春の風と掛け違えたボタン
「……私だけが舞い上がってたんだね」
遠くから、そんな声が聞こえてきた。
その声はまるで、俯瞰して見ているようだった。
ボタンのついていないブレザー。
澄んだ空に、大きな桜の木。
とても暖かい光景なれど、聞こえてきた声の主は見えてこない。
「え……?」
この世界に、一つのノイズが現れる。
声は細切れになり、断片的に聞こえてくるその声に、俺は耳を傾けた。
されど、決定的な声は聞けなかった。
その光景は何度も見て、何度も聞いた気がした。
目の前の場面は切り替わる。
俺の目の前に広がったのは大きな桜の大樹。
出会いと別れを告げる、そんな景色。
そんな桜の大樹を見て、俺の胸の中がざわついた。
嫌な、胸騒ぎだった。
いつにも増してノイズは増え、その声はかき消されていくように小さくなる。
いつにも増して?
自身の考えた言葉に疑問符が浮かんだ。
俺は……この光景を、何度も見ていただろう。なにを今更。
そんなことを考えていると、桜の大樹の目の前で並ぶ一人の少年と少女。
生意気そうな、生気を感じない目をした少年と、忘れようのない、金髪の少女。
そんな少年に、一人の少女は何もないブレザーを着て、何かを話す。
女の子が少年に話しかけたその刹那、ノイズが極端に強くなった。
何も聞こえなくなる。
何も……考えられなくなる。
そんなノイズの中、一言だけ救えた声があったのだ。
「じゃあね」
その刹那、その子の顔は黒く塗りつぶされた。
激しい吐き気が、俺を襲った。
「おあああああああああああああああああああああああああああ!」
俺は、ベッドから跳ね起きる。
そして、床に思い切り顔を打ち付けた。
「……また、あの子の夢か」
外ではスズメが鳴いている。
朝を告げるその動物に、俺は毎日嫌になる。
「そう言えば、今日は学校か」
頭を抱えながら、俺はカレンダーを見る。
冬真っ盛り、外に出れば白い息も出るだろうというそんな季節だ。
それも相まってか、この時期の平日というのはやけに布団から出るのが辛い。
それでも俺は、二度寝をする気にはなっれなかった。
「胸糞悪ぃ」
平日の朝。そんな、誰も憂鬱であろう時間にあの子の夢を見た。
この世界の福利厚生はどうなっているのだろうか。
「はぁ……起きるか」
そう言って、冷たい床に別れを告げる。
さらばだ、床君。
また会うその日まで。
そんな、打切り漫画の台詞のそれを床に吐き捨てて、俺は早めに起きてしまったがゆえに辛くなってしまった瞼を無理やりにでも開けて、学校へと向かうのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
あぁ、学校というのはなんて無慈悲に出来ているのだ。
陰の人間は淘汰され、陽の人間に領地を占領される。
これが弱肉強食と言うやつか、なるほど。
などと、こう考えるのには訳があった。
なぜなら、絶賛俺の机が陽の人間に占領されているのだから。
「あ、あのぉ、そ、そこの席、なんですけど……」
もごもごと、その悪魔たちに抗議する。
どうだ見たか、この俺の勇敢なる抗議を!
「あ? なんか文句あんの?」
どすの利いた声で跳ね返される。
「いえ……べつに……な、ないですぅうううううううううう」
もう一度言おう。
この世界は弱肉強食なのだ。
えー、始業の鐘も鳴りぞろぞろと自分の机へと戻っていく陽の人間。
やっとのことで空いた自分の席へと腰かける俺。
理不尽の荒波にもまれようと、必死に我慢した俺に、スタンディングオベーションとノーベル平和賞を授与したい。
そんな中、教室の扉が開いた。
当たり前だが、ここは学校だ。先生が入って来るのは何ら不思議ではない。
しかし、この時の先生は、少しばかりいつもと様子が違った。
「はーい。静かにしろー」
先生がそういうも、生徒たちは一向に静かにならない。
これが世紀末か~。などと思っていると、先生は爆弾を投下した。
「今日は転校生が来るんだが、それでも静かにしてくれんか~?」
その一言で、教室が夏休みのプールくらい静かになる。
いや、夏休みのプールだなんていうザ・青春のようなところに行ったことはないのだが。
それにしても、転校生か……。
ラノベの影響もあってか、俺は少しばかり期待をする。
しかし、そんな希望はあっさり砕かれる……それも最悪の形で。
「入ってきたまえ」
先生の号令と共に、その子は教室に入って来る。
その入ってきたのは女の子であった。
教室が騒めきだす。
それもそうだ。
入ってきたのは、長い金髪を美しく流し、その瑠璃色の眼はここ、日本に住む人たちにはあまりなじみがない。
刹那、男子は歓喜を上げる。
当たり前だ、俺もそっち側なら陽の人間ほどではなくとも、心の中でガッツポーズをとったことだろう。
しかし、俺はそんなことは出来なかった。
だって……。
「さぁ、星宮さん。皆に自己紹介をお願いしてもいいかな?」
その子の名前を、俺は知っていたから。
そう言われた刹那、彼女は黒板に置いてあった、チョークを持ち、おもむろに書き出した。
だんだんと現れるその文字に、俺は徐々に心臓が握られていっている気がした。
そうして、チョークを置いた彼女は、前に向き直り、自己紹介を始めた。
「おはようございます。今日から、このクラスの一員となる……」
気のせいだろうか、彼女は、俺の座っている窓際の一番端っこを見て告げたような気がした。
「星宮 サーロ(ほしみや さーろ)って言います」
この時間、俺の放心は止まらなかった。
ただただ、目の前に現れた少女を、俺は見つめることしか出来なかったのだから。
えぇ、冬はと言うのは、こんなにも寒い季節だったのでしょうか。
外を見れば、少しばかりか雪が降っている。
東京での雪は珍しいだろうに、このクラスでは一向に話題が挙がらなかった。
何故かって? そりゃぁ、ねぇ?
「久しぶりですね? 異羽?」
この言葉に、周りの視線はさらに酷く、寒々しいものとなった。
今更ながら、俺の名前は利波 異羽。
ちょっとばかし過去にドラマのあった、普通の高校生……だったものだ。
先ほどから送られてくる彼ら彼女らの視線は、このくそ寒い冬をさらに冷やしてくれた。
女子は言うに及ばず、男子からの視線は寒さを超えて、もはや痛みまでをも感じるようになった。
なんなら、ジュースでも入れてみんなで乾杯します?
そんな冗談にも似つかない現実逃避は、なんの意味も持たない。
俺は、その視線に耐えられなくなり、教室を速足で逃げ出す。
「異羽!」
少しおかしなイントネーションは今も治っていないようだった。
空は暗かった。
雪が降っているのだ、それも当然と言えよう。
しかし、俺の心はもっと暗かった。
駆け足で逃げた教室には、しばらく戻れないだろう。
きっと今頃、俺の悪口にまみれているのだろうから。
そう考えていた刹那、俺の後を追うようにして、屋上の扉が開かれた。
「異羽!」
その少しずれたイントネーションは、俺の記憶を呼び覚ます。
「……久しぶり。サーラ。元気してた?」
その言葉を聞いて、彼女、星宮 サーラは口に手を当てる。
「なんで? 異羽! あの時みたいに、サーシャって……!」
そこまで言って、俺の瞳孔が見開いた。
「やめてくれ」
静かに、一言そう、告げる。
「なんで……今頃になって、俺の前に現れた!」
俺の感情のダムが決壊する。
もう、抑えようがなかった。
「なんで! 俺を見限ったお前が! 俺の名前を呼ぶんだ!」
俺は息を荒げながら、彼女を、サーラを怒鳴りつける。
「なんで、いま、さら」
俺は、その場に座り込んだ。
このままだと、泣いてしまいそうになるから。
サーラの瞳は、酷く揺れていた。
その瑠璃色の瞳には涙をため、俺を見つめる。
泣きたいのは、こっちなのに。
「どう、して、そんなことを言うのぉ? 私、異羽に会いたくて!」
そこまで言って、彼女は屋上の扉に手を掛けた。
口元を押さえて、そのまま走り去る。
なんで、今更。
俺はあの日の事を思い出す。
もはや、意図的に思い出すこともないだろうと思っていた、その記憶を。
◇ ◇ ◇ ◇
「「桜が舞う今日この日、僕たち、私たちは」」
「「卒業しまーす」」
桜が咲き乱れる四月、様々な学校が卒業式を迎えるこの季節。俺達の学校も例に漏れず卒業式だった。
様々な同級生たちが、自身の制服のボタンを交換し合う。
中学のボタンなど、一体誰がもっているのだろうか。
そういう俺も、ある一人の少女とボタンを交換しようと少女を探した。
約束、していた。
今日、この日、二人で制服のボタンを交換しようって。
うちの中学校は、ブレザーのボタンが一つしかなく、その一つのボタンを交換すると、一生の恋人、または一生の友達になれるというジンクスがあったのだ。
俺は、自身のボタンを持って、あの子の、サーシャのところへと向かった。
恋人でも、それ以上の関係でもなかった、俺達。
それでも、俺はこの関係を、誰にも無い、特別な関係だと思っていた。
サーシャの所に行こうとして。
「ねぇ! 異羽君!」
俺は、一人の女の子ひ呼び止められる。
「ん? なに?」
俺は、早くサーシャの所に行きたかったのだが、友達を無碍にすることも出来ずその女の子呼び止めに答える。
「あの……そのさ」
もじもじと指をこねくり回す女の子。
早くサーシャの元へと行きたかった俺は、若干の苛立ちを覚えながらも、その女の子の言葉を待つ。
かれこれ、五分は待っただろうか、女の子は、大きく深呼吸をして俺に言った。
「その……異羽君のボタン、私にくれない?」
衝撃的な一言だった。
俺は、左手に握っていたボタンを強く握りしめる。
「……? その、左手に握ってるのって、もしかして」
女の子は、俺の左手を見て、少し驚く。
「よかった! まだ誰にもあげてないんだね!」
なにを勘違いしたのか、女の子は飛び跳ねる。
「はい! これ私のボタン!」
そう言って、女の子は自身のボタンを俺に突き出す。
俺は、少し困惑しながらも、その申し出を断った。
「ごめん、実は俺、好きな人が……」
草むらが鳴る音がした。
鳥だろうか?
草むらに目をやった俺は、再び女の子の方へと視線を向けた。
「ごめん。俺、好きな人が居るんだ……このボタンは、その子にあげたい」
そう言うと、女の子は、少し涙目になる。
「そう、なんだ……ごめんね」
女の子は、口元を手で押さえ、走りさって言った。
俺は、心の中で謝りつつ、サーシャのもとへと走って行くのだった。
「やぁ! サーシャ!」
しばらく走って、学校のシンボルである大きな桜の木に着く。
そう、ここが、俺とサーシャの集合場所だ。
その長い金髪は、春風に流され、とても綺麗だった。
「サーシャ! ボタン……」
そこまで言いかけて、サーシャは自身のブレザーを俺に見せる。
「…………………………え?」
俺は、文字通り、呼吸を忘れた。
だって、だって。
「サーシャ、ボタン、は?」
そう、彼女のブレザーにはボタンが付いていなかった。
荒らしく取ったのか、ブレザーはほつれていた。
「あげたよ」
その一言に、俺は再び呆けた。
あ……げた? いったい、誰に
「異羽……私だけが、舞い上がってたんだね」
彼女の頬に涙が伝う。
「じゃあね」
サーシャは、俺の前から消える。
足早に、逃げるかのように。
俺はそのまま突っ立ていることしか出来なかった。
しかし、これだけは分かった。
「あぁ、振られたのか。俺」
そう思えば思うほど、俺の心は締め付けられる。
こんなことなら、あの子にボタン、あげちゃえばよかったなぁ。
そう見上げた空は、嫌味のように青く、美しく澄んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
私は、屋上から逃げ出した。
異羽が、私を拒絶したから。
久しぶりに会えた異羽。
私は、嬉しさのあまり、彼に飛びついた。
だけど、彼は違った。
まるで、私と会うのを怖がっていた。
でも、分かっていた。
中学の卒業式の日、私は彼を強く拒絶した。
あの頃の関係には、もう戻れないと分かっていたけど。
それでも、それでも。
◇ ◇ ◇ ◇
この日を、私はどれほど楽しみにしていたか。
桜が綺麗に舞っていた。
日本に来て、桜を見ることは沢山あったけど、こんなにも綺麗に見えた桜は無かった。
この学校には、ジンクスがある。
一つしかないブレザーを交換すればその人との関係が永遠に続くというジンクスが。
私は、異羽との集合場所である、大きな桜の木の下へと向かう。
目の前には大きくそびえる桜の大樹。
渋いという理由から、このスポットは人気がなかった。
だけど私は、自身のブレザーのボタンを揺らし、彼を待つ。
そよぐ春風は、とても気持ちい。
しかし、集合の時間になっても、彼は来なかった。
私は、心配になりつつも、彼を信じて待った。
しかし、五分以上、異羽は来なかった。
私は、不安になり、彼を探しに向かう。
「……と……タン……してくれない?」
近くから人の声がした。
しかし、声の主は女の子。
きっと彼ではないだろう。
私はそのまま身を翻そうとして。
「……好きな人」
そんな声が聞こえた。
しかも、その声は、わたしの聞きなれた声であり、私の探していた人。
そう、異羽だった。
私は息を飲んだ。
その声は異羽の物なれど、その言葉は、異羽の目の前の少女に吐かれていた。
好きな人。
その言葉に、私は激しく動揺してしまう。
私たちは、恋人ではない。
そんな特別な関係でもない。
だけど……。
「舞い上がっていたのは、私ダけ?」
私は、どうしようもなく胸が締め付けられる。
辛くて、痛くて、今にでも這い出てくるような感情がうごめいていた。
「!?」
私は走り出す。
その途中は、私はボタンをブレザーから引きちぎった。
彼は、もう、私の事を想ってくれてはいない。
そう分かると、私の胸はきつく締まる。
私は桜の大樹の下まで戻った。
きっと、彼は分かれを告げにやってくる。
その為に、私をここに呼んだのだろう。
……この関係に、終止符を打つために。
しばらくして、彼は私の前に現れる。
勿論と言うか、ブレザーのボタンは無くなっていた。
あぁ、やっぱり、好きな人っていうのは……。
私は、今にでも泣きそうになる。
辛くて、苦しくて、それでいて、とても悔しい。
春風が、私の頬を撫でた。
髪が舞い、目の前の彼は見えなくなる。
「やぁ! サーシャ!」
彼は、なんの躊躇いもなく、私の名前を呼ぶ。
それが、とても悔しかった。
想っていたのは、私だけだった。
そう、言われた気がしたから。
「…………………………え?」
「サーシャ、ボタン、は?」
白々しい。
私は、右手に握っていたボタンを強くに握り、彼に嘘を吐く。
「あげたよ」
彼は呆けていた。
なにを今さら。
「異羽……私だけが、舞い上がってたんだね」
その言葉を吐いた瞬間、私の感情は決壊しかける。
早く、この場を離れたかった。
「じゃあね」
彼に別れを告げた。
春は、出会いと別れの季節だ。
だけど、私にとっては、別れの季節だった。
ただ、それだけ。
「あ! サーラちゃん!」
落ち込んでいた私に話しかけてきたのは、異羽の好きな女の子。
「……私見ちゃったの」
あざ笑いにでも来たのだろうか。
今の私は何も聞きたくなかった。
特に、この女の子の声は聴きたくもない。
そんな私の気持ちなど知るはずも無く、女の子は続けた。
「異羽君の好きな子って、……サーラちゃん、だったのね」
………………………………え?
その後、私はことの顛末を聞いた。
事実を、彼の想いを、私は知らぬうちに踏みにじっていた。
桜の大樹の下に急いで戻った。
しかし、彼はもう、居なかった。
「あ……あああああああ」
この晩、私は家で泣きじゃくった。
自分のやらかした失態に、早とちりに、勘違いに。
あの時の自分を殺したかった。
私は、泣き腫らした瞼を冷やすために外に出る。
あの温かった春風は二度も来なかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「やっパリ、誤解はㇳかないと!」
私は来た道を引き返す、彼の居た、屋上へと引き返そうとして。
「ちょいと待ちなよ! そこの女の子!」
私は肩を掴まれる。
「!? ハナして!」
「あれぇ? もしかして外国人? こりゃラッキーだぜ」
私の肩を掴んだのは、ワイシャツのボタンを全開にし、髪を刈り上げていた男。
いかにも不良と言った感じの男だった。
「外国人はまだ、喰ったことねぇんだよなぁ? どんな感じなんだぁ?」
男は、私のワイシャツに手を掛け
「それ!」
その破き捨てた。
「きゃぁあああああ」
思わず悲鳴を上げた。
怖くて、足がすくんだ。
足に力が入らず、逃げ出せない。
「へへ、可愛い下着付けてんじゃん」
私の胸元を見て、薄ら笑いを浮かべる下種野郎。
私は、自分の胸部を隠して、震えていた。
そんな時だったか。
不意に、一人の名前が口から零れた。
「助けて、異羽」
そんな、来るはずも無い男の子の名前を、私は呼んでいた。
「異羽……異羽ぅ」
「さぁ、次はスカートだなぁ?」
私のスカートに手が掛けられる。
「嫌! ヤめてぇ!」
その刹那、だっただろうか。
その不良は、立ったまま白目を剥いていた。
「え?」
不良の股間から生える一本の足。
不良は、その場に倒れた。
金的を食らったのであろう不良は、寝っ転がったまま泡を吹く。
そして、不良の後ろから現れたその人を見て、私は違う意味で涙があふれた。
「なん……で?」
「こ……とう?」
目の前に現れた、私の想い人。
そして、私が拒絶してしまった、私の想い人。
きっと、来ないと思っていた、私の想い人。
「勘違いするな……目の前で知り合いが乱暴されるのを見たら、目覚めが悪いだけだ」
そう言って、異羽君はそっぽを向く。
そんな彼が、どうしようもなくかっこよかった。
「異羽! あの!」
私が抱き着こうとして。
彼が、自身のワイシャツを脱いで、私に着させてくれる。
「とりあえず……着てくれ」
私は、下着だけなのを忘れて、異羽に抱き着こうとしていた。
私は、彼のワイシャツを羽織る。
当たり前だけど、異羽の匂いがした。
「あのね、異羽」
異羽は、私の方を見ない。
だけど、私は叫ぶ。
彼に、いや。
あの時の異羽君にも聞こえるくらいい大声で。
「私は、貴方の事が好キ!」
その一言に、彼の肩が跳ねる。
「なんで、今さら」
異羽は、それでも私を見ない。
「あの時から、今まで、私は異羽の事を忘れたことがありません!」
私は、自身が肌身離さず持っていたボタンを異羽に渡す。
「今から、交換、してくれませんか!」
◇ ◇ ◇ ◇
「今から、交換、してくれませんか!」
サーシャのそんな声が、俺の心臓を強く握る。
今更、そんなおとを言われても。
実際。俺もボタンは持っていた。
嫌な記憶であっても、忘れられずにいた。
新しい女の子を見つけよう。そう思っても、俺は彼女を、サーシャを思い出してしまっていた。
だけど。
「お前……は」
「お前は俺に行ったじゃないか! じゃあね! ってなのに、なんで今更!」
そう言った刹那、サーシャは、俺にハグをする。
「ごめん……なさい」
その一言に、俺は言葉を失う。
彼女のこんな顔は、初めて見たから。
「ゴメンね……いっぱい傷つけて」
サーシャは、俺を強く抱きしめた。
何度も、何度も強く、力を籠める。
「だけど、これだけは信じて……」
サーシャは、俺から離れると、その笑顔を俺に見せる。
「私は、異羽のことが、一番好き」
その言葉で、俺の感情も決壊する。
そんなの、俺だって、俺だって。
「俺、だって……」
この言葉を漏らせば、もう止まらないだろう。
だけど、俺の口は、そんな制止を知らず、溢れ出す。
「俺だって、お前のことを忘れたことはなかった! 何度も、何度もお前の夢を見た!」
サーシャの頬を涙が伝う。
「それでも、それでも俺は振られたと思って、それで、それでぇ!」
言葉にもなっていない。
そんな曖昧な感情が、言葉が、俺の心を支配する。
だけど、この気持ちだけは曖昧なんかじゃなくて。
「俺も、お前が大好きなんだ」
そこまで言って、俺の心は落ち着きを取り戻した。
サーシャは、涙を伝わせた跡だけを残して俺の言葉を聞いた。
俺は、ポケットから、一個のボタンを取り出す。
「俺と、ボタンを交換してくれ」
その言葉に、サーシャははにかんだ。
そして一言、俺に告げた。
「はい。喜んで」
◇ ◇ ◇ ◇
その後、サーシャから誤解の話を聞いた。
長い、長い話の終着点なような気がした。
止まない雨がないのと同じように、きっと、来ない冬もないのだろう。
だけどそれにはきっと春が来る。
世界はそういう風に出来ている。
その後、冬が開け新学期を迎えた俺は、美女な転校生といきなり付き合い出した男というレッテルを張られ、気づけば、春なのに俺の周りだけが絶対零度の氷点下な南極になった。
だけど、それでも温まれる暖が近くには出来たという。
「異羽~! 一緒に帰りましょう!」
そう彼女の呼ぶ声がした。
何度も、何度も聞いたような、彼女の声だ。
さて、僕はそろそろ帰るとするか。
暖が消えてしまう、その前に。
「お~う。今行く~」
そんな声とともに、そっと春の風が俺の頬を撫でたのだった。
FIN
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