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  作者: 渡辺農夫也
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「籤」於日本橋 1-5

「御神籤はね、吉が出たからといって必ずしも良いことが起こるわけじゃない。凶が出たから不幸が訪れるわけじゃない。挑戦しようとしている目標や、これから広がる幸せな人生を想うだけでいい、具体的な希望を願うことによって神様が導いてくれるものなの。良い結果が出ればそのとおり行動すればいいし、悪い結果が出たとしても努力次第で運命を打開することができる」

「努力で変わるなんて、やっぱり御神籤なんて当たるわけじゃないんだ」

「当たるよ」

「当たらないよ」

「当たるよ」

「当たらない」

「当たるよ、絶対に!」


 ――目に大粒の涙を溜めて、茜は浅い眠りから目覚めた。


 夢か。

 茜は両手のひらで涙を拭った。右手に巻かれた包帯が濡れる。

 たまに見ることがある御神籤の夢だ。いつも同じ会話、同じ風景、私が話していたのは一体誰だったろう。考えた傍から内容を忘れていく、夢とはいつもそういうものだ。


 茜の部屋。静寂の空間。まだまだ朝がやってきそうな気配はない。五日も眠り続けたのだ、さすがにしばらくは眠れそうになかった。


 その時、廊下の床が軋んだ。

 隣の部屋の三善が外へ出ていくところだろう。

 宵宮が滞りなく終わり、侵入者の件を三善に話したところ、彼は驚いて境内の巡回を始めた。正殿の錠は破られたままだ、いつまた襲撃されるか分からない。大事な場面で駆けつけることができなかった反省もあるのだろう。

 これが四回目の巡回である。少しは眠っているのか、明日に響かなければいいが、とさすがに茜も心配になってくる。

 床の軋みが離れていくのを聞きながら、少女は蒲団から身を起こした。寝巻の上から愛用の半纏を羽織り、ゆっくりと襖を開けて静かに三善の後を追った。


 外の空気はだいぶ冷えている。首元が寒くて、何か巻いてくればよかったと後悔しながら、茜は正殿をそっと窺う。

 三善は扉の前で微動だにせず正座していた。左の膝元には、一振りの刀。不用意に近づけば抜刀の餌食になるだろう。道場や庭先でしょっちゅう稽古を眺めている茜には、そんな光景が容易に想像できた。


「茜か?」

「きゃっ!」


 十間はあろう距離から三善に呼ばれて、少女は身体をビクンとさせる。急いで正殿の正面へ回り、小気味よく階段を上って笑顔で兄に近づく。


「よく気がついたね」

「集中してたからな。気配と足音で分かる」

「結構遠かったのに」

「どんなに遠くても俺が茜の視線を感じ取れないわけがない」

「あっそう」


 茜は兄の隣に座った。木の床が冷たい。


「おい、病み上がりなんだから、寝ないと身体に毒だぞ」

「三善だって寝てないでしょ」

「俺には見回りをする責任があるんだ。さっきのいざこざだって俺が駆けつけていれば解決できたはずなのに。洗い物をしていたなんて一生の不覚」

「洗い物も大事だよ」

「月読神社は俺が守るんだ!」


 三善の口癖だ。両親が帰らなくなった後、彼は剣を習い始めた。それから十年経ち、すでに免許皆伝、師範代の資格を持つ。


「最近は物騒な事件が多いだろ。新手の盗賊団の噂を知ってるか?」

「盗賊団?」

「西方から進出してきた『カスガネ』とかいう奴らが、日本橋の屋敷や蔵を次々と襲ってるらしいんだ。狙われた金品は根こそぎ奪われてるらしい」

「……怖いね」

「もしそいつらの仕業だったら、鍵ひとつで防げるはずがない。御神体を守るためなら、俺が何日だって、何ヶ月だってここにいてやるさ」


 熱弁する兄の隣で、茜は膝を抱える腕にぎゅっと力を込める。


「ほんとうに御神体は正殿にあるのかな?」

「……どういうことだよ?」

「じいちゃんに聞いたんだけど、祭壇みたいな分かりやすい場所に勾玉は安置してないんだって」

「なんだそれ!」

「三善も知らなかった?」

「ああ、俺も祭壇には触れられないから」

「そうなんだ」

「隠し扉でもあるってことか? それともまったく別の場所に?」

「わかんないけど、きちんと祀ってあげられないなんてツクヨミサマに申し訳ないよね」


 さっきより悔しい気持ちが強くなってきて、茜は唇を噛んだ。三善も腕を組んで考えに浸っている。もちろん、三善が祖父に尋ねても結果は同じだろうし、あれこれ探れば祖父に怒られることは彼も解っているだろう。

 無言の時間が続く中、強く風が吹いた。

 少女は思わず肩を縮める。


「寒いなら戻ったらどうだ?」

「やだ」

「でもな、そんな薄着じゃ身体が冷えるぞ」

「大丈夫」

「俺の着物を羽織るか?」

「裸になるつもりなの……?」

「ならせめて蝋燭でもつけよう。少しくらい暖かいだろう」

「そんな変わらないよ」

「あと茜の顔がよく見えない」

「どうでもいいんだけど」


 三善は立ち上がり、正殿の扉に手を掛けた。


「えっ、正殿の蝋燭使うの?」

「俺達が使うんだからいいんだよ」

「なにそれ?」


 重そうな音を立てて正殿の扉が開く。もう二度と入ることはないと思っていたのに、いきなり中を覗くことができるとは。

 三善は燭台を手にしてすぐに戻ってきた。彼は扉を閉めて、元の位置に座る。茜との間に燭台を置いた。

 ゆらゆら揺れる炎を眺めていると、なんとなく暖かさを感じた。


「……小さい頃にも、例大祭が近くなってきた日の夜に、こうやって外にいたことがあった気がする。前夜じゃなかったかもだけど」

「覚えてる。お前が勝手に飛び出して行くもんだから、慌てて俺が後を追いかけたんだ」

「そうだっけ?」

「夜中に出歩くなんて危険だろう!」

「三善は変わらないね」


 楽しみにしている行事の前日というのは特別な感じがする。当日になってしまえばあっという間に終わってしまうから、それまでに如何に充実した時間を過ごせるかに懸っているのだ。そんなことを昔誰かが言っていたような。

 茜はひとつ思いついたことを尋ねてみた。


「他の神社でもさ、神社の娘さんは正殿に入れないのかな?」


 暗黙の了解だが、ふたりの間で正殿の話題には触れないことになっている。茜が関与できない場所であることが微妙な空気を生んでいたから。

 気が大きくなっていたのかもしれない。少し緊張しながら返答を待つと、兄は躊躇いもなく淡泊に答えた。


「普通はそんな不便なことしないだろ」

「えっ、そうなの?」


 思わず顔を覗き込む。

 すると、三善は目を大きくした。彼は嘘をつけない。答えてはいけない質問に答えたような、焦りの色がそのまま出ていた。


「ふーん」


 ずるいな、と茜は思った。


「じいちゃん、そういうところ厳しいよね」


 三善は苦笑いを浮かべることしかできない。


「祭壇に御神籤があることは知ってた?」


 続けて投げかけた質問に、兄の笑みは凍りついた。蝋燭のせいか月明かりのせいか、茜の目がキラキラ輝いている。そんな妹の好奇心を止める術など知るはずもなく、彼は素直に答えることしかできない。


「……知ってる」

「やっぱり私だけ知らなかったんだ。御神籤の筒に、私の名前が書いてあったの。昔は書いてなかったよね?」


 もう勘弁してくれないか、という表情の三善。もちろん兄の様子を気遣うような妹ではない。


「なんで祭壇に御神籤を祀ってるんだと思う?」

「さあな。勾玉の代わりにしてるんじゃないか」

「御神体の代わりにはならないよ」

「蔵なんかに放置しとくよりはよっぽどいいと思うぞ」

「そっか、たしかに」


 また風が強く吹いた。蝋燭の火が消えないように茜が両手で守る。自然とふたりの視線が少女の包帯に向いた。

 慌てて目を逸らす三善などお構いなしに茜は、


「この傷、私が自分で刺したんだよね?」


 三善が思いっ切り咳き込んだ。


「他に考えられないもん。どうして私こんなことしたんだろう?」

「誰も訊けずにいたことを、お前が訊いてくるな!」

「やっぱり訊けなかったんだ?」


 混乱する兄の顔を、茜は愉しみながら眺めた。今ならどんなことを訊いても許される気がする。


『お父さんとお母さんは帰ってくると思う?』


 ずっと、ずっと口にできなかった問いが喉まで上がった、次の瞬間――


 火薬の爆発音が響いた。

 拝殿の方向。恐らくは銃声。

 兄妹は顔を見合わせながら勢いよく立ち上がる。


「来た……侵入者!」

「待て。侵入者がわざわざ銃を撃つ必要がどこにあるんだ」

「行ってみる?」

「罠かもしれない。向こうへおびき出されている間に、正殿が狙われる可能性が高い」

「じゃあ二手に分かれよう」

「茜の方に来たらどうするんだ!」

「私だって神社を守るよ」

「馬鹿なことを言うな――」


 そこで三善はピタリと言葉を止める。同時に鼓膜が震えた。ひゅんと甲高い風を切るような高音が瞬時に距離を縮めてくる。

 なんだろう、と茜が考えた刹那、三善が刀を抜いていた。

 風を切る何かよりも更に一回り高音。耳を劈く衝撃音。飛び散る火花。質量のある物体が床に突き刺さる。


 ……何が起きたのか茜には理解できなかった。

 三善はざわざわと騒ぎ立てる周囲の木々に目を凝らしている。


 幸いにも、それ以降は何も起きなかった。三善は大きく息を吐き、構えを解いて刀を鞘に収める。

 茜もハッと我に返り、床に突き刺さっている物体に目を遣った。月明かりで黒く輝いているそれは紛れもない、苦無だ。投げるために作られた小刀。

 その苦無の持ち手に、白い何かが括りつけられていた。

 三善が結び目を解いて、折り目を広げる。

 書状だ。茜も兄の脇から覗き込み、乱雑な文字に目を遣った。


『例大祭の中止を要求する。応じない場合、我々は手段を選ばないだろう』


 風が書状を揺らす。無言で読み終え、三善が折り畳んで懐へ入れた。そして足元の黒い物体を丁寧に引き抜く。


「……何が目的なの?」

「分からないが、脅しだけではないはずだ」

「だからって中止になんかするもんか」

「感情だけで決めるわけにはいかない」

「なんで!」

「この苦無は、茜を狙って投げられていたから!」


 それには少女も返す言葉がなく、真剣な兄の目を見ながら、荒くなっていた呼吸に今頃気づいた。


 元の位置に座ってからも、ふたりの間に会話は生まれなかった。茜はただ月の位置が下がるのを見つめていた。

 気温は更に下がり、茜が二人分の蒲団を取りに戻った。三善は一緒に行動することを提案したが、甘やかすにも程があると茜が突っ撥ねたのだった。

 蒲団に包まりながら、ただ朝が来るのを待つ。まともに眠っていない三善は大丈夫なんだろうか?


 やがて空が白み始めた頃には、ふたりとも眠りに落ちていた。茜は浅い眠りで、強く風が吹く度に目を覚ましてしまう。蝋燭の火はとうに消えてしまった。今宵はもう襲われることはないと感じていた。だからこそ三善も気を緩めたのだろう。


 先刻、兄にした質問を回想してみた。随分思い切った話をしたものだと、今更ながら心拍数が上がる。

 どうして私はこんなことをしたのだろう。右手の包帯をスルスルと解いてみた。

 冷たい風が患部に当たって気持ちいい。

 初めて傷を凝視した。やっとのことで傷を覆ったようなかさぶたはまだグチャグチャで、紫色も抜けていない。軽く意識を失いそうな感覚に襲われる。いけない、別のことを考えよう……


 そういえば、と思い出して茜は立ち上がった。

 御神籤の結果、六番。神様のお告げが記されている、みくじ箋はどこにあるのだろう。

 正殿に御神籤があったのだから、みくじ箋も正殿のどこかにあるんじゃないか。茜にはそう思えて仕方なかった。そして確かめる時間はもう今しかない。

 座りながら眠る三善の膝に蒲団を掛けてあげる。起きる気配はない。

 少女は強い眼差しで振り向き、正殿の扉に手を掛けた。


 扉を少しだけ開くと、外の光が一直線に伸びていく。蝋燭の火はまだ消えていなかったけれど、空の青白い光が勝っていた。

 開いた隙間から身体を滑り込ませる。中から扉は閉めることにした。どちらでも構わなかったが念のため。

 風の音がピタリと止む。

 静けさに慣れてくると、蝋燭が燃えるじじじじという音が継続的に響いていることに気づいた。

 茜は慎重に歩を進めていく。心なしか、祭壇の木箱がぼんやり輝いているように見える。無意識に彼女は右手を伸ばした。



「みくじ箋はもうないよ」

「どうして?」

「じいちゃんが燃やしてしまったからね。探しても見つからないよ」

「もう占えないんだ?」

「そんなことはないよ。昔、籤をたくさん引いて全部のみくじ箋を集めたでしょう」

「うん。何回も何回も何回も何回も引いて、手が痛くなるまで引き続けた」

「からからという音が一日中響いていたね。怒られても、全部の番号を引くまで止めなかった。けれども覚えてる? あの数字だけ一度も引けなかったこと」

「十九番」

「みくじ棒が欠けていたんだね。誰かが抜いてしまったのかもしれない。だから十九番のみくじ箋は、埃を被ったまま減っていなかった」

「そう、だから諦めて、十九番以外のみくじ箋を手帖に……手帖?」

「…………」


 あなたは誰なのですか?

 思い出してはならないことがある。思い出すには決意が必要だった。その決意は今の茜には無い。

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