「籤」於日本橋 2-3
「茜」
ぽかぽかした陽気の中、富久壽に優しく呼ばれて少女はハッとした。高台の縁石に腰掛けてから、だいぶ長いことそうしていたような。
「あ……うとうとしちゃった」
「気持ち良さそうにしてるから、もう少し眠らせてやりたかったんだが……どうやら戻らねばならんらしい」
「なにかあったの?」
「境内に不穏な空気を感じる。良からぬ事件が起きたのやもしれん」
祖父は厳しい瞳で境内を見下ろす。茜は黙って頷いた。
ふたりが参道へ下りると、境内は騒然とした空気が流れていた。親子連れは特に不安そうな表情を浮かべている。そろそろ昼休みが終わる時刻だというのに、祭りを再開しようとする動きはない。
拝殿前も同様だ。思わず立ち尽くしていたところ、ふたりの姿を見つけた三善が慌てて駆け寄ってきた。
「じいちゃん、茜、どこ行ってたんだよ!」
「ごめん、祠におむすびお供えしてきた」
「一言告げてくれよ。姿が見えないから心配してたんだぞ!」
「すぐ戻るつもりだったから」
「何が起きた?」
富久壽が問うと、三善は懐から一通の書状を取り出した。
「これが……」
祖父が受け取り、広げる隣から茜も覗き込む。見覚えのある字体に少女の顔が曇った。
『無差別に一人、子供を預かった。
命が欲しければ例大祭を中止しろ。警告はこれで最後とする』
無言で読み終え、富久壽は腕を組んだ。瞼を閉じて思案しているのか、沸き上がる怒りを抑えているだけなのか。
祖父の様子を窺いながら、三善が説明を加える。
「下手に話を広げれば混乱すると思ったけど、子供の安全が最優先だから、情報を掻い摘んでみんなに公開したんだ」
掻い摘んでとはいっても、境内の雰囲気から察するに、ほとんどの情報を伝えたといって違いないだろう。
富久壽の判断を仰ぐのが適切だったかもしれない。だが三善を責めることなどできない。待つという行為は彼が、若しくは茜が特に苦手としているところだ。茜が同じ立場だったとしても、何かしらの行動を起こしただろうから。
やがて祖父は大きく頷いた。
「書状の目的は、境内を混乱に陥れることとみて間違いなかろう。それでも儂は三善の選択を尊重する」
兄の顔に安堵の色が浮かぶ。
「問題は相手の狙いが、祭りの中止だけにあるのかだ。その場合、書状で不安を募らせた町人がお上に駆け込めば、即座に祭りは中止。目的は果たされることになる。わざわざ本当に子供を拐う必要もない。むしろリスクが増すだけだ」
祖父は一呼吸置いてから、
「しかし、相手が狂気の人攫いだった場合、祭り云々の話ではなくなってくる。全ては計画的な犯行。儂らに対する復讐に近い」
「復讐……」
「ならば儂らにできることは、被害が発生する前に祭りを止めてお上の協力を仰ぐか……」
「……」
茜が不安そうに俯く。しかし富久壽は迷いなく続けた。
「それとも自らの手で犯人を捕まえるのか」
「え?」
「祭りは止めない。儂らは書状の真偽を確かめながら、犯人の手がかりを探す。特に子供達の動向だけははっきりさせておきたい」
「っ……うん!」
もちろん相当の覚悟が必要な決断である。書状の予告どおり本当に子供がいなくなり、その子にもしものことがあれば、神社へ責任が及ぶことになる。祭りの中止どころか、神社が取り潰しになるかもしれない。
「このあと儂は正殿で祈祷の準備を行う。三善は祭りを進行しながら、情報収集にもあたりなさい」
「任せてくれ。境内には絶対手出しさせない!」
「私は? どうしたらいい? もう仲間外れにしないよね?」
「仲間外れなどではないんだが……この際やむを得まい。茜には火消への挨拶を頼みたい」
山車の行軍で火消に協力を仰ぐにあたって、火消全体を統括する長が、毎年担当する組を割り当てている。指名を受けた組は決められた詰所で控えている約束で、今朝すでに現場入りしてるはずだ。
例年、昼休憩後に順路の最終確認をしながら、詰所で挨拶する流れになっている。
「うん、わかった」
「茜に行かせるのは怖いな……」
「なにそれ、私そんなに頼りない?」
「違う。今年の担当は羅組なんだ」
ら組。
日本橋界隈の火消は、四十八の組で成り立つ。それらは『いろはにほへと』で呼ばれ、更に組を表す当て字が付けられている。
日本語は五十音あるが、いくつかは語呂が悪いという理由で忌み嫌われ空き枠になっていた。『ら』もそのひとつだった。
しかし数年前、突如羅組を旗揚げした人物が現れた。
当て字の如く荒くれものの集団で、どんな手段を使ってでも火事場に一番で駆けつける、気に入らない組があれば力で壊滅に追い込む、女子供にも容赦しないなど、悪評は枚挙に暇がない。もし茜のような年頃の娘ひとりで出向いたならば、無事に帰ってこられる保証はない。
「やっぱり俺もついていく!」
「三善は自分の仕事を優先しなさい。それについては儂に考えがある」
富久壽はやたら自信を持った顔で、
「腕に覚えのある者に、同行を頼もうと思っている」
「誰に?」
茜は胸騒ぎがして、間髪入れずに尋ねた。
「金角と銀角といったか、遠江屋の倅の用心棒だ。茜も日頃から仲良くしておるのだろう。警護についてもらうよう依頼してみよう」
やはりか……茜は思わず頭を垂れた。
その大男たちと共に行動すれば、もれなくオマケが一名付いてくる。富久壽はどうやら大きな勘違いをしているらしい。こんなことならもっと祖父にも悩みを相談しておくべきだったと、茜は心の底から悔いた。
「仲良くないんだけど……」
「あの者らには裏表がない。信頼に足る人物だよ」
確かに裏はない。表ばかりを主張してくるのも困りものだが。
「……うん……頼んでみる」
けどまあ、見知らぬ人物に警護されるよりかは気を使わない分だけ楽か。少女はそうプラスに考えざるを得なかった。
「行きます!!」
「……もっかい言うね。金角と銀角を、貸してほしいの」
「行きますうう!!」
「噛み合ってないのわかってる?」
金箔の着物を横目に、茜は溜め息をついた。
「あなたは付いてこなくていいの」
「こいつらを借りたいなら、俺を連れて行く他に道はないぞ!」
冷たくされていた少女から初めて声を掛けられ、鉄叉は全力で舞い上がる。
「茜さん、ぜひ若様も連れていってやってください」
金角と銀角が頭を下げた。顔に似合わず礼儀正しい。彼らは毎日どれだけ気を使って生きているのか。きっと涙ぐましい努力があるのだろう、と少女は勝手に想像した。
「……わかった。じゃあ鉄叉もついてきて」
「婚約を受けてくれるのかい!」
そこはスルーする以外に手はない。
「準備があるなら待ってるから。といっても、火消の詰所を訪問するだけなんだけど」
「私たちは大丈夫です。若様、準備はよろしいですか?」
「麩菓子が食べたい」
「茜さん、麩菓子の屋台はありますか?」
「知らないよ! 言っとくけど、これは真面目なお仕事なんだからね。遊び気分なら来なくていいから。まあ、屋台があるなら参道だからこのまま向かいましょ。それから」
茜は大きく目線を外しながら付け加えた。
「私の分も買ってきてよね……」
屋台は昨夜からかなり増えていて、目的の屋台も見つかった。結局四人とも麩菓子を買うことになり、茜の機嫌もだいぶ直った。
焼き立ての麩菓子を頬張りながら、火消の詰所を目指す。金角と銀角は一口で食べ切ってしまった。銀角は神経質な様子で、手に付いた砂糖のベタベタを気にしている。
最後に茜が食べ切ると、一行はその足を早めた。
月読神社を出発する山車は、まず南へ向かう。程なくしてぶつかる大通りをひたすら西へ。日本橋区にある歓楽街が中間地点だ。その手前で右折し、北側の大通りを東へ進んで神社まで戻る、という順路である。
本来祭りで山車を繰り出すような距離ではない。それでも富久壽は、最終地点を日本橋に設定したかったらしい。もちろん役所の許可は下りず、仕方なく合意したのが、人通りの増える葺屋町芝居小屋通りまでだったという。
四人は山車の順路を確認しながら早足で進む。山車の行軍は夕刻からだ。まだ町にはそわそわした雰囲気は流れていない。
やがて中間地点の葺屋町に差しかかった。
その時、鉄叉が唐突に立ち止まった。どうしたことか、顔を真っ青にしながら物凄いスピードで道の端まで逃げていくではないか。そして叫ぶ。
「ぎゃあああああ!」
「情緒不安定なの?」
「いいから、全員こっちへ来い!!」
訝しげに茜と従者も続く。
すると道行く人らも、鉄叉と同じように道端まで避難してきた。誰か偉い人でもやってくるのだろうか?
黙って観察していると、数人の男が道の中央を悠々と闊歩してくるではないか。強面で体格がよく、体中に傷を負っている姿は山賊をイメージさせる。彼らはお揃いの紺色の法被に身を包んでいた。
「あいつらと目を合わすなよ……!」
周りの町人も一様に怯えた表情で男達をやり過ごす。
そのまま法被の集団が通り過ぎると、緊迫した空気が緩み、やがて元の活気が戻ってきた。
「ふう、危なかったぜ」
「さっきの誰?」
往来を再開した人々を眺めながら、茜は不思議そうに首を傾げる。
「羅組だよ。まったく、どうしてこんなところをうろついてやがるんだ」
「羅組って、火消の?」
「ああ。悪逆非道の限りを尽くす、いろは四十八で最悪の軍団だ。もしも奴らの機嫌を損ねたら、詰所へ連れ込まれ、百叩きにされ、指を気分の数だけ切り落とされ、火で散々炙られた挙句、一生奴隷として生きていくことになるんだぞ」
「なにそれ?」
「あいつらの噂だ! 特に頭領の羅刹は鬼の生まれ代わりと言われていて、目を合わせただけで命を取られるらしい。間違っても出会いたくないな」
「私たちが向かってるの、羅組の詰所だよ」
「……は?」
鉄叉の顔がぐにゃりとひん曲がった。
「言ってなかったっけ」
「茜、気は確かか……? 奴らの詰所に出向くなど死ににいくのと変わらんぞ……」
「大丈夫だよ、そのために金角と銀角にきてもらったんだから」
「じょ、冗談じゃない! 俺は絶対に行かんからな!」
「鉄叉は別に来なくていいよ」
「金角と銀角は俺の近くにいなきゃ嫌だ嫌だ嫌だ!」
「あのね……」
「怖い怖い怖い怖い怖い!」
「なんなの、ついてくるって自分で言い出したくせに!」
「いくら茜の頼みでも、契約書を交わしてなければ強制力はないのだ! あんな口約束など無効だ!」
更に鉄叉は両手を打って、
「そうだ。これから芝居でも観てこよう!」
「お芝居……?」
「葺屋町はすぐそこだろう。十三夜で休演のところもあるだろうが、俺の好きな歌舞伎は連日満席だからな、今日も公演してるに違いない。昼公演を観て、夕飯を食えばちょうど山車の時間になるはずだ。夕飯は鰻にしようか。奮発して特上のうな重にしよう。夜は長いから精をつけねば。うむ、これは良い一日の使い方だ!」
「…………」
「若様、茜さんが怒ってらっしゃいます」
「なぜだ?」
「若様があまりにも酷いことを仰るものですから」
「俺が茜を怒らせるようなことを言うものか! どうした茜、浮かない顔をして。そんなに鰻が羨ましいのか? 今度食わせてやるから今日は我慢しろ。それよりも、これから羅組へひとりで出向かなければならないことを心配するべきだ。茜に万が一のことがあったら、俺は決して羅組を許さない!」
「もういい!!」
鉄叉の頬を渾身の力で平手打ちして、茜は走り去った。あんな奴を頼ろうとした私がどうかしていたと。
結局、羅組の詰所には茜ひとりで向かう羽目になってしまった。