遅々、点火
静かな雨が降っていた。
私は或る車の中から、ぼんやりとそれを見ていた。
狭苦しい車内にその身を押し込んでいた。はめ込まれたガラスの外で、パサパサと降りしきる雨を眺めていた。
特別面白くもないが、いつまでも見ていられる空模様。車を叩く雨音も、いつまでだって聞いていられる。
助手席に深くもたれ掛かると、欠伸を噛み殺しながら、私は訊ねた。
「先輩、後何分ですか」
「そう急かすな……あと5分、かな」
返答したのは、私にとって同業の先輩だった。
暇を持て余した私とは打って変わって、先輩は額に汗を浮かべながら、時折舌打ち交じりに針金を操っていた。
針金の先は、ハンドル横の鍵穴に挿し込まれていた。
失くした鍵の代替にと、エンジンを吹かそうと先輩が提案してきたのが、もう五、六分も前の事。
鍵穴に鉄糸を突っ込んだ先輩が下唇を噛み、無我夢中な様子を、私は窓辺に肩肘付いて見るでもなく見ていた。
私にとっては小休止の様なもので、欠伸を堪えるだけの余暇ではあったが、四苦八苦する先輩にとってはその面子に関わる重大案件だったらしい。
ポツリと呟きながらも、その目は「邪魔をするな」と真剣そのものだった。
私は肩を竦め、鬼も同然の形相で鍵穴を睨む先輩から目を反らす。
おっかない隣人のご要望通り、私は大人しく暇を潰す事にした。とは言え、特段やる事もない。
灯りを使うと先輩に殺されてしまうし、軽食は家に忘れた。なれば睡眠ぐらいしかやる事がないのだが──背伸びして頑張っている先輩を横目に、新入りが爆睡かます訳にもいくまい。私の面の皮は、そこまで厚くないからだ。
となると、私に残された手法は一つしかなかった。私は溜息を吐くと、仕方なく己が懐に手を突っ込み、一つの玉ころを取り出した。
青みがかった緑色の宝石。実物を見るのは初めてだが、エメラルドの様だった。
其れは、意識していなければ、途端に掌から零れ落ちそうになるほど、滑らかに磨き上げられた逸品である。
向こう側が透けて見える程の透明感を放つ宝玉。
されど、そのお値打ちはプライスレス。
何故なら本日、私達が『盗み上げた』戦利品であるからにして──
──今回の泥棒稼業の報酬であったからだ。
※※※
私と先輩の2人は、コンビを組んでから僅か数カ月の付き合いで、お互いの事は殆ど何も知らない。
仕事が入った時のみ顔を合わせる為、その他での接触は一切無いのである。本名、年齢、出身……それらを初めとした情報どころか、好物や趣味の一つさえ共有せず、私事とはさっぱり切り離して働いてきた。
仕事柄、必要であれば合法非合法問わずあらゆる手段を企て、実行してきた。とてもじゃあないが、私達は大手を振って日の下を歩ける人種ではない。
必然、身内だろうが教えられない秘密の十や二十、持っている。自分以外の誰にも悟られず、墓の下まで持っていかなければならない秘密が。
私ですらそうなのだ。この道長い先輩にとっては何処から秘密が漏れるか、気が気でないだろう。
盗みに手を染めてからまだ日の浅い私と、ベテランの先輩。
推測でしかないが──私と先輩の年齢差は、凡そ一回り程度ではないかと考えられる。
そうなると、共通の話題はかなり絞られるのだ。
その上、私と先輩は、性格的にも社交的ではなかったらしい。
お互いに仕事が絡むと饒舌になる事もあるが、そうでなければ黙々と仕事を熟すのみである。
先輩がどうなのかは知らないが、私はプライベートでもそうだった。
悲観する訳ではないが、私は自分の事を、社会不適合者ではないかと思っている。
多分、先輩も似た様なものではないのだろうか。
※※※
「先輩、エメラルドと翡翠って何が違うんでしょーね」
「………………は?」
先輩が鍵穴と格闘を始めてから、2分半が経過した。
先刻、5分待てと先輩に抑止されたと言えども素直にはいそうですかと納得できる訳もなく、私はしきりに腕時計に目を通していた。
10秒ごとに腕時計で時間を確認し、雨景色と盗品を眺めるだけの時間が過ぎ──私は思った。
自分は何をやっているのだろう、と。
こうしている間にも、宝玉を盗まれた事に持ち主本人が気付くかもしれない。そして警察へ通報が入れば、逃走成功率はぐんと下がる。
そうなってからでは遅いのだ──と、焦りだけが積み上がる中、先の質問は自然と口から零れ出でていた。
先輩は端正な顔に似合わぬ大口を開け、視線を一瞬だけこちらに向けるも、すぐに鍵穴に視線を戻した。
して、何事も無かった様に、作業を再開し始めた。
……無視されるのはいつもの事だった。
私の口上が良くなかったのだろう。空気が読めず、間が悪く、何より話題のチョイスが最悪だ。
普段の私であれば、この時点で諦めていただろう。
けれど柄にもなくその日の私は口達者で、尚且つ引き際を知らなかった。
「ほら、色ですよ、色! どっちも同じ緑色じゃあないですか」
「まあ、平たく言えば緑だが」
先輩は暫く考え込む様に黙り込んだかと思えば、たっぷり5秒は間を置いて。
「……………………いや、全然違うだろ。エメラルドは青みがかってる」
そう、突っ込んだ。
※※※
慣れたものだと思っていたが、先輩との間に沈黙が生ずる都度、私は気まずさを感じ、それを我慢できずにいた。
自分に落ち度がなくとも、唇を引き結んでいる内に沸々と湧き上がる心情──焦燥か狂騒か、或いはひとさじの恐怖によるものなのか。
何にせよ、私は雨音に耳を傾けるのを中途で止め、脳内フォルダからその話題を引っ張り出した。
「ところで先輩、もう1つだけ質問があるんですけど──今回の依頼、何故引き受けたんですか?」
「何故って?」
その間も先輩は手を止めない。
鍵穴を凝視しつつ、平坦な声だ。
私は先輩の横顔を正面から見据え、右手を開いてみせた。
丁度、伸ばした5本指を先輩の頬に触れるか触れないぐらいまで、近づけて。
「メール読んだ時、驚きましたよ。報酬金、いつもの五分の一程度だったじゃあないですか。最初メール見た時、悪い冗談かと思いましたよ。先輩が冗談言っているところ、想像できないけど」
「……まあ、仕事中に冗談言うヤツはいないわな」
かつかつと苦笑すると、先輩は手を止め、私の方を見やった。
皮肉を言われた様に聞こえたのか、その顔は苛立たしげに歪んでいた。
私は即刻訂正するべく、眼前で両手を振り、頭を小さく下げた。
「まあまあ、そう怖い顔しないで下さい……。私だって、喧嘩を売りたい訳ではありませんから。ただ、常日頃ビジネスとして割り切っている先輩が、今回ばかりは何を考えておいでなのか、興味があったもので。とは言え、ある程度予想は出来ますけどね」
今回の依頼が始まる前に、軽い下調べは済ませてあった。
調べは、盗む対象、場所、時間、侵入から脱出の段取り等々……そして勿論、依頼人についても済んでいた。
そいつのバックボーンも、そいつが持っていた陳腐でありがちな目的も、大まかにではあるが、知っていた。
「た、し、か──親の形見を取り返して欲しい、でしたっけ。こんなお涙頂戴話に同情とは……少し、先輩らしくないのでは?」
嘲る様に言ったその言葉に、先輩はピクリと片眉を跳ねさせた。
今のは、どちらの発言に気分を害したのだろうと思っていると。
「らしくない、ね。そうかもしれない……ただ、一つ訂正しておこう」
先輩は憂さ晴らしついでに拳でハンドルを叩きつつ、開口した。
「同情じゃあ、ないよ。お前が先に述べた通り、これはビジネスだ。普段の仕事とそう変わらない。今回の報酬は、現金で貰わない事にしただけだ。偶にやってるんだよ。情に絆されたフリをして、破格の値段で仕事を受け、客に甘い蜜を吸わせるヤツをな」
そう言うと、先輩はやはりこちらを見る事はなかったが、僅かに口角を上げて微笑した。
しかし、その笑顔は見る者を魅せる類ではなく、むしろ不安を煽る類のものだった。
他者を嘲り、利用し、骨の髄までしゃぶり尽くす事を予感させる歪んだ笑みを以てして、先輩は更に舌を回した。
「甘やかしてやった客は、再び蜜を吸うために熱心なリピーターになる。これは分かるだろう。業務用スーパーの値引きされた惣菜だとか、コンビニの綺麗なトイレだとか。本質的には、やっている事はそう変わらない……敢えて差異を挙げるとすれば──ウチのサービスは、完全にこちらの気分でやっているという事だ。事前に計画する事はほぼないし、サービスを施す為の基準が厳密に決まっている訳でもない。
重要なのは、こちらが主導権を握る事だ。そして、こちらの気分次第で値段が上下すると──相手に薄っすら悟らせる。すると、客はその内、少しずつこちらの顔色伺いに精を出し始めるんだ。そこまでいけば、何時の間にか体のいい奴隷が出来上がっているという訳さ」
そこまで一気に言い切った先輩は、そこで漸く言葉を切った。
次いで長々と息を吐き、こう締めくくったのである。
「客に適度な成功体験をさせ、思考をコントロールする。簡単に言えば、それだけだよ」
それからの先輩は、再び詰まらなそうな無表情に戻っていた。
見ているだけで気が滅入りそうな横顔に、私は手を叩き、送れるだけの賛美を送っていた。
「成程なあ、勉強になるなあぁ。さすが先輩だあ」
「………………」
とは言え、先輩はあからさまなおべっかをあまり好まない質だった。
ゴマを擦る私に、視線の一つも向けやしない。なんと冷たい人なのだろう。嘆かわしい事だ。
だからという訳ではないが、私は先輩に或る事を訊ねた。
「ところで先輩──エンジンがつくまで、後何分ですか?」
「……あと5分、かな?」
先般よりも幾ばくか自信を失った声音で、先輩はそう返事をした。
あれだけ自信たっぷりに引き受けた仕事がままならないのかと、馬鹿にしてやろうとした矢先の事だった。
先輩が鍵穴を弄る横で──徐々に大きくなるサイレンの音が聞こえていた。
曇ったガラスを指で撫でつつ、私は溜息を吐いた。
そして思った。
(今回の仕事が終わったら、転職サイトでも眺めようかな)