情熱のルビーレッド
燃えるような赤というのは、激しい炎や滾る血潮からイメージされるのかもしれない。
私のイメージは恋だ。愛ではなく、恋。男が熱く恋に、情熱を傾けるのはおかしいかい?
君がどこの誰だか知らないが、思春期の盛りのついた性欲と勘違いされては困るよ。大人になったからこそ、欲情と熱望の違いがわかるのだよ。
痺れるような感情‥‥あれを一度でも体験してしまうと、澄み渡る青空のもとで思いの丈を吐き出す青春も、青冷めて見えるものさ。
いや違うな。美の極致を知ってしまったからこそ、刺激を求め彷徨ってしまうのかもしれない。
私と彼女の出会ったのは、都会の真っ只中のホテルのバーだ。酷く暑く長い夏も終わりを告げ、短過ぎる秋から季節は冬へと移ろう。太陽の熱さによる温暖化のせいか、日中はコートを羽織るほど寒くはない。それでも朝晩の冷え込みは厳しくなり、手にする食べ物や飲み物は、自然と温かなものになった。
商社に勤める私は、仕事で都内のビル群まで来ていた。取り引き先との商談も無事に終わりひと息つく。今回の出張は会社の一大プロジェクトに関わっている事もあって、軍資金も豊富だ。
今夜泊まる予定のこのホテルには、会議室に使える広さの部屋や、応接室、レストランに売店と色々と備わっていた。シンプルなビジネスホテルに慣れた身体には、不相応な宿。商談を成立させたご褒美と思うと、慣れない雰囲気の中だろうと気も休まる。
商談相手との昼食会で食べた肉料理は緊張もあってヘビーだった。日はとっくに暮れていて、外へ食べに行くのは億劫だった。
私は取り引きの成功を祝いたくて、一人でホテルのバーへと向かった。沢山は食べたくないが、乾杯したい気分はあったからだ。経費で落ちてくれると助かると期待もあった。まあ祝いたいので、駄目なら払うさ。
バーのついたホテルに泊まるのはいつ以来か。入社して間もない頃、いけ好かない先輩社員と商談で使った時以来か。ハラスメントに煩い昨今、厳しくはなかったが小煩かった。あれはあれで良い思い出と教えになったものだ。
昔を懐かしみつつ、私は夜景の見えるカウンター席の端で、格好つけてモスコミュールを口にする。しがない今どきの営業マンに、カクテルの名前や味なんかわかりっこない。思ったよりキツいアルコールの味。
お祝いとはいえ、バーになどにしないで、素直に階下のレストランへ行けば良かった。緊張も解けたのか、急に腹も空いて来た。
商談は上手くいったけれど、慣れない祝杯は不発に終わりそうだ。私は席を立とうと、半分以上残っているモスコミュールの入ったグラスを手に取る。
彼女が現れたのは、そんな情けない姿を晒している時だった。
真っ赤なドレスなのだろうか。スペインのフラメンコの衣装のようにも見える。蠱惑的な赤の口紅。エキゾチックな魅力とエネルギーに胸の高鳴りが抑えられない。私はドキドキと脈打つ心臓の音が聞こえてしまうくらい、心を躍らせた。
(なんて美しいんだ……!!)
モスコミュールは、強いアルコール度数のウオッカを使う。だがチビチビ飲んでまだ半分も飲めていないのだ。だから酔ったわけではない。でも、目の眩むような「赤」 に惹かれて私は放心した。
彼女はカウンターまでやって来る。一つ席を空けて、私の近くに座った。他にも席は空いている。一瞬で自分に都合の良い理由が、泡のように浮かんでは消える。
「一人で夜景を楽しむのなら、その席よりこっちの席がおすすめよ」
間抜けな私の視線に気がついたのか、彼女は紅の瞳を輝かせて微笑んだ。その笑顔⋯⋯ほろ酔い気分の私には目の毒だ。
見惚れる男には、慣れているのだろう。それなりの年齢となった私が、あたふたと落ち着かない様子を楽しむように横目で見てクスリッと笑う。心がざわめく。ドギマギしながら弄ばれる気持ちが何故か心地良かった。
「──今日の舞台は終わりかい」
今まで殆ど会話らしい会話をしなかったバーテンダーが、彼女に話しかける。流石は接客のプロ。私と違って、魅力たっぷりの口紅を前に、顔色一つ変えない。
「えぇ。今夜はもうおしまい。踊り疲れちゃった」
「いつものでいいかい?」
「お願いするわ」
通い慣れた常連のやり取りが、また小憎いくらいの艶めかしさを演出する。灯りを落とした店内では、真紅の衣装は意外と目立たない。その分赤く塗られた唇が、妖しく輝く。
私よりもずっと若い娘に見えるのに、醸し出す雰囲気は、大人だった。舞台や踊りというからには、ダンサーなのだろう。失礼と思いながら、バーチェアの下にスラリと伸びた足の先に目線をやる。暗がりに浮かぶのはやはり「赤」 だ。赤いヒール。
私の遠慮のない視線に気づいただろうに、彼女は気にも留めない。それが当然だと言うように、うっすらと赤い唇の端を綻ばせる。敵わないな……そう思った。
シャカシャカシャカ────バーテンダーが彼女に提供するための、ドリンクを作り始める。
シャッ、シャッと氷が削られ整えられ、冷えたグラスにカランコロン──と良い音を響かせて投入される。
シェーカーの中の赤っぽい液体が細長いグラスに注がれる。シュポン! と、炭酸の瓶の栓が抜かれ、小さくシュワシュワ音を立てながら、グラス内を満たしてゆく。
桜色というより色味が濃い。ストロベリーだろうか? もうすぐクリスマスとなれば、名前は知らないが、ある意味贅沢なカクテルだと思った。
しかし、バーテンダーの手はまだ止まらなかった。グラスには長いストローと、ロングスプーンが飾り立てられる。冷凍庫から取り出されたのは、何と白いバニラのアイスクリームだ。アイスディッシャーで丸く整えられたバニラアイスが、氷の上に手早く置かれる。
浮かんだアイスクリームの側には、飾り切りされたオレンジがグラスの縁に、ミントの葉が添えられる。
美しい赤は彼女にピッタリだ。これは何と言うカクテルなのだろうか。だが、まだ私は見逃していた。スピードが生命のフローズンカクテルに、バーテンダーはまだ何かを乗せようとしているのだ。
引き戸の棚に仕舞われていた缶詰め。缶切りを使う昔のタイプではなく、プルトップのチェリー缶だ。埃の入らぬように、丁寧にタオルで拭いてからキュコッといい音を立てて開封された。
甘い汁に浸された缶詰のチェリーの中から、バーテンダーは一番形の良い、プリッとしたチェリーを選んだ。そしてバニラアイスのてっぺんへと優しく‥‥恭しく乗せた。
「わかってるね、マスター」
彼女は嬉しそうにバーテンダーへと声をかける。先に炭酸など注いでいては気が抜けてしまうだろう。段取りが悪く見えるのに、どうして彼女が嬉しそうなのか不思議だった。
「ルビーレッドのこのクリームソーダはね、てっぺんに輝くチェリーが大事なのよ」
完成したのはルビーレッドのカクテル⋯⋯ではなく、チェリークリームソーダだ。バーでクリームソーダが出るとは思わなかった。赤黒い液体はフローズンチェリー。ミキサーで粉々にした、特製のシロップなのだそうだ。
彼女が頼んだチェリークリームソーダは、暗がりを打ち消すように赤みを増す。アルコールなど入っていない、彼女専用のノンアルコールカクテル。
妖艶でアダルトな雰囲気に満ちた美しい女性とのギャップに、私は言葉を飲み込み、惚れ惚れと眺めた。
真っ赤な唇が、冷たいチェリークリームソーダに差し込まれたストローに口をつける。官能的な光景なのに、欲情よりも高潔な気品に私は魅入られた。
真冬のクリームソーダを、その姿を想像するならば、北の海の流氷か、白雪をイメージしたホワイトスノーのクリームソーダではないだろうか。
しかしそんな世間一般の意見など吹き飛ばすルビーレッドのクリームソーダ。私はこの時の衝撃が忘れられず、真冬のチェリークリームソーダこそ、至高のクリームソーダなのだと力説して回ったくらいだ。
一夜限りの恋。
一夜限りの幻。
一夜限りの夢。
……気がつくと、彼女の姿はいつの間にかいなくなっていた。幻想的な姿の彼女の妄想だったのだろうか、少し自分が心配になる。
だが──彼女がそこにいた証に、隣の隣の席のテーブルには、空のグラスがある。赤と白の混ざった薄いピンクの氷の上に、チェリーの茎が上手に結ばれていた。
◇
真紅のドレスに身を包んだ彼女との出会いはそれっきり。仕事でもない限り、安月給の営業マンには敷居の高いバーに寄る機会はなかった。
夢でも幻でもなかったけれど、赤い色をした高嶺の花は見る事すら叶わない。
私は再び真っ赤な君を求めて、ありふれた日常に戻る。憧れたのは真紅のドレスの彼女なのか、ルビーレッドの頂きにあるチェリーなのか、自分でもわからない。
赤いクリームソーダを追いかけながら、仕事に追われる毎日の生活。見つかったのはストロベリーばかり。夏になると色とりどりのクリームソーダの中に、スイカやブラッドオレンジといった、赤味を帯びたクリームソーダを出す店もあったようだが、チェリー尽くしのクリームソーダは見つからなかった。
季節は巡り去年にもまして暑い夏が到来した。レトロブームは度々起きたものだが、今年は暑さのせいか、喫茶店のクリームソーダが流行っていた。
あれほど推した真冬のクリームソーダも、夏本番の前に、雪のように溶けて消えた。情熱が冷めたわけではない。営業先でクリームソーダを求めては、理想のルビーレッドが見つからず心が折れかけていたのだ。
ボーナスを注ぎ込んで、あのホテルへ泊まりにも行った。しかし彼女に会うことは叶わず、チェリークリームソーダを作っていたバーテンダーは引退していた。
失意に沈む私はクリームソーダの底に沈むチェリーそのものだ。救いがないまま、泡の海で溺れ続ける。
あのひと時は、真冬の蜃気楼だったのだろうか。あの夜は確かに彼女は存在したはずなのに。
「まだ理想のクリームソーダがどうとかほざいてるのかよ」
暑い日々の続く中、営業で外に出る事の多い私に、同僚が声をかけて来た。
「悪いか。諦め切れないんだよ」
私が普段見せない熱量をもって、真紅のドレスの彼女とルビーレッドのクリームソーダについてしつこく語ったせいで、同僚は呆れながら心配してくれた。
「お前の言っていた物に、心当たりがあるから行ってみ?」
同僚は憐れむように私を見ながらスマホを取り出し、店の位置情報を送信してくれた。
『踊るメイド喫茶 愛しのチェリー』
「……メイド喫茶かよ!!」
チェリーとついていれば何でもいいわけじゃない。小馬鹿にされた気分だが、店の名前に引っかかりを覚えた。愛しのチェリーがエリーに見えたわけではない。
「踊る‥‥チェリー……」
メイド喫茶という言葉に惑わされ、私は邂逅のチャンスを自ら捨てる所だった。
気持ち悪そうに私を見る同僚に礼を言い、仕事をさっさと片付ける。会えるかもしれない、そう思うだけでやる気が漲ってくるのだから単純なものだ。
『踊るメイド喫茶 愛しのチェリー』 のある場所は、彼女と出会ったホテルの側だった。商談がなければわざわざ泊まりに来る事のない距離。
考えてみれば彼女はあんな目立つ恰好だった。どうしてホテルのバーへと入れたのかはわからないが、ホテルでパーティーでもない限り、その辺を歩く衣装ではなかった。
私はメイド喫茶の前に来た。比較的大きな商業ビルのテナントの看板。その二階に『踊るメイド喫茶 愛しのチェリー』の表記を確認する。店員の写真はなくイラストだった。イラストには店員の踊る姿に国旗の数々。
「間違いないようだ」
私はこの店を教えてくれた同僚に感謝する。喫茶店は探したが、メイド喫茶は探してなかった。
「お帰りなさいませ、御主人さま〜♪」
初めてのメイド喫茶は、バーに入るより敷居が高かった。メイド服ではなく、踊り娘の衣装だったのがまだ救いだ。メイドじゃないならメイド喫茶ってつけないでくれよ、と思う。
「も・え・も・え・キューーーン♡」
前言撤回。ちゃんとメイド喫茶だった。ただ踊り娘の衣装は各国のもので、フリの踊りもそれっぽい。
私は期待に胸を膨らませメニューを見た。定番のオムライスやカレーライスは興味がない。
「……クリームソーダがない?!」
当たりに見えて、またも理想のクリームソーダは遠く離れていった。
「ん? まった、このパフェの絵……」
バーではフローズンカクテル、ノンアルコールカクテルに隠れていた。メイド喫茶ではパフェに隠れ『愛しのチェリー』 がいたのだ。
「こ、これを下さい!!」
「かしこまりました御主人さま。愛情プラスになりますが、よろしいですか?」
愛情プラス‥‥ようは割増料金ということだ。名前から看板メニューだから? そう思ったのだが違った。どうやら特別室でのご案内になるらしい。
私は承諾した。正直高い。でもホテルに泊まるよりは安い。特別室は個室で、テーブル席が一つと小さな舞台があった。
尽きかけた情熱を前に、再びやって来たチャンスかもしれない。一目千両でもいいから会いたいと願って──会うことのなかったルビーレッドのクリームソーダがそこにいた。しかしそのてっぺんにはチェリーがなかった。
冷房の効いた店内と違い、個室はじんわり暑い。情熱に満ちたダンスを踊る真紅のドレスの彼女の舞いは扇情的で美しかった。クリームソーダの事を忘れて踊る彼女に見惚れてしまう。
「すぐに来ると思ったのに‥‥待ちくたびれたわよ」
ダンスを終えた彼女は、荒い息を整えながら微笑む。金の小皿で運ばれてきた缶詰チェリーを、未完成のクリームソーダのてっぺんにチョンと乗せた。愛情の籠もった踊りは誇張し過ぎた「萌え」 だったようだ。
色々と話したい事はある。だが何より先にルビーレッドのクリームソーダを堪能させてもらうとしよう。私をクリームソーダの魔力に引き込んだ、彼女の前で。なんて幸せで贅沢な時間なのだろうか。
お読みいただきありがとうございます。
本作品はクリームソーダ後遺症企画『チェリーはあなたを愛さない』 の番外編となります。ルビーレッドのクリームソーダはストロベリーが主流でしょうが、当作品ではチェリーにしています。
作中のチェリークリームソーダは架空のもので、フローズンチェリーや缶詰チェリーなどで、ルビーレッド色に作る事が可能かどうかはわかりません。レシピの出所がバーテンダーさんなのか、真紅のドレスの彼女さんなのかは不明です。同様に真紅の踊り娘さんが、レロレロ好きなチェリーさんなのかも‥‥。
実はバーテンダー(バーのマスター)が、彼女のファンでメイド喫茶に通いつめているとか、チェリーさんのためにレシピを考案したとか、二人の今後とか……番外編の番外編を書くと漂流しそうなのでやめておくとしましょう。
◇
澳 加純さまから踊り娘嬢の愛しのチェリー様に、ファンアートをいただきました。
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