アンバー。お前は嫉妬で同性を貶める偽治癒師だ」
ロイドが断じた。
「リリアの心音だけを『濁っている』と診断し続けた。聖女を、汚れた者だと言い続けた。許されることではない」
ざわり、と広間が揺れる。
私は前世——日本で心電図と心音図を何万件と読んできた臨床検査技師、琥珀だった。交通事故で死んで、この世界に転生した。
だからこそ分かる。心音は、嘘をつかない。
どれだけ表情を取り繕おうと、鼓動だけは本心を白状する。
(だから言ったんだけどなあ。この人の心臓、何か変ですよって。診断結果を改ざんしろなんて、私の職業倫理が許さない)
リリアが、そっと目元を拭った。
「……わたくし、ただ正直に診ていただきたかっただけですのに。どうして、こんな……」
(はいはい、人前モードの清らかな心音。さっきまでとは別人の波形。器用なものね)
「何か申し開きはあるか」
ロイドが顎を上げる。涙ぐむリリアの肩を、いたわるように抱き寄せながら。
私は、静かに息を吸った。
そして——深く、頭を下げた。
「分かりました。では、辞めさせていただきます」
一瞬、広間が静まり返った。
「……は? それだけか。喚かないのか、泣き縋らないのか」
ロイドが拍子抜けした顔をする。
「給料分の仕事はしました。正直に診断もしました。これ以上ここにいる理由がありません」
私は白衣に似た制服の裾を払い、淡々と踵を返した。
背後で、リリアの心音が——勝ち誇るように、ぐにゃりと色を変えたのが視界の端に映った。
(その勝ち誇った濁り方……覚えておきましょう。あなたのその心音)
私は振り返らず、大広間の扉を押し開けた。
この追放が、誰の墓穴を掘ることになるのか。
この時はまだ、誰も知らない。
◇
冒険者ギルドの登録窓口で、私は淡々と書類を書いていた。
「治癒師ねえ。しかも元・治療院の。……アンタ、もしかして例の『偽治癒師』さん?」
受付係が探るような目を向けてくる。噂は早い。
「ご存じで? 嫉妬で聖女を貶めた、欠陥品の琥珀眼の持ち主ですよ、私」
私が表情も変えずに答えると、横から豪快な笑い声が割り込んできた。
「はっ! 偽治癒師なんて噂、誰が信じるかよ」
振り返ると、短く刈り込んだ黒髪の青年剣士が、人懐っこい笑顔で立っていた。
「俺はノエル。パーティ組まないか? 治癒師が一人欲しかったとこなんだ」
(脈拍は安定、心音もまっすぐ。……この人、嘘がない。珍しい)
「いいんですか。欠陥品ですよ」
「結果で見るさ。噂じゃなくてな」
こうして私は、ノエルのパーティに加わった。
初めての討伐——森に巣食う大狼型の魔物。ノエルたちが身構える中、私は琥珀眼を凝らした。
(魔物にも心臓がある。なら、リズムが乱れる瞬間がある)
獣の胸で打つ鼓動。攻撃の直前、必ず一拍——心音が大きく跳ねる。
「ノエル! 左前脚を踏み込んだ次の瞬間、心拍が跳ねます。そこが隙です。三、二——今っ!」
ノエルの剣が、寸分違わず魔物の喉を貫いた。
「……マジか。ど真ん中だ」
剣を引き抜きながら、ノエルが呆然と呟く。
「アンバーが乱れるって言ったら、そこが弱点だ。理屈は分からんが、当たるんだから従う」
それから、私たちのパーティは連戦連勝だった。
心音を読む。それだけで、魔物の動きが手に取るように分かる。
治療院が見捨てた能力は、戦場でこそ輝いた。
(皮肉なものね。あそこで『欠陥品』扱いされた瞳が、今は誰よりも頼られてる)
ひと月も経たぬうちに、私は高ランク治癒師として名を上げていた。
そしてある日、ギルドに一通の依頼が舞い込む。
竜人将軍ガイ——『無慈悲な紅竜』からの、直々の指名依頼だった。
◇
「貴様が、噂の治癒師か」
低く重い声が、地を這うように響いた。
身の丈二メートル近い偉丈夫。首筋と腕に燃えるような紅鱗が走り、岩のような筋肉が鎧を押し上げている。鋭い眼光がぎろりと私を射抜いた。
竜人将軍ガイ。戦場で『無慈悲な紅竜』と恐れられる男。
部下の冒険者たちが、明らかに怯えて後ずさっている。
「依頼内容を確認します。負傷兵の治療と——……ぶっ」
思わず、吹き出してしまった。
「な、何がおかしい!」
ガイが声を荒げる。だが、私の瞳には見えていた。
鋼のような無表情の裏で——彼の心音が、滝のように優しい琥珀色で、激しく乱れ打っているのが。
(これは……心配性の動悸だ。それも、かなりの。初対面の私を威圧して怖がらせてないか、不安がってる……?)
「将軍。あなた……顔と心拍が一致してませんね」
ガイの巨体が、びくりと跳ねた。
「な……っ、何を、根拠もなく——」
「今、毎分百十。完全に動揺の波形です。怖い顔を作ってますけど、心臓は『嫌われたくない』って大慌てしてますよ」
みるみるうちに、ガイの紅鱗が——いや、耳まで、真っ赤に染まっていく。
「ち、違う! 俺は無慈悲な紅竜だ! 心配などっ……」
その時、奥から運ばれてきた負傷兵を見るなり、ガイは言葉を切った。
「——お、おい、しっかりしろ! この程度のかすり傷で死ぬんじゃないぞ! 頼むから……っ」
そして、ぼろぼろと、涙をこぼし始めた。
強面のまま。岩のような顔のまま。滝のように泣いている。
(……うわ。本物のポンコツだ、この人。強面のまま号泣してる)
「将軍。傷は浅いです。心音も安定してます。死にません」
「ほ、本当か……っ、よかった……ぐすっ」
豪傑の号泣を前に、周りの兵たちは慣れた様子で頷いている。どうやら、いつものことらしい。
私は、思わず微笑んでいた。
(こういう人なら、信じられるかもしれない。少なくとも、心音は——嘘をついてない)
この不器用な竜人将軍が、後に私の運命を大きく変えることになるとは。
まだ、知る由もなかった。
◇
王都に、異変が広がっていた。
『心臓が止まる呪い』——原因不明の病が蔓延し、人々が次々と倒れていく。
そして、その治療を一手に引き受けているのが、聖女リリアだった。
「聖女様のおかげで、いくつもの命が救われている」
街の噂は、リリア礼賛で持ちきりだ。
だが——おかしい。
ガイが、険しい顔で私の元を訪れた。
「アンバー。妙なんだ。聖女が治療した患者ほど、後で悪化している。死者も増える一方だ。だが誰も、聖女を疑わん」
「……依頼ですね」
「ああ。お前の瞳でなければ、見抜けん気がする」
私は、リリアが治療した患者の一人を診せてもらった。
ベッドに横たわる男の胸に、琥珀眼を凝らす。
そして——ぞわりと、背筋が冷えた。
(この心音……濁ってる。誰かに、生命力を吸い取られたみたいに、本来の色が抜けてる。この濁り方、知ってる)
かつて、王立治療院で何度も見た、あの——
「リリアの心音と、同じ」
思わず口に出していた。
「どういうことだ?」ガイが身を乗り出す。
「禁術です。おそらく『心音喰らい』。他人の心音——生命のリズムそのものを盗んで弱らせ、自分の力に変える術。患者の心臓が止まるのは、呪いじゃない。吸われてるんです」
ガイの顔が、怒りで強張る。
「では、呪いの元凶は——」
「ええ」私は静かに頷いた。「治療しているふりをして、患者から心音を喰らい続けている張本人。聖女リリア——彼女こそが、すべての元凶です」
(追放されたあの日。あの人の心音は、勝ち誇って濁ってた。私を消せたことが嬉しかった。……邪魔だったんでしょうね。心音を読める私が)
「証拠は」ガイが問う。
「あります。絶対に、偽れないものが。心音は、嘘をつけません。彼女自身の鼓動が——全部、白状します」
そして、私は告げた。
「公開診断の場を設けてくれますか、将軍。聖女リリアと、第二王子ロイドの前で」
ガイの口の端が、獰猛に吊り上がった。
「無慈悲な紅竜の名にかけて、整えてやる」
◇
ギルド大広間。公開診断の場には、王都の重鎮、聖女リリア、そして第二王子ロイドが集っていた。
「公開診断ですって? 偽治癒師が、今さら何を」
リリアが儚げに微笑む。だがその胸の鼓動は——人前用に、清らかな色を必死に取り繕っていた。
「アンバー。お前のような追放者が、聖女を貶める茶番か」
ロイドが吐き捨てる。相変わらず、何も見抜けていない。
(脈拍九十。苛立ちと優越感。この人の心音、追放の日から何も変わってない)
私は前に進み出て、琥珀眼を全開にした。
瞳から放たれた琥珀色の光が、広間の中央に、心音の波形を巨大に投影する。
「これは、呪いに倒れた患者たちの心音です」
投影された波形は、どれも濁り、力なく沈んでいた。
「生命のリズムを、何者かに吸い取られている。呪いではありません。禁術『心音喰らい』による、人為的な殺人です」
ざわめきが広がる。
「では——」私はリリアに向き直った。「聖女様。あなたの心音も、投影させていただきます」
リリアの表情が、初めて凍りついた。
「な、何を……わたくしは聖女ですよ。やましいことなど——」
「では、断れない理由はありませんね」
私の瞳が、リリアの鼓動を捉える。
投影された波形は——患者たちと、寸分違わぬ、どす黒い濁り。
そして、人前用の「清らかな心音」の下に隠された、もう一つの——盗んだ生命を貪る、醜く歪んだ波形。
「あっ……」
広間が、どよめいた。
「ご覧の通りです。聖女リリアの心音は、患者たちと同じ濁った色。彼女は治療していたのではない。喰らっていた。患者の心音を盗み、自分の力に変えて、聖女の名声を高めていたんです」
「で、でたらめよ! そんな術、わたくしは……っ」
リリアが叫ぶ。だが、その瞬間。
投影された彼女の心音が、ばくんと跳ね上がり、真っ黒に濁った。
「今、洞性頻脈です。それも極めつけの。嘘をつくと、人の心臓はこう乱れる」
私は、淡々と告げた。
「心音は嘘をつけません。あなたの鼓動が——全部、白状しています」
リリアの顔が、ぐにゃりと崩れた。
聖女の仮面が、剥がれ落ちる。
「……っ、なんで、なんでよ! あの瞳さえ消せば、誰にもバレないはずだったのに! だから王子をそそのかして、お前を追放させたのにっ!」
自白だった。
衛兵たちが、一斉にリリアを取り囲む。
「リ、リリア……? お前、操って……?」
ロイドが、青ざめて立ち尽くしていた。
(ようやく気づきましたか。一番、遅い人が)
◇
聖女リリアは、その場で捕縛された。
禁術『心音喰らい』による連続殺人と、王子をそそのかしての治癒師追放。罪状は、言い逃れようのないものだった。
そして——彼女に操られていたとはいえ、公衆の面前で無実の婚約者を貶めた第二王子ロイドにも、裁きが下る。
「ロイド。お前の王位継承権を剥奪する」
国王の宣告に、ロイドはがっくりと膝をついた。
そして、私を見上げた。
「アンバー……俺は、間違っていた。お前の診断こそ、唯一本物だったんだ。失ってから、気づいた……」
(脈拍が乱れてる。後悔の波形ね。……でも、もう遅い)
「ロイド様。あの日、私はあなたに言いましたよね。『何か変です』と」
「……っ」
「あなたは、それを聞かなかった。見た目だけで人を信じ、心の声を——心音を、聞こうとしなかった」
ロイドが、言葉を失う。
「失ってから気づくのは、いつだって遅すぎるんです」
私は深く、頭を下げた。あの追放の日と、同じように。
「では、これで失礼します」
今度こそ、振り返らずに。
崩れ落ちる愚者を背に、私は陽の差す広間の外へと歩き出した。
静かに。しかし、完膚なきまでに。
ざまぁは、成立した。
外では、ガイが待っていた。
「終わったか」
「ええ。すべて」
その時、彼の心音が——ふいに、激しく乱れ打ったのが見えた。
優しい琥珀色が、滝のように。
(あら? 急に心音が激しく乱れ打って……これは何の動悸でしょうね、将軍)
私は、少しだけ意地悪に微笑んだ。
◇
呪いに倒れた患者たちは、リリアの術が断たれたことで、次々と回復していった。
ガイと私は、王国を救った英雄として称えられた。
だが——本人は、それどころではないらしい。
王城の庭園。月明かりの下、巨躯の竜人将軍が、岩のような顔をして、なぜか直立不動で立っていた。
「アンバー。話がある」
「はい」
(脈拍百三十。完全に動揺の波形。心音、滝みたいに乱れてる。……これはもう)
「俺は……無慈悲な紅竜と呼ばれる男だ。戦場では恐れられ、部下にも厳しく……っ」
「将軍。それ、自己紹介ですか?」
「ち、違う! 黙って聞け!」
ガイが真っ赤になって叫ぶ。それでも、必死に言葉を絞り出す。
「お前は……俺の本心を、唯一見抜いてくれた。鋼の顔の裏を、見てくれた、たった一人で……だから、その……」
そこで言葉に詰まる。岩のような顔が、苦悶に歪む。まるで怒っているかのように。
だが私の瞳には見えていた。
彼の心音が——今までで一番、激しく、優しく、琥珀色に波打っているのが。
(……ああ、なるほど)
「け、結婚を、前提に……俺と、その、ずっと一緒に……っ、いてくれないか!」
怒鳴るように、求婚の言葉が放たれた。
顔は鬼の形相。声は地を這う威圧。
だけど、心音だけは——震えるほど、優しかった。
(ああ。やっぱり、この人の心臓は嘘をつかない)
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「将軍。今、あなたの心拍——」
「言うな! 分かってる! 動揺してるんだろう!」
「いいえ」
私は、微笑んだ。
本物の——心からの、笑みで。
「ええ。その心拍なら——信じられます」
ガイの巨体が、固まった。
そして、ぼろぼろと、涙をこぼし始めた。
「うっ……ぐすっ……よ、よかった……っ」
「……泣くのが早いです、将軍」
月明かりの庭園で、号泣する紅竜の将軍と、それを呆れたように見上げる治癒師。
心音は、嘘をつかない。
だから私は、この人を信じられる。
それだけで、もう十分だった。
◇
結婚式の準備に追われる中——ある日、ギルドに一通の報せが届いた。
「アンバー。妙な依頼だ」
ノエルが、首をかしげながら書状を差し出す。
「隣国からだ。なんでも……王が、おかしいんだとさ」
私は書状を受け取り、文面に目を走らせた。
そして、眉をひそめた。
「……どういうことです、これ。『隣国の王が、心音を持たない』?」
「分からん。だが、隣国の宮廷医も匙を投げて、お前を名指しだ。『心音を視る瞳を持つ治癒師を』ってな」
(心音を、持たない?)
生きている人間に、心音がないはずがない。心臓が動いていれば、必ずリズムは刻まれる。前世でも、今世でも、それは絶対の理だった。
なのに——心音が、ない。
(あり得ない。……いえ。あり得ないものを視るために、私のこの瞳があるのかもしれない)
背筋に、わずかな寒気が走る。
隣で、ガイが心配そうに——いや、いつもの怖い顔で、私を見ていた。その心音は、案の定、不安げに乱れている。
「行くのか、アンバー」
「ええ。心音を持たない王、なんて。気になって眠れません。職業病ですので」
「俺も行くぞ。お前一人で行かせるか」
「将軍が泣いて足を引っ張らないなら」
「泣かん!」
(また脈拍上がってる。……はいはい)
心音は、嘘をつかない。
ならば——心音を持たない王の胸には、いったい何が隠されているのか。
私の琥珀眼が、次に映し出すものは。
それは、まだ——誰も知らない。
(さあ。次の患者を、診に行きましょうか)




