EPISODE 16: SWINGING WITH DA HEVSTER / RAISING HELL
「──メァルメト様、 メァルメト様! こんな所でお休みになられたら、お風邪を召しますよ? まったくもう、世話の焼ける──」
辛うじて聞き取れる程度の、サァドゥの遠い声がする。
その声と共に、オレの肩には柔らかい布地がかけられる感触がした。いつの間にか身体が冷えていたのか、触れた布地が温かく感じられる。声の主からして、サァドゥがかけてくれたんだろうか。口の周りから頬にかけてが何故か冷たく濡れている。これは何だ、自分のよだれか?
──しまった!
オレは突っ伏していた机から顔を上げ、上半身を正した。さっきまで読み進めていた巻物には、早くもよだれの染みが広がっている。机の上で顔を覆 (おお) っていたいつもの装束の袖は、辛うじてよだれからの被害を回避していた。
やってしまった──神殿の修行の一環でさっきまで神学について勉強していたのに、いつの間にか眠り込んでしまったのだ。オレの右どなりの椅子には夜食を運んで来てくれたサァドゥが、オレの顔を覗き込みニコニコしながら座っていた。
「ありがとう、サァドゥ。起こしてくれて助かった」
「いえいえ、これが従者の務めですから。何だかお疲れのご様子みたいですし、気分転換に夜食にしませんか?」
サァドゥは親指を立てた右の握り拳の先を自身の顔に向け、笑顔でオレに応えた。このまま勉強を続けても、きっと身に入らないだろう。サァドゥの提案通り、ここは気分を変えた方が良さそうだった。オレはため息混じりにサァドゥに返事をした。
「そうだな、そうするか」
指から力を抜いて自然に広げた手のひらを前に向けたまま、オレは左右の手をそれぞれ自分の顔の高さに上げて目をつむり、いつもの様に豊穣の女神や農業の神に祈りを捧げる。サァドゥもオレの後に続く。温められたエンマー小麦のパンとスープの湯気から漂う香辛料の香りは、いつでもオレの意識をこの世界へとつなぎ止めてくれている。
二人で他愛もない話に花を咲かせながら夜食を食べ進める。ふとサァドゥがパンを片手に、心配そうな表情でオレを見やって言った。
「メァルメト様、ここの所、少し根詰め過ぎではないですか? 今日もお疲れのご様子ですし、そんなにご無理をなさらなくても──」
「あーうん、そうだな──心配かけて、ごめんな」
オレは笑顔を作り、獣の牙の様な自慢の歯を見せて応えた。
神殿の神官の指示に従って今学んでいる神学で、オレには妙に気になる部分がいくつかあった。疑問は出来るだけ早く解決しておきたい。神殿に滞在出来る時間は限られているのだから、王宮にいる間に可能な限り知識や技術を習得しておきたかった。多少の無理をしてでも、オレはやり遂げなければならない。
そしてオレは政 (まつりごと) や神学の勉強以外にも、この世界のあらゆる出来事を多角的な視点から知っておかなければならない。民を導く立場の存在に無知は許されない。そういった意識こそが指導者、為政者をそれ足らしめるのだと思う。オレの学びには終わりがないのだ。
それに、今のオレにはあまり時間は残されていない──ここの所、なぜかそんな胸騒ぎがしている。王宮の中の匂いが、最近ほんの少しだけ変わった様な気がするのだ。きっと、オレ以外の誰も気づいていないほどの、ほんのわずかな匂いの変化。
この事はまだ誰にも言っていない。従者であるサァドゥ、近衛隊隊長ウェプワウェツァブ、副隊長、もちろん本国の大王陛下にも。オレは誰にも余計な心配をかけたくなかった。
だがサァドゥはオレの様子を見て、あきれた表情でため息をついて応えた。
「メァルメト様、相変わらず嘘つくのが下手過ぎなんですから、せめて俺にだけでも本当のお気持ちを仰って下さい!」
どうやらすっかり見抜かれている。やはり大王陛下の人選に間違いはないのだ。それに、サァドゥはたまに頑固で、引き下がらない時がある。ここは変に隠さず、サァドゥには思っている事を言うべきだろう。
「あーうん、ちょっと、気になる事があってさ──出来るだけ頭ん中を整理しておきたいって思って、それで頑張っていたんだが──オレの頭と身体がオレの気持ちに追いついてこれずに、今日は寝てしまった、ってところだな。やはり兄達の様に器用には出来ないものだなぁ」
2人の兄達は政、武芸、勉学から色恋に至るまで、そのどれもを完璧にこなしている様にオレからは見えていた。それに引き換え、オレはひとつの物事に集中してしまうと他にやらなければならない大切な事がいつの間にか疎 (おろそ) かになってしまう。オレのやる事なす事はどれも極端で、しかも浮き沈みが激しい。
サァドゥは表情を和らげてオレに応えた。
「兄上様方と比較なさる必要などありません、メァルメト様はもっとご自分に自信を持たれてはいかがですか? 王宮と神殿を毎週往復、勉学と鍛錬と修行とを同時にこなされているのは、本国を含めた現王族の中でメァルメト様だけなんですよ? 俺からすればメァルメト様の方がよっぽど器用です──それで、気になる事ってのは一体何です?」
自分の持てるこの感覚に、いまいち自信が持てないのは確かだ。だからこそ消え入りそうなこの小さな自信を補強すべくオレは、日々様々な事を吸収しようと足掻 (あが) いている。
だが目の前のサァドゥはそれで充分である、と精一杯オレを慰めてくれている。オレの従者なのだから、主君を持ち上げるのは当然といえば当然だろう。オレはサァドゥからの正当な評価を、どこか素直に受け取れないでいた。
「あーうん、神殿で学んでいる神学で、神々の教えの理解を深めようとしているんだが──その話が、『螺旋』(らせん) ばっかりなんだよ」
「はぁ、『螺旋』、ですか?」
サァドゥが大きく首を傾げながら応えた。まぁそうだろう、オレ自身もあまり上手く説明出来るとは思えていない。
「そうだ、『螺旋』だ。どの神々の説話も並べて比較をしてみると、大体似た様な内容なんだ。それぞれは限りなく近い構造を持つのに、話の出発点や経過点、着地点が少しずつ異なっていたりする。上から見ると同じ円を描いている様に見えるのに、ほんの少しだけ見る角度を変えると、それは円ではなく螺旋を描いている事が分かる。神々はなぜこんなにも『螺旋』を描くのだろう──って思っててさ」
サァドゥが眉間 (みけん) に皺 (しわ) を寄せながら口を大きく開けている。多分、理解の許容範囲を超えたのだろう。サァドゥにはもっと分かりやすい言葉と表現で伝えなければならない。
「あーじゃあな、最も偉大な太陽神であるアメン・ラーだけじゃなくて、タウィには崇められている神々が他にもたくさんいるだろう? 毎週こうして神殿で修行をしている癖にな、オレにはこの神々の教えってのが、どうにも信じがたい様な気がしていてさ」
「ええ!? それってメァルメト様──神々の教えが嘘だって事ですか!?」
オレの言葉を聞いたサァドゥが心底驚いたといった様子で上ずった声を出す。オレは肩をすくめながら応えた。
「全部が嘘だとは思っていない。神々がこの世界と、オレ達人間を創り出したってのは本当にそうなんだと思う。けどな──本当にそんな凄い事が出来る神々だったら、何で神々同士で争い合ったり、殺し合ったりするんだろうか。そんなの神ってよりも、まるでどこにでもいる普通の人間みたいじゃないか。本当の神なら、もっとこう、誰からも尊敬される様な振る舞いをしそうなものだと思わないか?」
神々は説話の中で互いにいがみ合う。それぞれに正当性を主張する。それを理由づけとして相手を攻撃し、蹂躙 (じゅうりん) する。俯瞰 (ふかん) して眺めてみれば説話の多くはただその繰り返しで構成され、それがただそれぞれの神の視点から書かれたものに過ぎなかった。
どれだけ視点を変えても、語られる中身はあまり変わらない。そのやり口は、まるで幼な子同士の言い争いを見ている様にも感じられる。そして、まるで長引く争いを終わらせる為に、どこかに妥協点や突破口はないものかと、少しずつ手探りで模索している様にも見えるのだ。
一見すると神々の教えのひとつひとつは文句のつけようもない、完成された『円』の様にも見える。だがその『円』を重ねながら移動させてみると、その内容は少しずつその形を変えていき、教えの構造そのものが見えてくる。神々は自己の存在と他者との交流との間に、『螺旋』を描きながら足掻 (あが) き続けている。
「あ──確かに、それはそうですね──」
言われてみれば、といった困惑の表情でサァドゥは口ごもった。その様子を見たオレは机の上に片肘を乗せ、掌底で顎の下を支えて窓の外へと視線を移しながら話を続ける。
「神と名がつく割には、その行ないはあまりにも幼稚で人間的過ぎるんじゃないか、って思うんだ。おおよそ模範的とは言えない、尊敬されそうもない行動を取るその神々を、オレ達は本当に崇めて、そしてその言葉の全てを無条件に受け入れて良いものなのか、オレはまだ答えが出せないでいる。
もしそれが神のふりをした全くの別物、神の名を騙 (かた) る者──神になろう、少しでも神に近づこうと足掻く者がまぎれ込んでいるのだとしたら──そして、真実を語るとされる神の言葉の中に幾許 (いくばく) かの嘘や虚飾が意図的にまぎれ込んでいるのだとしたら──将来の為政者としてオレは、神々の教えを本当に信用して良いものなのか、分からなくなるんだ。だからオレはもう少し深く学んで、きちんと検証しないといけないんじゃないか、って思ってさ」
「──神々の行ないやお言葉が、俺達人間の理解を超えているから、そういう風に感じるだけなのかもしれませんよ──」
オレの独白に対しサァドゥは困惑の表情を浮かべたままに、机の上に置かれた空になったビールのコップの中身を見つめながら声の調子を落として応えた。しまった、どうやらまたサァドゥを困らせてしまった様だ。
考えてもみれば、今まで自分が信じて崇めていたものに対しオレがいきなり疑義を投げつけてきたのだ、困惑どころの話ではない。すれ違いざまに突然殴りかかられたも同然で、信念を傷つけられ怒り狂って大暴れしてもおかしくない様な事を、オレは調子に乗って口走ってしまったのだ。
浅はかな判断だった──これでは人を導くどころか、オレの言葉は不用意に人を惑わせてしまうだけだ。兄達の様に器用にとは行かないまでも、どうしてオレはもっと慎重に振る舞う事が出来ないのだろう。オレは慌ててサァドゥを気遣った。
「そうかもな! オレはサァドゥや他の人の考えまで否定するつもりはない。オレはオレの感じた疑問を大切にしたい、ただそれだけなんだ。ごめんな、変な事言って」
今までサァドゥが一度でもオレに対し、本気で怒った姿を見た事はなかった。ウェプワウェツァブだって黙っていると見た目が怖いというだけで、実際にはそこまで本気で怒っていないのをオレは知っている。だからこそ、オレは2人や近衛隊の面々がオレに対して本気で怒りを見せる場面が訪れる事を、酷く恐れてもいた。
激しい感情の表出は、否応なしに相手や周囲の意識と注意を振り向かせる強制力を持っている。オレは相手からの強制力に負けて感情に飲み込まれるのも、自分が強制力を過度に発揮して相手を振り回すのも、そのどちらも嫌だった。
「そんな、メァルメト様が謝る必要はありません! 俺は──ただ考えない様にしていただけなのかもしれません。本当は疑問に思っていても、メァルメト様みたいに口に出したり、自分の感じた違和感を自分自身、認める事が出来ていなかっただけなのかも──」
サァドゥは酒や食べ物以外に関してはいつでも真面目、そして真剣だ。気遣いのつもりでオレが放った言葉が、サァドゥの迷いに拍車をかけてしまったのかもしれなかった。
「サァドゥの立場なら仕方ないだろ。オレはほら、例え何かおかしな事を言っても、誰からも大して気に留められない人間だからな」
オレは自分の奥底から湧き上がる、黒い自己嫌悪の渦に飲み込まれそうになる。その負の感情を打ち消そうと弁解の為に選んだオレの言葉が、この状況をますます悪化させる。
「メァルメト様! どうかご自分を卑下 (ひげ) する事はお止め下さい、貴方は立派な皇子なのです! ご自身を悪く言う事は、貴方の従者として付き従う俺の心までも否定されてしまいます!」
それはサァドゥの悲痛な叫びだった。まただ、またオレはサァドゥを傷つけてしまった。どうしてオレは言葉選びを間違えてしまうのだろう。
神についての疑問は本当の事だ。神学で伝えられている神々の言葉を読み解いていけば、それは自明の理なのだ。だがそれがいくら本当の事であったとしても、言ってはならない事もある。それに人を惑わす可能性があるのなら、いつかは真実を伝えなければならないのだとしても、時期と言葉は慎重に選ばれなければならず、そしてオレはその大事な時期と言葉の選び方をどうしても間違えてしまうのだった。
「そんなに怒るなよ──否、済まない、怒らせたのはこのオレだな。ちゃんと詫びさせてくれ、サァドゥを傷つけるつもりじゃなかった──この通りだ」
オレは言い訳をせずにサァドゥに頭を下げた。すると両肩の上にサァドゥの温かい手のひらが置かれ、オレは顔を上げると、サァドゥはオレに笑って言った。
「メァルメト様は真面目で優しいお方です、この俺が良く存じ上げています。ひとりで抱え込まずに、もっと俺を頼って下さい。頼りないと言われれば、まぁそれまでですけど──」
サァドゥの温かな話し振りは、急に途中でその勢いを失い、目線があちらこちらに泳ぎ始めた。たぶん、思い出したのだろう。
「酔っ払ったお前をオレが担いでベッドまで運んでやった日の事か? もう忘れたよ、気にするなって」
──しまった、言い終わってからオレは自分が何を口走ったのかをようやく理解した。どうしてオレはいつもこうなんだ!
また慌てて何かを言おうとオレが息を吸って口を開きかけ、同じく泥酔を弁解しようと息を吸って口を開きかけたサァドゥと目が合い、ふたりの動きはそこで止まった。そして互いに相手の言葉を待った。やがて肺が苦しくなり始め我慢は限界を迎え、オレ達は息を吐き出しながら肩を揺らして大笑いした。部屋の中を柔らかい一陣の風が吹き抜けていった。
窓の外から夜市の喧騒 (けんそう) にまぎれて、遠くキッサルの音色が聴こえてくる。
キッサルは本国タウィだけでなく、青緑の海ウァジ・ウェル周辺の広域に渡って広く奏 (かな) でられている弦楽器だ。全長は大人の腕の長さとほぼ同じ、弦の数は奏者の好みによってまちまちだが5本から10本、その弦にはヒツジやヤギの腸が使われている。胴や柄の部分はここカデシュであればアルズの木 (レバノンシダー) 、本国タウィであればネヘトの木 (イチジク) が宮廷楽団用として利用される。民衆の為のキッサルには入手しやすいアスルの木 (タマリスク) やサントの木 (アカシア) が使われる事が多い。
アルズの木は遠くルブンの山々から運ばれてくる、とても貴重な木材だ。輸送距離が長く、輸送に必要な人員や日数も必然的に多くなる。丈夫で腐りにくい為、都市や王宮の建材としてだけでなく青緑の海を渡る為の船に使われる船材としても需要が高いので、近隣一帯における交易の重要な商材として扱われている。
そしてそれ以上にアルズの木を貴重足らしめているのは、その香りだ。深く豊かな木の匂いと、清涼感のある樹脂の匂い、そしてそこにほのかに香辛料の様な刺激のある匂いも混じり合う、唯一無二にして神聖な香りだ。魔除けや浄化の効験があるとの言い伝えや、『永遠の象徴』としても語り継がれていて、故に王族や神殿に仕える人間はこの香りを纏 (まと) って神々に捧げる祭事を行なう事も多く、オレにとっても非常に身近な匂いだった。
キッサルの音に触れ、そういえばここしばらく忙しくしていたせいで夜市に出かけていなかった事をふと思い出した。日頃の従行への感謝とさっきの非礼の詫びも兼ねて、サァドゥには美味いビールでも飲ませてやりたい。
「なぁサァドゥ、久し振りに夜市へ出ないか? ビールを飲みに行って、美味い肉も食おう」
「今からですか!? ──分かりました、すぐに支度を致しましょう。ビールと肉、楽しみですね!」
最初こそ少し驚いた様子だったが、輝いているその目を見ればすぐに分かる。サァドゥは美味いもの、楽しい事には目がないのだ。
夜市への出発前に、オレとサァドゥは近衛隊の詰所に立ち寄った。従者以外誰も知らないまま王宮の外へ出かけでもしたら、例え第3皇子であったとしても大騒ぎになってしまう。最低限、近衛隊にだけでも必ず所在の報告をする事、これがウェプワウェツァブとの約束だ。
ウェプワウェツァブの面白い所は、そもそもオレがお忍びで夜市に出かける事自体を咎 (とが) めてはいない事だ。禁止してもオレは絶対に王宮を抜け出していつか騒ぎを起こすだろう、とウェプワウェツァブはオレの性分を良く分かった上で許可を出している。厳しく行動を制限するよりも、出来るだけ安全に配慮する、そして出かける際の決め事を最初にはっきりさせておいた方が良い、との近衛隊隊長としての判断だ。さすが、大王陛下の見事な人選だと思う。
近衛隊の詰所には、副隊長のルーヘシとその息子ジェドゥマがいた。この2人が今夜の当番だ。
隊長ウェプワウェツァブ、もうひとりの副隊長サブミセとその弟サブミハはもう寝たとの事だった。
「良いなぁ、俺も一緒に行きたいなぁ」
ジェドゥマがサァドゥを恨めしそうな表情で見上げる。
「何言ってる、今夜の当番は俺達2人なんだぞ? 無責任に詰所を離れる訳にはいかないんだ」
父であり上官でもある副隊長ルーヘシがジェドゥマを諌 (いさ) める。オレはジェドゥマに、スパイスがたっぷりとかかった肉の屋台料理を手土産にすぐ戻る事を約束し、王宮を離れた。
オレは目深にフードを被り、簡素な麻布のマントを羽織って外に出た。あくまでも微行 (びこう) 、王族の格好をしたまま夜市に出かけでもしたら、それこそ大騒ぎになってしまう。だがお気に入りのヒョウの毛皮のマントや貴石類の装飾品を身につけていないと、どうにも全身が落ち着かない。それだけ普段の格好が自分に馴染んでいるのだろう。
サァドゥもいつもの近衛隊の装束ではなく、オレと同じ簡素な麻布のマントを羽織っている。簡素ではあるが何かあった時の為に、とサァドゥは短剣も併せて所持していたが、この短剣も近衛隊の銘のあるものではなく、普通に手に入るごく一般的なものだ。
ちょっとした持ち物や立ち振る舞いで、相手の素性というものは簡単にばれてしまう。だから近衛隊隊長であるウェプワウェツァブは、夜市に遊びに出かけた際には絶対に互いの名前を呼んだり、身分を明かす様な言動をしない様に、とオレとサァドゥに厳命していた。
夜市の大通りはたくさんの人と音と匂いで溢れ返っている。
王宮まで届いていたキッサルの路上演奏は、王宮の楽師が奏 (かな) でる行儀の良い音ではなく土地の暮らしに根差した、通りを行き交う人々の息遣いを表現したかの様な、荒々しくも魅惑的な音だ。そこに肉の匂い、香辛料の匂い、ビールの匂い、そしてこの土地の乾いた風の匂いが重なり、この風景と見事に調和している。どれもオレが心から愛すべきものばかりだった。
夜市ではオレ達が必ず立ち寄る店が2軒ある。
まず1軒目、美味いビールを売っている露店だ。夜市でビールを扱う露店は数え切れないほどあるが、この店はオレ達が特に気に入っている味だ。この店のビールは甘いタムルの香りと滑らかな喉越しで、何杯でも飲める。使っているタムルの種類や量が他の店とは違うのかもしれない。
ビールを飲んで気分を良くした後に向かうのは2軒目、美味い肉料理を出してくれる店だ。この店の肉はちゃんと火が通っているのにどれを食べても柔らかいし、スパイスも惜しみなくたっぷりとかかっていて最高だ。王宮に戻る時にもう一度立ち寄って、ルーヘシとジェドゥマの分を買って帰ろう。2人とも、きっと喜んでくれる筈だ。
美味いビールを飲み、美味い肉を食い、腹が落ち着いた所でサァドゥが別の露店でビールをまた2つ買い、それぞれを両手に持って笑顔でオレの元に戻って来た。オレはサァドゥから1つを受け取り、今日2杯目のビールを飲みながら混雑で賑わう夜市に立ち並ぶ露店を冷やかしていた。
その店はうらぶれた路地裏に在った。
ビールを片手にサァドゥと共に大通りを歩いていたオレは、周辺の空気の中に今までに嗅いだ事のない匂いが漂っている事に気づいた。樹脂特有の温かみと甘さの中に、かすかに香辛料の様な匂いや土臭い匂いが混じり合う。不思議な匂いだ。一体どこから匂ってくるんだろうか。
オレは自分の鼻をひくつかせながら周囲を見渡す。何度も歩き慣れたはずの道の途中、今まで気にかけた事のなかった、薄暗い路地裏にオレの意識は向けられた。こんな所にも店があったのだ。オレは人々の往来を上手くかわして歩く。
大通りの喧騒 (けんそう) と夜の闇にまぎれて、店はほとんどその存在感を消していたが、だが確かに店主はそこに立っていて、台の上には数々の珍しい舶来品、色取り取りの貴石類、様々な匂いを放つたくさんの種類の香が所狭しと並べられていた。店の目の前で燃えている篝火 (かがりび) に照らされて、それらの品々は宵闇 (よいやみ) の中でどれもが幻想的な美しさを放っている様に見える。オレはこの店に並べられている香のひとつの匂いに引き寄せられたのだと分かった。
その形は歪 (いびつ) な不定形ではあったが手のひらに収まるぐらいの大きさで、赤褐色に淡い黄色が入り混じる。所々に気泡も見受けられる。これがオレの嗅ぎ分けた匂いの元の様だった。オレはその不思議な形をした香を前に、焦点の合わない目でしばしぼんやりと眺めていた。
「気に入ったかい? これは『ムル』という香だ。良い匂いだろう、遠い異国では『ミルラ』とも呼ばれるそうだ」
店主から突然に話しかけられ、オレは我に帰った。店主は最初からそこにいたはずなのだが、オレはその気配を全く感じ取れなかったのだ。声の主である店主を見やると、サァドゥとあまり変わらないぐらいの年齢に見える若い男だった。
「こんな所に店があるなんて、前に通った時には気づかなかったよ」
そう言ってオレはその店主の頭上、店に掲げられている看板を見上げた──『ディーブ・アブヤード』と書かれている。カデシュ周辺の言葉で『白い狼』という意味だ。
「この世界には、準備が出来た者にしか明かされない場所ってものがある。そしてこの看板は店の名前であり、同時に俺の名前でもある。ようこそ、『ディーブ・アブヤード』へ」
そう言って店主、ディーブ・アブヤードは目を細めた。
不思議な男だ。サァドゥとそう変わらない年齢だろうにとても落ち着いていて、その目の輝きの奥には彼の持つ聡明さが見て取れる。どこか、懐かしささえ感じられる。
オレはこの店で買い物をして、店に並べられている興味深い品物の数々に触れ、色々と深く知りたいと思った。そして何よりも、このディーブ・アブヤードともっと話をしてみたくなったのだ。これだけの品物を扱っている男だ、きっと面白い話を聞かせてくれるに違いない。
「なぁサァドゥ、少しこの店で買い物をしていこう」
オレはいつもの様にサァドゥに声をかけた。だがいつもならすぐに返ってくるあずの返事がない。オレとディーブ・アブヤードの周囲を見渡しても、サァドゥの姿はまるで見えない──従者であるサァドゥがいないのだ。
「──サァドゥ!? どこへ行った!?」
オレはとっさにビールの入っていたコップを地面に落としてしまった。否、サァドゥがどこかへ行ったのではない、オレが急に勝手な行動をしたせいで大通りの途中ではぐれてしまったのだ!
「おいおい、君はひとりでこの店に来たんじゃなかったのか? さては、連れ合いとそこの通りではぐれたんだな?」
ディーブ・アブヤードが心配して声をかけてくれる。ディーブ・アブヤードの口振りからしても、オレがこの店に来た時にはすでにオレひとりだった事が分かる。オレは今までこの夜市を1人で訪れた事や、1人で行動した事はなかった。それどころではない、王宮の外に広がる世界に1人で出た事など、この人生においてただの一度もなかった。
全身に緊張が走り抜け、背中には不快な冷や汗が流れ出す。千々として呼吸は乱れ、心臓は早鐘を打っている様だ。こういう時に自分は何をすれば良いのか、どう振る舞えば良いのか、頭に血が昇って何も思いつかない。心の中で何度サァドゥに呼びかけてみても、通りの向こうからサァドゥが駆け寄ってくる気配は微塵 (みじん) もない。オレは自分の置かれた状況を前に立ち尽くし、この場から1歩も動けなくなってしまったのだった。
「焦って今すぐ動かない方が良い。まずはその乱れた呼吸を落ち着けるんだな、その調子では上手く行くはずのものだってダメになる」
そう言いながらディーブ・アブヤードはオレが落としてしまったコップを片づけてから、自分が今まで座っていた店番用の椅子を差し出し、オレに座る様に促した。そしてオレが椅子に座って数回深呼吸を繰り返したのを見届けると、オレが落としたものとは別のコップを手渡してくれた。それはタムルのジュースだった。
「まぁ、飲め。夜市の混雑具合には慣れていなかったのか? なら仕方ない、あまり悪い方には考えるな。人通りが少なくなるまでここでこうして待つのも、ひとつの賢い手だぞ」
サァドゥがそばにいない。襲いかかるその不安や寂しさから今すぐにでも駆け出して、オレは大通りの中へ探しに行きたかった。サァドゥに見つけ出して欲しかった。
だがディーブ・アブヤードの言う通り、大通りのこの混雑の中で闇雲 (やみくも) に動いても、すぐにサァドゥと再会する事は恐らく難しいだろう。ディーブ・アブヤードは迷子のオレに、わざわざ自分の椅子や飲み物までも与えてくれたのだ。この状況の中、それだけでも充分オレの心の救いとなってくれているというのに、オレはこれ以上この男の厚意に甘えても良いものなのだろうか。
自分を落ち着かせる為、ディーブ・アブヤードから貰った甘いジュースをひと口飲んでからオレは言った。
「ありがたい申し出だが、本当に良いのか? オレがこのままここにいたら、迷惑だろう?」
オレの言葉にディーブ・アブヤードは不思議そうな表情で一度首を傾げたが、すぐに何かに納得した様子で、小さなため息をつきながらその目を細めた。
「──なるほど、そういう事か」
ディーブ・アブヤードはそう言ってオレから目線を外し、店から大通りの方を見やった。
「──目線は出来るだけ自然に、俺を見つめ続けるな。だが俺のそばからも離れるな。そして、声の調子を落とせ──ここでばれたくはないだろう?」
さっきまでの温かみのある落ち着いた様子ではなく、急に低く、緊張感のある声でディーブ・アブヤードは話を続けた。タムルのジュースを持つオレの手に力が入る。ディーブ・アブヤードの言葉は、この男がオレについての何かに気づいたかもしれない事を示唆 (しさ) している。
「身形を質素にしていても分かるさ、態度と話し方、それにその目の輝き。良い匂いもする。だが俺は君に危害を加えるつもりはない。安心してくれ、皇子様」
オレはディーブ・アブヤードと同じ、大通りの方を向いたまま息を飲み、大きな音を立てて喉を鳴らしてしまった。今オレは身分、置かれている状況、全てをこの男に把握されている。単に変装しただけでは、この手練 (てだ) れの男の目をごまかす事は出来なかったのだ。
「俺は青緑の海沿いを縄張りにしている、見ての通りの行商人だ。危ない場所にも行く、だから荒事にも慣れている。そうやって遠方各地の珍しいものを手に入れた時には、カデシュの王宮へ献上に行く事もある。君は俺を覚えていないかもしれないが、別に俺は気にしていない。俺は王宮で君の顔を何度も見かけている」
確かに、王宮の父王陛下の元へは各地の行商人がこぞって集まり、それぞれに貴重な舶来品を出し合う品評会が行われる事がある。物珍しさに惹かれて、オレも何度もその会を覗きに行っている。だが無理もない、品評会には行商人はあまりにもたくさん居たし、何よりも舶来品の品定めに熱中していて、オレはひとりひとりの顔まではきちんと覚えてはいなかったのだった。
どうしてオレは熱中すると、こうも周りが見えなくなってしまうのだろう。今だってそれが原因でサァドゥとはぐれてしまったのだ。きっと兄達ならこういう時でも忘れずに、ちゃんと相手の顔を覚えている。オレはどうしても兄達の様に、器用には振る舞えない。
「──あ、ああ、そうか、済まない」
そう言ってオレは恥ずかしさと自己嫌悪のあまりにうつむいてしまった。
「オレは気にしていないと言った。だから皇子も気にするな」
ちらと見やると大通りの方を向いたままのディーブ・アブヤードの横顔は、とても優しかった。
「それに、いつか君に会えると思っていた。今日がその時に選ばれたというだけに過ぎない」
ディーブ・アブヤードはそう言って、目線だけをオレに寄越した。嬉しそうな表情だった。オレは改めて、不思議な事を言う男だと思った。だが見つめ続けるなという指示を思い出し、オレは目線を外して再び下を向いた。
そのオレの目線の前に、横から突然ディーブ・アブヤードの手が突き出された。手のひらを夜空に向け、その上には握った手の中にすっぽりと収まる大きさの貴石が載せられていた。石は丸く磨き上げられ、完全な球体に近い。乳白色の中に黄色や茶色の細い線が入り混じって見える。オレは再び顔を上げ、ディーブ・アブヤードを見やった。
「これは『ハト-ヌブ』と呼ばれる石だ。ここカデシュよりもきっと、本国のタウィの方で有名だな。家や部屋に置いておけば、住まいの持ち主を守護する力を持つと言われている。さぁ、手に持ってみると良い。柔らかい石だから、落とさない様に気をつけて」
ディーブ・アブヤードの説明を受け、オレは慌ててタムルのジュースのコップを店の台の上に置き、ハト-ヌブの石を受け取った。タウィで有名なのだとしたら、きっと大王陛下もこの石の事を知っているのだろう。こういうものに目が無いオレの性質は大王陛下譲りなのだと思う。石はひんやりと冷たく、そして『静か』だった。乳白色の中に不規則に走る何本もの黄色や茶色の線の後を目で追いながらオレは言った。
「ずいぶんと物静かで大人しい石だな、いつも暑苦しい性格のオレとは真逆みたいなヤツだ」
オレは思わず声に出して、素直に感想を述べてしまった。言い終わった後に、オレは自分がまた余計な事を言ってしまったかもしれない事に気づき、ディーブ・アブヤードの方を向いて弁解を始めようとした。だがディーブ・アブヤードはそれを制した。
「良いんだ、皇子。君はそれで良い。どうかその感性を、これからも大切にして欲しい」
ディーブ・アブヤードは目を細め、そうオレに言った。そしてまたも大通りの方に視線を戻し、まるで何かを懐かしむかの様な遠い目をしながら話を続けた。
「君の持つ力は本質を見抜く力であり、そしてそれを言葉に変えて伝える力だ。言葉は秩序を生み出し、秩序はこの世の理を表す。言葉は音節からなっていて、音と動きには時間の経過を必要とする。
この星に生まれ変わるあらゆる存在がその長い旅路を続ける為に、この世界には時間が存在している。そして言葉が発達していくに従って、人は生まれ変わりの運命の輪の中へと自ら深く沈み込んでいく。この運命の輪から抜け出す為に、皇子が出来る事はたったひとつだ。
それは、語る事を止めない事だ。臆 (おく) する事なく、君に見えたもの、聞こえた音、嗅ぎつけた匂い、心に感じた全てを言葉と行動に変え、その言葉と行動をもって君の真実を語り続ける事だ。だがもし語る事を止めてしまえば、言葉と行動が君をどこまでも追いかけてきて、正しい言葉を発し、そして行動する様に、君に要請するだろう」
オレは息を飲んだ──そう語るディーブ・アブヤードの横顔が一瞬、その名の通りに白銀色の毛並み、長い口先と鋭い牙を持つ、1匹の大きな狼に見えたのだ。それにディーブ・アブヤードの肌が、タウィやカデシュに暮らす人々の色である黒ではなく、どこか赤みがかった色合いにも見える。篝火 (かがりび) の当たる光の角度や加減のせいなのか、それともオレの──。
「民を導くのに必要なものは、肉体や知性、心の強さ、霊的な力だけじゃない。自らの奥底に潜む弱さや未熟さを受け入れ、虐げられる者達の心に触れた時に初めて、君は民を導く事が出来る」
そう言いながらディーブ・アブヤードはオレの手のひらからハト-ヌブの石を取り上げ、さらに店先に並べられていたさっきのムル香をも併せて手に取った。そしてそのふたつを柔らかそうな布で包み、小さな麻袋の中へとしまい込むと、麻袋をオレの手に持たせた。
「持っていくと良い。きっと君の役に立つ」
オレは困ってしまった。外出時の金の管理は全てサァドゥに任せてあり、普段オレは金を持ち歩いていない。そして今はサァドゥがいないのだ。ディーブ・アブヤードに渡さなければならない対価を持ち合わせていないのに、こんな良い品は受け取れない。従者のいないオレの様子で持ち合わせがない事は分かっていたのだろう、ディーブ・アブヤードは首を横に振って言った。
「心配するな、金はまた今度改めて、君の従者と一緒にこの店に立ち寄ってくれた時で良い。今はただ持って行け」
「そうか──ありがとう、では確かに受け取らせてもらう。だが、どうしてお前はオレにここまで優しくしてくれるんだ?」
素直な気持ちで訊ねたオレの疑問に、ディーブ・アブヤードは優しく穏やかな笑顔で応えた。
「それが俺の仕事だからさ」
ふと大通りの方に視線を戻すと、さっきよりも人々の往来が減っている事に気づいた。オレは麻袋を片手に、椅子から立ち上がった──今ならサァドゥに会える気がする。オレはディーブ・アブヤードの温かい目を見つめながら言った。
「ありがとう、今日はお前と会えて良かった。必ずまたここに来ると約束する」
するとディーブ・アブヤードは急に片膝を着いて跪 (ひざまず) き、深々とオレに頭を垂れた。
「皇子、私はいつまでもあなたをお待ちしております、どうか、心安らかな日々を──」
なぜだろう、ディーブ・アブヤードの声はどこか震えて泣いている様にオレには聞こえた。オレは跪 (ひざまず) きうつむいたままのディーブ・アブヤードの言葉を受け、踵 (きびす) を返して大通りに向かって歩き出した。
夜市、そしてカデシュの真上の夜空には広大無辺 (こうだいむへん) な天の河が流れ、その流れの中にはひと際大きく輝く星々で形作られた細長い三角形が見える。それは夏季の夜空だけに見える、特別な形の星々のきらめきだ。
夜も更け始めた事で往来が減ってきているとはいっても、急に閑散 (かんさん) とする訳ではない。それなりに人々の行き交いは続いていて、ぼんやりしていると見知らぬ誰かと肩がぶつかりそうになってしまう。だがさっきよりはまだマシだ。とりあえずはここから、根気良く探すしかない。それにサァドゥは身体が大きいから、いれば目立ってすぐに分かるはずだ。
──ほら、いた。
あの大きな身体でサァドゥは、必死にオレを探している。
良かった、これで安心して一緒に王宮へ戻れる。面白い土産話もしてやれる。だがオレはとっくにサァドゥの姿に気づいているのに、サァドゥはオレがすぐ近くにいる事にまだ気づいていない様だった。仕方ないな、オレから近くに行ってやるしかなさそうだ。
そう思ってオレの足を一歩前に出した、その時だった。
往来の中、急にオレの視界の横からフードを目深に被った通行人がやってきて、オレは上手く避け切れずに相手と身体がぶつかってしまった。相手は右の腕と拳とでオレの腹を退ける様に邪険に押しやり、往来の向こうへと通り過ぎて行った。腹に鈍い痛みを感じる。一瞬、獰猛 (どうもう) な雌の獅子の後ろ姿が脳裏をかすめる。
避け切れずにぶつかってしまった事を、オレは振り返って相手に謝ろうとした。
「すまな──い──?」
だがオレは最後まで謝る事が出来なかった。言葉の途中で、腹を中心に四肢の指の先までを、オレの全身に鋭く激しい痛みが走り抜けて行った。今までに経験した事のない強い痛みに、オレは立っている事が出来ず、両膝を着いて地面にうずくまった。
激しい痛みが走り抜けたその後、今度は全身が炎で焼かれる様な痛みに襲われる。メァルメト、本国の言葉で『獅子男』を意味する名を持つオレは今、破壊と復讐 (ふくしゅう) を司る獅子の女神、セクメトの火の息でこの身を焼かれているのかもしれなかった。だが炎で焼かれているはずなのに、オレの身体はまるで真冬の夜の凍える様な寒さをも感じ始める。
喉が締めつけられたかの様に息が出来なくなる。どんなに必死に呼吸をしようと思っても、まるで喉が開いてくれないのだ。下腹部から突然に迫り上がる吐き気に襲われ、オレは胃の中にあるもの全てを地面に吐いた。ディーブ・アブヤードが飲ませてくれたタムルのジュースの甘い匂いと、酸味の強い胃液の匂いとが混じり合い、それが鼻腔を刺激して吐き気にますます拍車をかける。身体が小刻みに、オレの意思とは無関係に踊り出す。
宵闇 (よいやみ) の中のオレの視界が、さらに暗くなる。篝火 (かがりび) の炎が明滅する。
「メァルメト様ァ!!」
遠くにサァドゥの叫び声がする。
誰かがオレの身体をさすってくれている。だが良く見えない。見たいのに、この目では見えない。サァドゥの名前を呼びたいのに、大丈夫だと言いたいのに、声も出せない。その手に触れたいのに、オレの身体は動かない。こんなに近くにいるはずなのに、サァドゥも、この世界の何もかもがオレから遥か遠くに離れ去ってしまった気がした。