退職した令嬢は、隣国の冷徹王太子に終身雇用されました
王宮の晩餐会。
必要以上に煌びやかなシャンデリアの光が、私の手にあるぬるくなったシャンパンの気泡を、白々しく照らし出していた。
甘ったるい香水の香りと、ドレスの裾を翻す貴族たちの囁き。
熱気と虚飾に満ちたその空間の中央で、私の婚約者――第一王子ジュリアンが、声高に宣言した。
「アリシア・フォン・グレンヴィル! 本日ただ今をもって、貴様との婚約を破棄する!」
一瞬で静まり返る会場。
グラスを持つ手を止めた紳士淑女たちの視線が、一斉に私へと集まった。
「魔力もなく、華やかさの欠片もない“可愛げのない女”は、我が国の王妃には相応しくない!」
王子の隣では、金糸の髪をゆるく巻いた男爵令嬢エリアナが涼しい顔で立っていた。
典型的な「聖女(自称)」の微笑み。
絵に描いたような“今だけ勝ち組”の顔だった。
私は静かにシャンパンを置くふりをしながら、指先でペンを握りたくなる衝動を必死に抑える。
――なるほど、これが「解雇通知」ってやつね。
深呼吸一つ。
頭の中では、冷静な損益計算がすでに完了していた。
婚約破棄による社会的損失:ゼロ。
むしろ、精神的コストの削減効果は絶大。
この案件、完全に“撤退の好機”である。
なにせ私には、前世で広告代理店に勤めていた社畜OLとしての記憶があるのだ。
あの地獄のようなプレゼン修羅場をくぐり抜けた私にとって、これくらいの人間関係トラブルは「週一の炎上ミーティング」に等しい。
「ジュリアン殿下。そのご決断――二度と撤回なさいませんね?」
「ふんっ、誰が貴様のような地味で気難しい女を戻すか! 代わりならいくらでもいる!」
ああ、デジャヴ。
それは前世の上司が、私に退職届を叩きつけられたときに吐いたセリフと、一字一句同じだった。
私は、ドレスの隠しポケットから厚みのある魔導封筒を取り出す。
その重み、約三センチ。
つまり、三年分の仕事の証明書だ。
「ではこちら――“引き継ぎ資料”です。暗号化された裏予算リストおよび、殿下が無断で進めた公共事業が三ヶ月後に資金ショートするという予測データを添付しております」
「な、なにっ!?」
「……理解できるかどうかは、知りませんけれど。」
ジュリアンの顔から血の気が引いた。
会場に広がるざわめきを背に、私は微笑みながら一礼する。
「“可愛げのない女”は、本日をもってこのブラックな婚約を退職いたします。どうぞ、ご武運を。」
踵を返して歩き去るとき、ドレスの裾が軽やかに弧を描いた。
その瞬間、私の胸の奥で、何かが「終わった」のを確かに感じた。
テラスに出ると、夜風が熱い頬を冷たく撫でた。
誰もいないのを確認してから、私は空へ向かって両手を広げ、叫んだ。
「っしゃあああああああ!! 自由だーーーーー!! 有給休暇スローライフ開始ぃぃ!!」
広背筋が震える。
社畜として培われたガッツポーズの体幹は伊達じゃない。
それは無機質なAIポエムではなく、血肉の通った魂の咆哮だ。
――解放だ。
――私は、生きている!
そして、その熱が空気に溶けた瞬間。
「……実に見事なフォームだった。まるで勝利宣言だな。」
不意に、闇の中から低く響く声がした。
声の主は、闇の柱の陰から姿を現した。
漆黒の礼装。
切れ長の瞳に月光を宿すその男は、隣国ノイシュタットの王太子――フェリクス・フォン・ノイシュタットだった。
冷徹にして合理的、利益にならぬことには一切興味を示さない“鉄血の王太子”。
それが彼につけられた通り名だ。
「あ……フェリクス殿下。もしかして、今の……?」
「君があの無能な王子に三センチの資料を突きつけて立ち去った瞬間から、ずっと見ていた。」
彼は滑るように近づき、私の右手を取ると、ペンだこの残る指先に唇を落とした。
冷たい月光と、熱い吐息。
その落差に、全身がびくりと震える。
「アリシア嬢。君のような国家機密級の逸材がブラック環境で擦り潰されるのを黙って見ているのは、一国の主として許容できなかった。」
「それは、“人材保護”の観点からですか?」
「いいや――一人の男として、君を奪いたい。本能的にな。」
耳の奥が熱くなる。
理性的だった脳が、一瞬だけショートした。
「我が国に来てくれ。合理性と誇りを併せ持つ君のような者が必要だ。報酬は“生涯の愛”と、“二度と離さない契約”。」
――すごい。
ナンパとヘッドハンティングを同時に成立させる人間がこの世にいるとは。
私は懐かしの広告代理店時代の癖で、即座に条件交渉へ入った。
「福利厚生は? 残業、休日出勤、ハラスメント対策、そして恋愛契約の有給規定についても明記をお願いします。」
フェリクス殿下は低く笑う。
「我が国の勤務形態はホワイトそのものだ。残業はゼロ、休日は完全週休二日制だ。……ただし、夜の優先業務は私との時間になるが。」
「残業代は?」
「いくらでも払おう」
くっ……交渉の余地なし。
しかし、なぜだろう。
“そちらの職場”、少し楽しそうだと思ってしまった。
こうして私は、王宮ブラック企業を自主退職し、隣国のホワイト王子にスカウトされるという予想外の転職を果たしたのだった。
★
あれから数ヶ月――。
私、アリシア・フォン・グレンヴィルは、ノイシュタット王国の特別補佐官(兼・婚約者候補)として充実した日々を送っていた。
執務室は広く、光が差し込む。
机の上には最新式の魔導計算機、そして最高品質の羽ペン。
書類の山はあるが、そのどれもが“理解できる人間のための仕事”だ。
フェリクス殿下は決して私を過労させない。
むしろ一日の終わりに、必ずこう告げる。
「アリシア。君の今日の成果は完璧だ。――もう終業の時間だ。」
「でも、この関税資料だけ……!」
「却下だ。社畜の習性は完全に治療が必要だ。」
くいっと腰を引き寄せられ、耳元に低い吐息がかかる。
「今夜の処方箋は、“愛による過勤務矯正”だ。……書類は後で私が見る。」
「殿下が、ですか?」
「君の代わりに働く覚悟くらいある。」
――ブラック上司ども、聞こえる?
これが、“真のリーダーシップ”ってものよ。
私が抜けた旧王国では、行政の歯車が完全に停止したらしい。
王子ジュリアンは国庫を空にし、友好国との同盟も失い、最終的には「くしゃみをしても叱責される」レベルの閑職に追い込まれたという。
けれど、もうどうでもいい。
あの国は私の“前職”だ。
退職者が過去のブラック部署を気にしても仕方ない。
私は今、新しい職場で、最高の上司――いや、パートナーとともに生きている。
★
夜。
蝋燭の灯りだけがゆらめく書斎。
フェリクス殿下はソファに座り、私を抱き寄せながら囁いた。
「アリシア。君は働く喜びと、生きる誇りを知っている。だからこそ、私は君を尊敬している。」
胸が熱くなる。
こんな言葉をもらえる日が来るなんて、前世の自分は想像もしなかった。
「……殿下。私、本当にここに来てよかったと思っています。」
「ならば、確約しよう。君の職務内容は――余生すべて、私に愛され続けることだ。」
「終身……雇用ですか?」
唇が重なる。
その瞬間、心の奥で、カチリと永遠の雇用契約書に印鑑を押す音がした気がした。
★
王国間人事報告書
報告件名:
元アーデン王国第一王子婚約者・アリシア・グレンヴィル嬢 転職先での成果について
報告者:ノイシュタット王国国王陛下(予定)フェリクス・フォン・ノイシュタット
内容:
当該人材は驚異的な業務効率と合理的判断力を持ち、わずか三ヶ月で国政システムを完全に最適化。
同時に、王太子殿下の精神衛生の向上および幸福度指数を300%改善。
現在、当該人材と結婚契約締結につき最終交渉中(本人了承済)。
備考:
「今後、王国のすべての結婚契約に“ホワイト勤務保証条項”を導入予定」
――以上。
そして私、アリシア・グレンヴィルは今日もペンを走らせる。
愛する上司の笑顔のもとで、最も安心できる職場で。
つい先日、王太子――いえ、夫になったフェリクス殿下が囁いた。
「君の席は、永遠に私の隣だ。」
自由を求めて退職したはずが、
見つけたのは、世界で一番ホワイトな“愛の職場”だった。
――これが、
私が手にした本当の終身雇用である。
お読みいただきありがとうございます!
お気に入り登録、下記☆☆☆☆☆にて評価などいただけると嬉しいです!
よろしくお願いいたします。




