「籤」於日本橋 2-1
目覚めると蒲団の中だった。
障子から眩しい陽の光。賑やかな声。見慣れた天井。
既視感があって茜は一瞬ドキリとしたが、自分の部屋と蒲団の香りに安心して、再びむにゃむにゃ目蓋を閉じる。
そういえば、いつの間に蒲団まで戻ってきたんだろう。昨夜いろいろ事件があって、御神籤を探して正殿に入って……あの後どうなったんだっけ。三善が部屋までおぶってくれたのだろうか……あれ、じゃあ今日は例大祭当日……?
茜は悲鳴をあげながら蒲団から飛び起きた。
これもうお祭り始まってる……!
少女はくるくる回りながら大急ぎで寝巻の帯を外した。胸の前で浴衣が開いて、透明な肌を露わにしながら箪笥から巫女装束を漁る。
取り出した衣装を蒲団の上に置いたところで、枕元に目が止まった。
千早が綺麗に畳んである。祖父が置いてくれたのだろう。
例大祭と正月しか着ることがない特別な衣装だ。それを着て外へ出たら、たくさんのものに向き合わなければならない。祭りの運営、寝坊の謝罪、捜してくれた皆へのお礼、侵入者の対応……
他者に対して俯きながら生きてきた茜にとっては苦難の連続だ。
少女は大きく息を吸い込み、持てる意志を身体の隅々まで行き渡らせた。
まずは富久壽を探してから、自分も働くことを伝えよう。自由にしてなさいと言われたけれど、やっぱりひとりだけ遊んでいるわけにはいかない。
そうと決まれば早く着替えなければ。茜は肩からするりと浴衣を脱ぎ、襦袢に腕を通した、次の瞬間――
目の前の襖がものすごい勢いで開けられた。
突然の出来事に、茜はそのままの態勢で固まる。
現れたのは、白衣を襷掛けして汗をびっしょりかいた三善だった。
兄は手拭で額を拭いながら、爽やかに第一声を発した。
「あれ、お前太ったか?」
少女は井戸水で顔を洗い、清潔な手拭で丁寧に拭いた。
連日の悪夢に、今日もつい手が出てしまったが、さすがは三善といったところか、今度は見事に茜の拳を躱してみせた。避けた反動で左目の下を柱に強打したのは仕方ないとしても、『二日連続で兄を殴った。しかも綺麗に右左』などと噂が広まることはできれば避けたい。
中庭に三善の姿は無かった。確かに油を売ってる暇はない。やらなければならないことは山積みのはずである。
太ったのではなく成長したのだ! と苦情を入れるのは後にしよう。
茜は小走りで、拝殿前の広場へ向かった。
境内は大勢の参拝客で溢れていた。あまり背丈がない茜は、遠くを見渡すことができない。それでも、日の光を弾き返すように輝く金色は目に入った。一年ぶりに外気を吸うことを許された山車が、広場の中央で主役を主張するように悠然と存在している。
山車の整備を担当する山車班の長は、菜々と琥太郎の父親である玄治だ。親子ともども交流があり、神社からの信頼も厚い。茜も普段から本当の父親のように気兼ねなく接している。
玄治ならば祖父の行動を把握しているかもしれない。とりあえず山車の下へ行こうと、茜は広場に足を踏み入れた。
その途端、男性の声が響いた。
「いたぞ!! 茜ちゃんだー!!」
ぎくりとして少女は足を止める。集まる視線。
待ってましたとばかりに、様々な服装の男が一斉に茜を取り囲んだ。今年は宵宮に顔を出さなかったこともあってか、その勢いは例年よりも凄まじく、少女を囲む輪は何重にもできていった。
その全てが茜より遥かに背の高い青年である。分厚い胸板に全身を圧迫され、少女は悲鳴をあげた。
すると一転して、今度は男達から悲鳴があがる。
「どけいどけえい!」
低音の効いた迫力ある声と共に、茜を囲む輪の外側から青年がひとり、またひとりと地に転がっていくではないか。茜を挟む壁は急速に緩んでいく。
少女が見上げると、輪の上に抜き出た二つの顔。その顔は声の印象通り、極めて厳つい。
「若様がお通りだ!」
「どけいどけえい!」
ふたりの巨漢は群衆を蹴散らしながら、ついに茜の前までやってきた。睨みつけるような鋭い眼光で少女を見下ろす。尋常ならざる雰囲気。
輪は押し退けられ、茜の周りには空間ができていた。なんだか助けられた形になったので、茜は「ありがとう」と素直に御礼を述べた。
彼らは強面のまま顔を赤くする。
茜ははだけた襟元を正していると、大男の外側にできた茜に群がる青年の輪の、更に大外から喚き声が聞こえてきた。
「肝心の俺が入れないじゃないか! こらっ、通さないか!」
頭に響く甲高い声に、場が一瞬で冷たくなるのが分かる。そんな芸当ができる人物は茜が知る限りひとりしかいない。
「金角、銀角、助けろ!!」
「若様!!」
呼び掛けに反応したふたりの巨漢は、不快な声の発信源まで再び群衆を掻き分けていった。そして喚き続ける若様の襟を左右から掴み、力任せに担ぎ上げ、ふたりの中央で肩車するように乗せた。
一番驚いたのは助けを命じた本人だったようで、大いに怯んで仰け反ったが、両足をしっかり掴まれなんとか態勢を立て直す。
肩車されながらようやく茜の前まで辿り着くと、一連の失態など無かったように堂々と腕を組んだ。
金箔を施した悪趣味な着物に身を包んだこの男、名を鉄叉といい、茜に言い寄る青年の中でも断トツのしつこさを誇る。少女に唯一、『近づかないで』とハッキリ言わせた人物である。
さてその正体は、日本橋から三条大橋まで東海道に多くの支店を持つ両替商、遠江屋の跡取り息子だ!
と、いつも本人が必死でアピールしてくるのだけど、茜にとっては正直どうでもいいことで、生返事で応じるのが常である。
鉄叉を鬼のような形相で担ぎ揚げているのが、鉄叉の従者、兼用心棒。主人はふたりのことを金角、銀角と呼ぶ。
金角と銀角に担がれながら、鉄叉が茜の正面に立つ。少女は見上げるのも億劫でとっくに下を向いている。
「照れなくもいいんだぜ!」
鉄叉は得意の勘違いだ。
無理やり肩を引かれたライバルたちからいくつかの野次が飛んできた。男達からも疎ましく思われているのだろう。野次は次第に熱を帯びていく。
金貸しが稼業の両替商は、なにかと他人に恨みを買いやすい。鉄叉は人生の半分以上を野次と罵声に囲まれて生きてきた人間である。その程度の野次を、野次と感じられる豊かさを持ち合わせていない。
彼は茜に堂々と言い放った。
「結婚してください」
どうしてこのタイミングで――
野次は一瞬で止み、恐怖にも似た視線が送られた。
だが、当の茜も扱いには慣れたものである。すかさず主人を左肩に乗せている金角の脇腹をくすぐった。
「な、なにをなさるので!」
金角は暴れ出し、掴んでいた鉄叉の右足を放り投げた。勢いよく鉄叉が地面に叩きつけられる。その上にバランスを崩した銀角が倒れ込む。追い打ちとばかりに、倒れた銀角に足元をすくわれる形で金角が積み重なった。
滑稽なやられ方において三人を凌ぐ者はいないだろうと、いつも感心するところである。
「お断りします」
まあ感心は別として、茜は深々とお辞儀をしてから、押し潰された鉄叉を振り返ることなくその場を後にした。
拍手喝采の中、甲高い泣き声が響いてきた。
祭りはまだ始まったばかり。こんなところで体力を使うわけにはいかないと、少女は軽く頭を振って気合を入れ直した。