「本当に愛する人を見つけた」と捨てられましたが。
シャンデリアの明かりが輝く豪華な舞踏会場。華やかなドレスに身を包んだ貴婦人たちが優雅に踊る中、突如として一つの声が響き渡った。
「すまないが、君との婚約は破棄させてもらう!」
止まる踊り手たち。沈黙が舞踏会場を支配する。
その声の主であるクリス伯爵へ、そして彼の前に立つ小柄な少女へと、数十もの視線が一斉に注がれた。
豪華な衣装に彩られた貴婦人たちの間で、子爵令嬢ナーシャは一人、質素な装いのまま佇んでいた。クリスは、言葉を続ける。
「僕は、——本当に愛する人を見つけたんだ」
表向きは申し訳なさそうな表情を浮かべるクリスだが、その心は既に別の場所にあった。
この場を早々に切り上げ、愛する人——エミリのもとへ急ぎたいという焦りで胸が満ちていた。
そもそもクリスには、この婚約自体が我慢ならないものだった。親に決められたものだから従うしかなかったものの、クリスはナーシャのことを少しも愛していなかった。むしろ、嫌悪感すら抱いていた。
舞踏会場の隅で、貴婦人たちが小声で噂話を始める。その視線の重みに耐えかねたように、ナーシャは僅かに俯いた。
「……君は、歴史とやらの勉強が好きだろう?」
突然のクリスの問いかけに、ナーシャは戸惑いながらも小さく頷いた。
「……正直、勉学などという性別的に不向きなものに励んでしまう女は、愚かだと……僕は思うよ」
華やかな社交の場よりも学問を好むナーシャを、クリスは内心「馬鹿な女」と罵っていた。
ナーシャの表情が悲しみに歪む。信頼していた婚約者からの言葉は、彼女の心を深く傷つけた。
周囲からの軽蔑の視線、囁き声、そして婚約者からの侮辱。
しかしクリスは、それらに打ちのめされたナーシャの様子にも目もくれず、エミリに会いたい一心で舞踏会場を後にした。
* * *
「エミリ。ようやく君と結ばれることができそうだ、嬉しいよ」
クリスの屋敷の一室で、クリスはエミリを抱きしめながらそう告げた。月明かりの差し込む部屋で、エミリは計算された愛らしい微笑みを浮かべて答えた。
「わたくしも、大好きです。ずっと一緒にいましょう、クリス様」
その笑顔に魅了され、クリスはエミリと唇を重ねた。
エミリにはこの状況が極めて愉快でたまらない。一代貴族の娘として生まれ、華やかとは言えない暮らしを送ってきたエミリには、幼い頃から強い野心があった。高級な衣装も、豪華な宝飾品も、優雅な社交界の生活も、全て手に入れたいと願っていた。
——こんな一代貴族の娘で終わってやるものか。
彼女は身分の高い貴族との結婚を目論んでいた。そして運命のように、舞踏会で見つけたのが婚約者への不満を漏らすクリス・ヘンメル伯爵だった。彼の婚約者が地味な子爵令嬢と知った時、エミリの心は歓喜に満ちた。
計画は完璧だった。エミリは自らの美貌を存分に活かし、巧みな話術で徐々にクリスの心を掌握していった。時には可愛らしく、時には気品高く振る舞った。
そして、クリスは見事にエミリの誘惑に落ちた。今宵、クリス伯爵は完全に彼女のものとなったのである。
(わたくしはこれから、伯爵夫人として生きることができる——)
エミリは、クリスの首に腕を回しながら、不敵な笑みを浮かべた。その表情には、長年の野心を遂げた女の勝利の喜びが満ちていた。高貴な身分、莫大な財産、そして社交界でも認められる地位。全てを手に入れた満足感に、エミリの胸は高鳴っていた。
* * *
婚約破棄から数週間が過ぎ、ナーシャはいっそう歴史の勉強に没頭していた。
悲しみを紛らわすためではなく、誰に馬鹿にされようとも、自分の好きなことを貫きたいという強い思いがあったからだ。
王立図書館の深い静寂の中、ナーシャは古代歴史学の書物に心を奪われていた。重厚な革張りの本を開くたびに、未知の世界が広がっていく。古代文明の謎、失われた文化の痕跡、それらが彼女の知的好奇心を刺激して止まなかった。薄暗い書架の間を縫うように進みながら、彼女は次々と新しい発見に胸を躍らせていた。
夕暮れ時の柔らかな光が、図書館の高窓から差し込んでいた。静謐な空間に、温かな光が落ちる。ふと窓の外に目をやると、茜色に染まる空が目に入る。帰り支度を始めようと、ナーシャは七冊ほどの分厚い本を抱え上げた。
その重みに少し体が傾いだ瞬間のことだった。
ドンッ
突然の衝突に、本が床に散乱する。小柄なナーシャは、その反動で尻餅をついてしまった。
「すいません、大丈夫ですか……?!」
心配に満ちた、しかし耳に心地よい低い声が響いた。差し伸べられた手は、長く繊細な指を持ちながらも、確かな力強さを感じさせた。ナーシャが顔を上げた瞬間、息を呑むような美しさを持つ青年と目が合い、時間が一瞬止まったかのように感じた。
夕陽に輝く銀色の髪は絹糸のようにさらりとしており、その一筋一筋が夕暮れの光を纏って煌めいていた。凛とした顔立ちは、まるで彫刻のように完璧に整っており、それでいて優しさに満ちていた。深い色合いを持つ瞳には、知性の輝きと温かな思いやりが宿っていた。上質な衣服に身を包んだ姿からは、気品が自然と漂っていた。
青年はナーシャを、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に立たせると、申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「本当にすいません、前をよく見ていなかったものですから」
彼は素早く、丁寧に散らばった本を拾い上げ始めた。
その時、一冊の本のタイトルに目が留まったのか、少し驚いたような表情でナーシャの方を振り返った。その顔があまりに端正で、ナーシャは思わず見とれてしまう。
「……歴史が好きなんですか?」
穏やかな声音に、確かな興味が滲んでいた。その予想外の問いかけに、ナーシャは少し戸惑いながら答えた。
「は、はい……、特に、古代の歴史が……」
その瞬間、青年の瞳が一層輝きを増した。美しい顔に、少年のような純粋な喜びが広がる。「ぼ、僕も好きなんです!」
その言葉を皮切りに、二人の会話は尽きることを知らなかった。古代文明の発掘調査の最新の発見から、歴史書の解釈における諸説の違いまで。博識でありながら、決して相手を見下すことのない青年の物腰に、ナーシャは次第に心を開いていった。彼女は、初めて自分と同じ興味を持つ人と出会えた喜びに胸を躍らせながら、熱心に語り合った。
夕暮れが深まり、閉館時間が迫る図書館で、青年は少し照れくさそうに言った。
「あの、……よかったら、明日もここで会いませんか……?」
その日から、ナーシャと青年——アーロンは、毎日のように図書館で顔を合わせるようになった。時には古代の偉人たちの事績について、またある時は未だ発見されていない遺跡の可能性について、二人は夢中で語り合った。
薄暗い書架の間で知的な会話を重ねるうちに、二人の絆は確実に深まっていった。アーロンは、歴史について目を輝かせながら語るナーシャの姿に、徐々に愛おしさを感じるようになっていた。その純粋な探究心と、知識への飽くなき憧れに、彼の心は次第に惹かれていったのだった。
* * *
華やかな王宮の大広間に、無数のシャンデリアから柔らかな光が降り注ぐ夜。水晶のプリズムが放つ虹色の輝きが大理石の床に映り込み、それは夜空に散りばめられた星々のように美しく煌めいていた。貴族たちの優雅な笑い声と、オーケストラの奏でる華麗なワルツが、広間いっぱいに響き渡っている。
ナーシャは父の勧めで、半ば強いられるように舞踏会に参加することになった。深い紫紺のベルベット地のドレスに身を包んだ彼女の瞳には、どこか影が宿っていた。普段から着慣れない衣装に身を包み、周囲の視線を感じながら、彼女は自分がこの場にそぐわないと痛感していた。
そして、彼女の不安な予感は見事に的中した。大広間の中央で、かつて自分を捨てたクリス伯爵が、派手な衣装に身を包んだ女性と談笑していた。まるで金の糸を紡いだかのような艶やかな金髪と、必要以上に濃い化粧。その女性の高笑いは、まるで銀の鈴を打ち鳴らすかのように広間に響き渡り、周囲の注目を集めていた。
(ああ、この方が彼の言っていた"本当に愛する人"なのね……)
胸に染みる痛みを必死に押し殺しながら、ナーシャはその場を素通りしようとした。しかし——
「ナーシャ、お前は相変わらず引きこもって勉強ばかりしているようだな」
クリスの冷ややかな声が、ナーシャの足を止めた。その整った横顔には、かつて婚約者として見せていた優しさの欠片も残っていない。むしろ、そこにあるのは露骨な軽蔑の色だった。
「いい加減、女らしく振る舞ったらどうだ?」
その言葉に続いて、隣の女性——エミリが毒蛇のような声を上げた。彼女の目には明らかな優越感が浮かんでいる。
「まあ! その年で婚約者がいないなんて、貴族令嬢としてあり得ませんわ。いつも地味な格好で本ばかり読んでいるから、仕方ないのかしら? 可哀想に」
彼女の言葉には、明らかな嘲りが込められていた。ナーシャは唇を強く噛んだ。こみ上げる涙を必死に堪えながら、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめる。華やかな舞踏会の空気が、彼女にとっては重たい鎖のように首を絞めつけていた。
「ああ、そういえば」クリスが意地の悪い笑みを浮かべる。
その表情には、かつての婚約者を徹底的に貶めようという悪意が滲んでいた。
「巷で嫁探しをしている太った商人がいるらしいぞ? たいそう金持ちらしいから、紹介してやろうか? お前には丁度いいかもしれないな」
エミリが上品ぶった仕草で扇子を広げながら言う。その目は歓楽に満ちていた。
「でもクリス様ぁ、貴族として生まれたのに、庶民に嫁ぐなんて、恥晒しにもほどがありますわよ? ——まあ、彼女には相応しい身の振り方かもしれませんけれど」
周りから、意地の悪い笑い声が響く。まるで群がる禿鷹のように、ナーシャを取り囲む貴族たちの視線が、彼女を追い詰めていく。
(もう、嫌だ—— どうして、こんな目に……)
涙を堪えきれずに、その場から逃げ出そうとした瞬間——。
「舞踏会は、罵倒の場ではないのですが」
凛として力強い声が、その場の空気を一変させた。まるで氷の刃が空気を切り裂いたかのように、周囲の嘲笑が静まり返る。
振り返ると、そこにはアーロンの姿があった。月明かりのような銀色の髪が、シャンデリアの光を受けて神々しく輝いている。その深い翡翠色の瞳には、クリスたちへの明確な敵意が宿っていた。完璧な立ち居振る舞いと気品のある佇まいは、その場にいる誰もが息を呑むほどの威厳に満ちていた。
アーロンは優雅な仕草でナーシャの手を取ると、声を落として続けた。その手の温もりが、彼女の震える心を少しずつ落ち着かせていく。
「先ほどの言葉、あまりにも酷いです。一人の女性をそこまで追い詰めることに、いったいどんな意味があるのですか。それとも、他者を貶めることでしか、自身の価値を見出せないのですか?」
突然の介入に、クリスの整った顔が醜く歪んだ。
「黙れ! いきなり会話に入ってきて何なんだ、貴様は。いいか? こいつは僕の元婚約者だ。今でも無意味な勉学とやらに励んでいるらしいから、忠告してやってるんだ」
アーロンは、そんなクリスを見下すように冷たく微笑んだ。その目には、まるで害虫を見るような軽蔑の色が浮かんでいる。そして、ナーシャの細い腰に手を回すと、優しく抱き寄せた。
「なるほど。良かったです。貴方のような浅はかな人間とナーシャが結ばれなくて。彼女の価値がわからない愚か者には、最初から相応しくなかったということですね」
突然の出来事に、ナーシャの頬が薔薇色に染まる。アーロンの腕の中は、不思議な安心感に包まれていた。
エミリが苛立ちを隠せない様子で言った。その声には明らかな動揺が混じっている。
「どの爵位の貴族か知りませんけれど、こんな売れ残りの地味令嬢を好きになるなんて、よほど身分の低い家柄なのでしょうね? 本当に無様——」
アーロンは、エミリの言葉を涼しげな声で遮った。その口元には、勝利を確信した冷たい微笑みが浮かんでいる。
「——ああ、そうだな。このハワード“公爵家“に楯突く伯爵風情が本当に無様で仕方がないよ——」
一瞬にして、広間の空気が凍りついた。まるで時が止まったかのように、周囲の物音が消える。クリスの顔から血の気が引いていき、蒼白になっていく。エミリの扇子が床に落ち、カタンという音を立てた。
「あ、……その、まさか公爵家様とは知らず、……いや、……」
クリスの声が子犬のように震える。目の前のアーロン・ハワード公爵の冷たい眼差しに、もはや何も言えなくなってしまった。その場にいた貴族たちも、一様に顔を青ざめさせている。
アーロンは、まるで羽のように軽やかにナーシャを抱き上げた。深い紫紺のドレスの裾が、優雅に宙を舞う。ナーシャの細い指が、アーロンの肩に触れた瞬間、小さな吐息が漏れる。アーロンは、そのか弱い身体を大切な宝物を扱うように優しく抱きしめながら、クリスたちに冷ややかな微笑みを向けた。
「では、僕の愛する人への罵倒に対しての'処分'は、後ほどお伝えしますので。
——楽しみにお待ちください」
最後の言葉には、明らかな威圧が込められていた。そう言うと、ナーシャの薔薇色の頬に優しくキスを落とし、二人は舞踏会場を後にした。クリスとエミリの顔が、恐怖で歪むのを背中で感じながら。
* * *
月明かりの差し込む書斎で、ナーシャは恥ずかしそうに俯きながら言った。古い洋書の並ぶ本棚を背に、彼女の小さな体が月光に照らされている。
「ほんとうに私のような者でいいのですか……? 私は、クリス様の言う通り、地味で……身分も……」
その声には、まだ不安が滲んでいた。長年の劣等感が、彼女の心を縛り付けている。アーロンは、月光に照らされた彼女の儚げな横顔を見つめながら、優しく微笑んだ。その瞳には、深い愛情が宿っている。
「そんなのどうでもいいんだ。そして、君は十分に魅力的だよ」
彼は、ナーシャの小さな手を取りながら続けた。その手のぬくもりが、彼女の心に染み渡っていく。
「歴史について楽しそうに話す時の君の笑顔が、僕は大好きだからね」
その言葉に、ナーシャの瞳が潤んだ。長年押し殺してきた想いが、温かな涙となって頬を伝う。アーロンは、その涙を優しく拭うと、彼女の震える唇に自分の唇を重ねた。柔らかく、しかし確かな想いを伝えるように。
月の光が二人を優しく包み込む。書斎に置かれた古い歴史書たちが、静かな証人となって佇んでいた。アーロンの手が、そっとナーシャの髪に触れる。その指が彼女の頬を撫でると、甘い吐息が漏れた。
窓から差し込む月明かりが、まるで二人を祝福するかのように降り注いでいた。
* * *
そのあとヘンメル伯爵家は爵位を没収され、国外へ追放された。
クリスに捨てられ精神が壊れたエミリがどうなったのかは、知る由もない。
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