EPISODE 12: FOLLOW THE LEADER / BROTHER’S GONNA WORK IT OUT
ガタンと無造作に窓を開け放つ音が響く。
「メァルメト様、もう朝ですよ! 起きて朝の鍛錬に行かないと! またいつもみたいに、隊長様に叱られますよ?」
オレを起こす為にわざと大きな音を立てている、このやり方をするのは乳母のテアだ。
部屋の中に熱を帯びた乾いた風が吹き込んでくる。今日も王宮の外は良い天気のようだ。このままベッドの中で微睡 (まどろ) んでいたい。昨晩はずいぶんと遅くまでかかってしまったから、どうにもまだ寝足りない感じがする。朝飯も食べたいし、用も足したいが、今は睡魔が圧倒的に優勢だ。
素早い調子で扉を何度もノックする重い音が聴こえる。オレが応える代わりにテアが扉を開けに行ってくれたみたいだ。扉が開くと同時に、ベッドまでバタバタと早足の音が近づいてくる。
「メァルメト様、早くお支度を! このままだと俺達、遅刻です!」
薄っすらと目を開けて声のする方を見ると、ベッドの前で大きな身体をかがめて床に片膝を着いて跪 (ひざまず) き、その顔は今にも泣き出しそうな表情の従者、サァドゥがいた。
サァドゥはオレよりも歳上だが、ずっと前からオレの従者を務めてくれている若い兵士だ。確か、2番目の兄と同い年だったはずだ。血相を変えたサァドゥが、遅刻だと言ってオレの部屋にいる。オレは腹筋の力だけで勢い良く上半身を引き起こしながら、身体の上にかかっていたシーツを思い切りはいだ。
「──これは絶対、まずいよな──?」
オレはしかめっ面のままサァドゥと目を合わす。サァドゥも表情を硬くして、首を大きく縦に振っている。
「さぁメァルメト様、お早く!」
サァドゥに急かされるまでもなく、オレは大急ぎで着替えてから部屋を出て、サァドゥと2人全速力で王宮の回廊を駆け抜けた。遠くからテアの声援が聴こえた。
「さて、今日で一体何度目の遅刻ですかな? メァルメト様」
近衛隊隊長、ウェプワウェツァブの組んだ太い両腕が、彼の機嫌をはっきりと示している。
「──5回目だ。ごめんよ、ウェプワウェツァブ」
オレは力なく頭をうなだれ立ち尽くしたまま、他の兵士達の目の前でウェプワウェツァブから叱られていた。
最初は優しかったウェプワウェツァブも、さすがに5回目ともなると相当に怖い顔をしている。弁解の余地はない。昨日の夜遅くまで起きていたオレが悪いのだ。でも一度でも熱中してしまうと時間を忘れてしまう性分なのだから仕方ない。それに、昨日のビールも美味かったし。
それを見透かした様に、ウェプワウェツァブが釘を刺す。
「メァルメト様が日々熱心に勉学に励んでおられるのは重々承知しております。が、貴方はこの領国の皇子なのです。もしこれが典礼や議会の場、それに大神殿の儀だったらどうするのです? 遅刻などしようものなら兵士や大臣どころか、神々にも笑われてしまいますぞ?」
全くの正論だ。ウェプワウェツァブの後ろでは、近衛隊副隊長のひとりで最年長、歴戦の猛者であるルーヘシとその息子であるジェドゥマ、もうひとりの副隊長で若きサブミセ、その弟であるサブミハらの兵士達が笑いながらうんうんとしきりに頷いている。自分でも本当にその通りだと思うから、叱られても言い返す気すら起きない。
「そして、サァドゥ」
ウェプワウェツァブがふいにサァドゥをにらみつける。振り返るとオレの後ろに控えていたサァドゥが全身をビクッと震わせ、直立不動のまま今にも床に倒れ込みそうな表情をしていた。
「メァルメト様が遅くまで勉学に励んでおられるのは、神よりメァルメト様に与えられた皇子としての大切な務めだからだ。だがなサァドゥ、従者であるお前が酔い潰れ、挙句に寝坊をするなど、今日の失態は一体どういう事だ!? お前はお前にしか果たせない務めを放棄した。主君であるメァルメト様を遅刻させ、皆の前で恥をかかせた事になるんだぞ!?」
「もっ、もっ、申し訳ありません!!」
サァドゥは声にならない短い悲鳴を上げてから深々と頭を下げた。その大きな体躯に不釣り合いなほどに怯えて縮こまり、全身に酷く力が入っているのが手に取る様に分かる。オレは大慌てで2人の間に割って入る。
「サァドゥは疲れていたのにオレが無理を言って遅くまでつき合わせたんだ、サァドゥはオレの命令に従っただけで何も悪くない。怒らないでやってくれ、頼む」
これ以上ウェプワウェツァブに叱られたら、きっとサァドゥは気絶するか失禁するかだな。幾らオレの従者を務めてくれているといっても、これはさすがに申し訳ない事をしてしまった。サァドゥの哀れな様子を見てウェプワウェツァブは大きくため息をつき、ひとまずこの場の収束を図った。
「──分かりました、とりあえず、今朝の稽古を始めましょう。その代わりに遅刻をした罰として、2人には夕方にも追加で稽古をつけます。宜しいですね?」
「分かった。本当に済まない、ウェプワウェツァブ──けど、ありがとう」
腕を組んだままのウェプワウェツァブの赤く燃える様な瞳の奥に見える光は、いつもでオレに優しかった。
「サァドゥ、ごめんな。全部オレのせいだ」
朝の槍術と弓術の稽古を終えて遅い朝食をとりに、オレとサァドゥは王宮の大食堂へ向かった。
オレは従者のサァドゥや他の兵士に混じって、良く大食堂で食事をする。部屋で1人、冷め切った食事をとるのはどうにも味気ない。見知った誰かと一緒に他愛もない話をしながら、出来立ての食事を食べた方が美味しいに決まっている。
けどそれもオレがこの領国の第3皇子、そして妾の子だからこそ出来る事だ。正室の母を持つ2人の兄達には、オレみたいな奔放な振る舞いはきっと許されないだろう。例え王位継承権があっても妾の子というだけで王宮の中では肩身の狭い思いを強いられるが、優秀な2人の兄を持ち、且つ継承権が3番目であるオレは周囲からあまり期待されていない分、その対価としてある程度自由に過ごしても黙認してもらえる。さすがに5回目の遅刻は見逃して貰えなかったけど。
「勘弁して下さいよメァルメト様、あー本当に生きた心地がしなかった──これ以上隊長に叱られたら俺、きっと気絶しちゃいますよ?」
大きな身体を大きくそらし、大きなため息をつきながら、そしてその大きな双肩をがっくりと落とし、サァドゥはオレに心から嘆願した。
「分かってるって。じゃあ今度からオレが夜遅くまで勉強をする時には、お前にはビールを飲ませない様にする」
「俺だけ飲めないんですか!? おかしいでしょう!? それに結局、夜更かしはするんじゃないですか! 政 (まつりごと) の勉学も大切だと承知はしておりますけど、どうか早くお休みになって下さい! それに昨日の美味かったあのビール、お1人で飲んでも味気ないでしょう!? あれは本当に美味かった! いやーまた俺も飲みたいなー! お1人よりも2人の方がもっと美味しいですよ!?」
オレは猛然と反論するサァドゥとしばらく目を合わせると、2人揃って耐え切れなくなって肩を揺らして笑い合った。サァドゥは何だかんだ言っても、いつもオレに甘いのだ。
ふいに背後の遠くから廊下の石畳の上を軽やかに跳ねる、幾つもの駆け足の音が聞こえてきたが、それも途中で止まった。続けて、足音を消す様な足の運び方独特の音が聞こえ始める。
この音の主は、きっと近衛隊で一番若くて快活なサブミハとジェドゥマだろう。それに、かすかな匂いでも分かる。2人とも、さっきまで一緒に鍛錬をしていたのだ、汗の匂いの判別くらいなら簡単だ。
良し、そっちがそうくるなら、オレも乗ってやろう。オレは迫る足音を聞き分けながらギリギリまで引きつけ、ここぞという時期を狙って背後を振り返った。
「あっ、バレた!」
「もうちょっとだったのに!」
サブミハとジェドゥマは互いに顔を見合わせると、すぐにオレの前に片膝で跪いた。主君、というか王族に対してこんな無邪気な遊びをけしかけておきながら、目上の者に対する礼節だけはそれなりに弁 (わきま) えている。日頃からのウェプワウェツァブの小言──否、教育が良いのだろう。ただし、言葉遣いは追いついていない事も多いが。
「今日も派手に怒られてたねメァルメト様、ほーんと寝坊助な皇子様だよね」
「サブミハ、ダメだって、そんな事皇子様に言ったら──」
笑顔で軽口を叩くサブミハ、それをやんわり注意するジェドゥマの背後からサァドゥが迫って間に入り、左右の太いその腕を2人の首それぞれに回すと、肘と手首を曲げて2人の喉元を軽く締め上げる。
「サブミハ、ジェドゥマ、お前達、メァルメト様の御前で何て口の利き方だ? あ"あ”?」
言葉遣いに関しては、近衛隊隊長であるウェプワウェツァブよりもサァドゥの方が断然厳しい。しかも普段の朗らかな雰囲気から一変して、目がすわる。サァドゥ自身はいつもオレに対して気安い言葉遣いをする癖に、他の人間がそれをするのはどうも許せないらしい。従者としてのサァドゥなりの矜持 (きょうじ)、なのかもしれない。
「ごっ、ごべんばばびぃーゆぶびでー!」
「あー俺は何も言ってないですー!」
サァドゥはジェドゥマには加減してやっている様だが、サブミハには割と本気で締めている。まぁ普段のサブミハの態度を考えればそうだろう、サブミハは与えられた自分の仕事自体はしっかりこなすし、嘘も絶対につかない正直者だが、まだ幼く、とにかく軽口が多いのだ。
オレはため息をついて肩をすくませながら言った。
「サァドゥ、その辺にしてやれ。お前、いっつもサブミハには厳しいよなぁ」
サァドゥが締め上げているサブミハ、ジェドゥマのさらに背後から、近衛隊隊長ウェプワウェツァブ、副隊長でありジェドゥマの父であるルーヘシ、同じく副隊長でサブミハの兄であるサブミセの3人が歩いてやって来た。3人とも立ち止まり、深々とオレに頭を下げる。
サブミセは、サァドゥに締められたままの弟、サブミハを一瞥し、表情を変えずに、だが軽く肩をすくめてからオレに言った。
「メァルメト様、我が弟が度々申し訳ございません。何度も言い聞かせてはいるのですが」
「別に気にしてない。それに、オレが寝坊したのは本当だしな」
オレは苦笑いをしながらサブミセに応えると、近衛隊最年長でサァドゥと同じぐらいに身体の立派なルーヘシが、腹の底から響かせた様な豪快な声と共にオレに笑いかけた。
「寝起きで鍛錬、結構な事ですぞ、メァルメト様。そして鍛錬の後に必要なものは肉ですな」
ウェプワウェツァブも和やかな表情で、ルーヘシの話を継ぐ。もう怒ってはいなそうだ。
「我々もご一緒致します、食事に参りましょう」
「そうだな、行こう」
こうやって皆んなでじゃれ合いながらだと、王宮のやたらと長い柱廊を歩くのも苦にならない。柱廊から覗く中庭では、前に大王陛下がオレに贈ってくれた2匹の聖なる猟犬が遊んでいる。太く長い胸周りから細くくびれた腰、そしてすらりと長い四つ足を持つその姿は本国を統べる大王陛下、じいちゃんの身体つきにそっくりだと思った。
3番目で妾の子。オレの母は本国タウィの人間ではなく、領国カデシュから西に1週間ほど離れた地、青緑の大海ウァジ・ウェルに面した海洋都市カナンの出身で、この王宮に雇われて父王周辺の世話をしていた端女 (はしため) だった、らしい。
乳母のテアからこれまでに何度も聞かされた話だ。その母はオレを産んで直ぐに亡くなったので、オレは母の顔も匂いも知らない。父王が隠れて端女にオレを産ませた事を知って、正室である2人の兄達の母は心身の体調を崩して後を追う様に亡くなったそうだ。
タウィとカナンとの混血であるオレの顔つきは本国の人間とは少し違うから、鏡で見る自分の姿の中に母や母方の先祖の面影、母より受け継がれたカナンの血脈を感じる。
出自としてオレは確かに大した期待をされていない身ではあったが、オレの為に専属の近衛隊が組織されている。それがウェプワウェツァブを隊長として組織された近衛隊で、サァドゥもそのひとりだ。サァドゥは近衛隊隊員であり、同時にオレの従者も兼ねている。
第3皇子の近衛隊にも関わらず兵士達は精鋭揃いで、しかも皆が皆、オレを大切にしてくれている。オレ専属の近衛隊隊長の任命や隊員の選抜はこの領国カデシュを統べる父王ではなく、本国タウィの広大な版図を統べる大王陛下、つまりオレの祖父が取り仕切っている。全員祖父のお墨付きの人選なのだ。
それも、父でもなく兄達でもなく、3番目でしかも妾の子であるこのオレだけが、この領国の王族の中で唯一祖父由来の最も強い霊的能力を持って生まれてきてしまったが故だった。
じいちゃん、否、祖父は偉大な大王だ。先のヒッタイト帝国との戦争では本国タウィから数多の歩兵と戦車隊を自ら率いて出陣し、見事に勝利を収めた。勝利の際の取り決めによってもともとヒッタイト帝国の一都市であったこのカデシュの地は、遥か遠く離れた本国タウィの属領となり、しばらくしてから大王陛下は自分の息子の中の1人にその属領カデシュ統治の役目と権限を与えた。
それがオレの父さんだ。父さんは大王の様な霊的資質には恵まれなかったけれど、誠実な人柄で大王からだけでなく民からの信頼も厚かった。2人の兄達も父さんと同じ様に霊的な資質は持たなかったけれど、いつも優しくて、それぞれに武芸や学術にも秀でているから、オレは2人の兄達をいつも尊敬の眼差しで見上げていた。オレは父さんや兄達から構ってもらい、頭をなでられるのが好きだった。オレ達家族はとても仲が良かった。
大王陛下には一度だけ会った事がある。この領国カデシュから本国タウィまではとても遠いから、そう滅多に会う事はかなわない。大王陛下は父さんよりもひと回り大きな身体をしていて、その上喜怒哀楽が激しく、一度怒らせたら誰も手がつけられなくなり最悪の場合はその場で殺されるかもしれない、と父さんや兄達はいつもそう言って、大王陛下の言動をとても畏れていた。そんなものなのかと幼いながらもずっと思っていたが、初めて大王陛下に会ってその目を見た時に、それは誤解であり杞憂 (きゆう) に過ぎないとすぐに分かった。
大王は確かに喜怒哀楽は激しいけれど、それは感情表現が誰よりも豊かだったからだ。覚えた感情を変に隠してごまかそうとしたり、心の奥底に閉じ込めて腐らせたりしないだけだ。良いと感じたものには最大限の賛辞を送り、欲しいと思ったものは例えどんな手段をとってしても手に入れ、拒絶すべきものには徹底的に制裁を加える。
そして大王はオレの父さんを含めた大勢の子供を何十人と成したけれど、それは決して大王が好色だからではない。過去から現在に至るまで連綿と引き継がれてきた王家の人間だけが持つ霊性が、全く欠けてしまっているか、もしあったとしても酷く弱まった力しか発揮できない子ばかりが生まれる様になった。だからこそ大王は必死になって子を成し続けた。このままではやがて王家の持つ力が絶たれてしまうかもしれない、という国家の頂点に立つ者だけが持つ危機感が、彼をそうさせたのだ。
そう──大王はただ純粋なだけだ。祖父の瞳は深い叡智 (えいち) の光をたたえていて、その姿はまるで1匹の大きな獣の様に見えた。
「メァルメトよ、お前は私が怖くはないのか?」
初めて本国タウィの首都ピラムセスの王宮に呼ばれた時の事を、今でもはっきりと覚えている。オレは父王と2人の兄達と共に大王陛下の玉座を前にして片膝を突き、顔を伏していた。父王と2人の兄達は恐ろしさのあまりに身体も声も震えていて、大王陛下と目を合わせる事すら出来なかった。けどオレは違った。祖父から問いかけられたオレは顔を上げ、答えた。
「別に怖くなんかない、どうして皆んながじいちゃんを怖がるのか分からない」
ほう? と祖父は笑みを浮かべた。父さんは驚き、兄達は声にならない悲鳴を上げていた。オレは祖父の目を見ながら続けた。
「だってじいちゃんは獣と同じ目をしているもん、獣は絶対に嘘をつかないし、誰も騙したりはしないんだ」
祖父は目を細め、オレに手招きをして言った。
「メァルメト、こちらにおいで。メァルメト以外は人払いを。向こうで待っていなさい」
呼ばれたオレは足早に祖父の座る玉座まで駆け寄った。この時父さん達は、遂にオレが大王陛下に殺されると思っていたらしい。だが実際そうはならなかった。父さん達や王宮の神官が全員退室したのを確認した後、祖父は幼いオレを膝の上に乗せ、『ヘカ』と呼ばれる王笏を右手で握ったままに、優しくオレの頭をなでながら言った。
「どうやらお前は私の血が強く出ている様だ。お前の父や兄達には受け継がれなかった力の資質が、お前の中に流れているのを私は見る。お前の持つその力は、これより日に日に強くなっていくだろう。だがよほど近しき者以外には、その力の事は黙っていなさい。私やお前の力はお前の父にも、そしてお前の兄達にも、決して理解はされる事はないからだ。
やがてお前の持つ力に気づき、それを利用せんとする者がお前の周りにいつか必ず現れるだろう。その様な下賎 (げせん) な者どもと渡り合える賢さを持った為政者 (いせいしゃ) となる為に、例え妾の子であってもひとりの立派な王族として、鍛錬と勉学に励み続けなさい。私に連なる力を持つ者として、正しい力の使い方を習得出来れば、いずれはお前がカデシュの地を治める立場となるやもしれん。
私にはお前とお前の持つ力とを守る義務がある。次のお前の誕生日には私からの贈り物として、お前だけを終生守護する近衛隊を組織し、この本国タウィの地よりお前の下に遣わそう。近衛隊の人選は私が責任を持って行なう。この近衛隊の兵には、お前の力を理解出来るが決して不用意に口外はしない、信頼に足る人間だけを私が直接選ぶ。表向きの理由は──そうだな、私はメァルメトの豪胆さがいたく気に入ったが、この子の性格と置かれた立場を充分に理解して指導を行なえる者達をそばに置く必要があると判断した、とでもお前の父には言っておこう」
祖父はいたずらを思いついた子供みたいに無邪気な表情を見せ、オレとふたり目を合わせて笑った。
「メァルメト様、夜食をお持ちしました」
漂ってくる香辛料の効いた香りが鼻腔をくすぐる。良い匂いに刺激されて意識の焦点が戻ると、自分の腹が減っている事に今さらながら気づいた。声の主を見やれば、湯気の上がる夜食を乗せた大きな盆を両手で持ち、その夜食を物欲しそうな表情で上から覗き込んでいるサァドゥがいた。オレは読んでいた巻物にふせんとなる、手のひらに収まる大きさの丸い小石を置きながらサァドゥに応えた。
「おっ、ありがとう。一緒に食おう」
「よろしいんですか? じゃあお言葉に甘えて!」
サァドゥは言い終わらないうちにオレのすぐとなりに座って、机の上に盆を置いた。盆の上にはカンムーン (クミン) とクズバラ (コリアンダー) の香りが漂うアダス (レンズ豆) の温かいスープ、エンマー小麦の焼きたてパン、タムル (ナツメヤシ) のビールがそれぞれふたり分ずつ置かれている。サァドゥは最初からオレと一緒に食べる気だったのだ。しかもサァドゥが自分の分に取った皿の上のパンの数は、明らかにオレの分よりも多い。
「さぁ、冷めないうちに食べましょう!」
サァドゥはまたしても言い終わらないうちにパンに手を伸ばし、瞬く間に口の中へと運んでいく。オレは呆気 (あっけ) に取られたまま、しばらくサァドゥの見事な食いっぷりを横から眺めていた。相変わらず美味そうに飯を食べる男だ。
これが一般的な王族と従者の関係であれば、主人よりも先に食事に手をつける従者を厳しく罰するのが常識なんだろう。けどオレはそんな事はしたくない。例え身分が違っても、気心の知れた相手と一緒に食べるからこそ、食事は格別に美味くなるのだ。
「どうされました、メァルメト様? せっかくの夜食が冷めてしまいますよ?」
オレの視線に気づいたサァドゥは、きょとんとした表情でオレを見返した。
「あ、召し上がらないのであれば俺が──」
「いーや食べる、オレだって腹が減ってるんだぞ」
オレはサァドゥに横盗りされない様に、パンを乗せた皿を自分の方に引き寄せた。続けて、指からは力を抜いて自然に広げた左右の手のひらを前に向ける。そして左右の手をそれぞれ自分の顔の高さに上げて目をつむり、豊穣の女神や農業の神の名を心に思い描きながら、オレはカデシュの地を走るアル・アーシーの大河の様に、淀みなく流れる様に、神々への祈りの言葉を捧げた。
「神々に感謝を」
口の中にパンを入れたままにその様子を見たサァドゥがしまったという顔をして、手にしていた食べかけのパンを慌てて自分の皿の上に戻し、オレと一緒に祈りの姿勢をとった。まだ口の中にパンが残っているから、サァドゥの捧げた咄嗟の祈りの言葉はおよそ神聖な調子からはほど遠く聴こえるものだった。その様子があまりにもおかしくて、オレは腹の奥底から自然と込み上げてくる笑いを、ついに我慢する事が出来なかった。
「何だそれ、相変わらず気の早いヤツだな、まったく!」
「申し訳ありません、ついうっかり──」
気心の知れた相手と一緒に食べる食事は格別に美味いし、そしてその食事の席は心から楽しい。タムルのビールの心地よい甘さが、朝晩の稽古に続き長時間の勉強とで疲れ果てた身体の中にじんわりと染み込んでいく。今、オレ達は良い時間を過ごしている。
「そういえばメァルメト様、最近、王宮に新しい大臣殿をお迎えしたって話、もうご存じですか?」
ふと思い出した様に、ビールの入ったコップを片手に持ちながらサァドゥが言った。少し前に先の大臣のひとりが急な病に伏せ、以降その席は空位になっていたが、つい数日前に欠員が補填されたのだと一番上の兄から聞かされていた。そしてその新しい大臣の男は本国タウィの出身ではなく、ここ領国カデシュよりもさらに遥か遠い西の地、青緑の大海ウァジ・ウェルの向こう岸からやって来た男なのだと言う。
「兄さん達から話には聞いているが、オレはまだ面識がないんだ」
第3皇子で妾の子となると、新任の大臣からのオレへの挨拶は後回しとされている事は自分でも良く分かっていた。その事を察してか、サァドゥは慌てて掩護を入れた。
「きっと近日中には王宮全体の公の場で着任の式典があると思いますから、その時にメァルメト様も大臣殿をご紹介頂けると思いますよ!」
オレの出自を知った上で、サァドゥはいつもオレに優しく、そしてオレを曇りのない眼で見てくれる。だからこそオレは、身分に囚われないサァドゥとの関係性を大事にしている。それは近衛隊の他の隊員達も同様だ。確かにオレは王族と呼ばれる身分ではあるけれど、王族である前にサァドゥやウェプワウェツァブと同じ、1人の人間である事を忘れてはいけないと常に思う。
「お前はもうその大臣と会ったのか?」
サァドゥの温かい配慮にオレが言葉を続けると、彼は少し声の調子を落として応えた。
「お会いした、と言いますか、大臣殿の執務中に少しお見かけした、ってだけですがね──」
サァドゥの口調がいつもの明るい調子ではなくなっている。オレは無言で頷いて、次の言葉を促した。
「俺はその人の外見や出自だけで相手の人柄を判断するつもりはありません。それはきっと、メァルメト様も正しい事だと言って下さると思います。けれど、彼にもそれが当てはまるのかどうか、俺には自信がないんです。彼の放つ言葉には、人を従わせる得体の知れない力がある様に聞こえたんです──」
「それは新しい大臣に、本国の大王陛下みたいな力があるって事じゃないのか?」
オレが茶化す様に言うと、サァドゥは血相を変えてすぐに否定した。
「違います! 大王陛下や王家の方々の持つ様な神聖な力だとは、俺には到底感じられませんでした──メァルメト様の持つお力とは、まるで違うものなのです。大臣殿の言葉を受けた王宮の人間はその後に上の空になって、まるで人が変わってしまった様に、俺には見えたんです。俺には学がないのでこれ以上上手くは言えませんが──王宮内でも用心に越した事はないかと。もちろん、メァルメト様は俺が必ずお守りします」
いつもは誰かを悪く言う事など滅多にしないサァドゥが、必死に言葉を選んで忠言してくれている事に気づき、オレは驚いた。サァドゥの五感と直感とが大臣を警戒すべきだと言っているのだ、最終的な判断は自分がするにしても、これはサァドゥの忠言の耳に入れておいた方が賢明だろう。さすがは大王陛下の人選だ。
オレは頷き、サァドゥの曇りのない眼を見据えながら応えた。
「分かった、心に留めておくよ。もし大臣と会わなければならない時には、お前や近衛隊隊員の誰かを必ず連れて行く事としよう。頼りにしてる──さて、そろそろ部屋に戻って寝るとするか、6回目の遅刻はどんな罰になるか分かったもんじゃないからな!」
「はい!」
サァドゥは屈託のない笑顔で、空の食器を載せた盆をひょいと持ち上げた。今日も良く身体を鍛え、良く学び、そして良く食べた。お互いに、きっと今夜はぐっすりと眠れるに違いない。