「籤」於日本橋 1-1
月読神社例大祭、前夜。
夜を統べる神、月読尊を祀るその神社は、毎年十三夜に例大祭を行う。
祭り最大の見所は、山車の行軍だ。夕刻に神社を発ち八百八町を練り歩く。やがて日が暮れると、山車につき従う者たちが一斉に松明を燈す。幻想的な光に包まれる姿は、神の一行と称えられるほど美しい。
本祭を心待ちにしながら、宵宮は静かに始まっていた。
篝火を焚いた拝殿前の広場には町内の有志が集い、笛や太鼓を奏で続けている。優しい音色を楽しみながら皆で語らい、酒を飲む。酒は神社に納められたもので、二日間では到底飲み切れないほど集まった。
ほんの少しだけ欠けている月は次第に高さを増していき、天辺に辿り着いた頃、宵宮は最高潮を迎えた。その日ばかりは夜更かしを許された子供たちが、杉の木の間を駆け抜けながらはしゃいでいる。
――遠くから聴こえる笑い声で、茜はゆっくりと瞼を開いた。
蒲団の中だった。そこがどこなのか、茜はまだ理解できていない。子供の声は遠ざかっていき、笛の音だけが残る。
橙色の光が障子越しに差し込んでいた。家具は何ひとつ無く、網の目の影が部屋全体に映し出され、ゆらゆら揺れている。足元の壁だけがやけに明るく感じた。障子の一部が破れているせいだろう。
萩の間にいるのだ、と彼女は確信した。
境内に建てられている家屋で、唯一使われていない部屋。物置でもなければ、開かずの間のように封印されているわけでもない、ただ何も置かれていないだけの空間。ぽつんと敷かれた蒲団がやけに寂しい。黒ずんだ天井を茜はぼんやり眺めていた。
ふと、おでこの違和感に気づく。濡れた手拭いがあてられていた。凝り固まった首をなんとか横へ向けると、桶が目に入った。もしかしたら誰かに看病されていたのかもしれない。
手拭いを桶に戻そうとして、のそのそと蒲団から右腕を出す。そこで少女の動きが止まった。
掌に何重もの包帯が巻かれていたからだ。薬の臭いが鼻を衝く。……どうして怪我をしているのだろう。なにか深刻に悩んでいたような。けれども胸にぽっかり穴が開いて溜め込んでいた感情が押し流されてしまったみたいに、気持ち悪いくらい心が晴々している。
子供の声がまた近づいてきては、返す波のように引いていく。笛の音に乗って手拍子が聞こえてきた。誰かが踊っているのかもしれない。
そこまで考え、彼女は怪我のことなど吹き飛ぶほどの強い焦りを覚えた。
――この音ってまさか例大祭……? ううん、この感じだと宵宮か……?
祭りが始まっているなら呑気に寝てる暇はない。巫女である茜がいなければ運営に支障が出るはずだ。果たしてちゃんと進行できているのか。
更に、彼女を混乱させる疑問が浮かんだ。
――どれくらい眠ってたんだろう??
祭りの準備を手伝った覚えがない。最後の記憶を辿ろうとしても頭がクラクラするだけで何も思い出せない。寝てたというより昏倒してたと表現する方が正しいのかもしれない。
とにかく起きなければ。渾身の力で掛蒲団を除けると、想像以上に寝汗をかいていることに気づく。
着替えたいな、と考えたのも束の間、彼女は最大の問題に直面した。
――こんなに汗かいてたら臭いんじゃないか???
その難題は多感な十五歳にとって最も重要で、たとえ家族であろうとも、身体を洗うまで絶対に誰とも会うわけにはいかなかった。
早く自分の部屋へ戻ろう、と勢いよく立ち上がり襖に手をかける。
しかしその刹那、自らの意思とは無関係に襖が横へ開かれていくではないか……
固まる少女の前に現れたのは、五歳上の兄。名を三善という。
彼は茜の姿を見止めるなり目を丸くし、鼻を引き攣らせながら第一声を発した。
「何だ、臭えな」
お風呂に入る。それが最後の会話だった。
兄妹は一切無言で井戸水を汲み、風呂釜いっぱい水を張る。中庭で三善が火を熾し、やがて充分に湯が沸いたのを確認してから、茜は気が済むまで身体を洗い流した。
まったくとんでもない目に遭った……がさつ。信じらんない……!
少女は頬をぱんぱんに膨らませながら湯船に浸かる。
青白くなっていた全身に血が通う。
傷が滲みて、右手はお湯に浸けなかった。けれども勇気がなくて傷を直視できない。紫色になっているのが薄目で見える。
誰かに刺されたのだろうか。それとも……?
想像すると怖くなってきて、茜はさっさと風呂から上がった。
手拭で身体を丁寧に拭いてから、少女は裸のまま包帯を巻き直す。
そして、襦袢を着て、白衣を纏い、緋袴を穿く。例大祭では白衣の上から、千早という神事用の衣装を羽織るしきたりがあるのだが、千早は祖父が管理しているため、一度祖父に会わなければならない。
髪を拭いながら中庭に顔を出してみると、三善は水袋に入れた冷水で右目の下を冷やしていた。茜は手拭を後ろ手に隠し、仏頂面の兄のもとへ近づく。
「さっきより腫れてない?」
「お前が言うな」
先刻、信じられない暴言を受けて反射的に繰り出した拳が兄の顔面を直撃した結果なわけだが、茜に悪びれる様子はない。女の子に言ってはならない言葉を発したんだから当然だ、と彼女は心の中で舌を出した。
「それ、紫色になるよ」
「お陰さまでな」
「避ければよかったのに」
「あんな状況で避けられるか」
「稽古が足らないんじゃないの?」
「寝起きの妹が手を出してくるとは思わない」
「そんな妹に酷いこと言うほうが悪いんでしょ」
「汗臭いほうが俺は……」
「へんたい」
茜は兄の脇腹を小突く。
反射で三善は体を捩じり、勢いで患部を冷やしていた液体が零れる。慌てて顔を拭いながら恨めしそうに少女を見たが、すぐに優しい目になった。
「元気でよかった」
それには茜も黙らざるを得ない。
お互い話し出すタイミングを失っていた。特に三善は、普段と変わらない妹の様子に、どう反応したらいいか解らないようだ。
「私、生きてた」
まあでも無理やり沈んだ声を出す必要もあるまい。少女は大袈裟に宣言してみると、三善は少しだけ語気を強めた。
「当たり前だ、バカ」
心配してくれてたんだ、と茜はぼんやり考えた。
「……例大祭だよね?」
「ああ。宵宮がもうすぐ終わる。正直、祭りどころじゃなかったけど、町のみんなが協力してくれて、何とか明日の手筈は整った」
「そっか」
「今年は十周年だろ」
「うん」
例大祭を大々的にやるようになり、今年で十年目を迎える。それ以前は山車も宵宮もなく小規模な祭りだった。
「出し物をしようとか差し入れを豪華にしようとか、お前が言うから考えてたのに、結局何もできなかった。第一、巫女の仕事を俺がやるわけにはいかないだろ? よその神社に頼んで手伝いに来てもらったけど、祭りの時期はどこも近いんだから悪いだろうがまったく……」
三善の目が赤くなっていく。この男が泣いているのを初めて見たと思った。
「……もう目覚めないかと思った」
「……うん」
いや、前にも一度だけ涙してる姿を見た気がする。いつだったかは思い出せないけれど。
「私、どれくらい眠ってたの?」
「五日だよ」
「……ふぅん」
「医者に診療してもらって、命に別状なしとお墨付きをもらったのに、ちっとも目を覚まさない。俺は祈ることしかできなかった」
「ツクヨミサマにお祈りしてくれたの?」
「真面目に仕えてる巫女を、ツクヨミサマが見捨てるはずないから」
月読尊のことを、ツクヨミサマと呼ぶのは茜と三善だけだ。ふたりにとってその祭神はごく身近な存在である。五日も眠っていたと聞かされても茜に動揺がないのは、ツクヨミサマに対する信頼が厚いからだろう。
「とにかく、まずはじいちゃんのところへ行こう。それから町のみんなにも早く報せてやったほうがいい。なにしろ総出で捜してくれたんだから」
「捜してくれた?」
茜は訝しげな顔をした。
「町中が手提灯だらけになって、まるで大捕物だったな。日本橋まで片っ端から捜し回ったのに、手掛かりすら見つからないもんだから大騒ぎさ。結局、最後はじいちゃんが見つけてくれたんだ。まさか依りによってあの部屋で倒れてるとは思わなかった」
「あの部屋って?」
「ん? 萩の間だろ」
「私……あそこで倒れてたの……?」
「お前覚えてないのか?」
萩の間。六畳間の虚しい空間。破れた障子。黒ずんだ天井。色白の右腕。汗ばんだ左手。暗転していく視界。手提灯。大捕物。日本橋。日本橋。日本橋。ニホンバシ。ニホンバシ。ニホンバシ。ニホンバシ。
――両肩を掴まれた。少女はハッとして視線を上げると、心配そうな兄の顔があった。
「あ……ごめん」
「謝るな。俺が無神経だった、すまん」
茜は乾いた笑みを浮かべる。
「なんで私あの部屋に入ったんだろうね……」
「もういい」
三善は茜の細い肩にもう一度力を込めてから、
「やっぱりじいちゃんに報告するのは後にしよう」
名残惜しそうに手を離す。
「……うん。今はちゃんと説明できそうにないや」
「宵宮が終わったら、ふたりでじいちゃんの部屋へ行こう」
「ひとりでいいよ?」
「いや、茜が目を覚ましたらすぐに報せるって言ってあるんだ。これは俺の判断なんだから、責任持って同行する」
「別にいいんだけど……」
「責任を持つ」
「三善がいないほうが早く済むから」
「責任を持つ」
「むしろ三善がいるとめんどくさいというか」
「責任を持つ」
「あーもう、わかった声かけるって……」
兄の頑固さに、茜はうんざりしそうになったが、今はありがたく提案に乗ることにした。
「宵宮の片づけが終わるまで、茜は自由にしていればいいさ」
「……じゃあ子供と遊んでくる。参道の方にいるね」
「巫女装束のままでいいのか?」
「いいよ、せっかく着替えたんだから」
「湯冷めするなよ」
「うん」
後でね、と言い残して茜は歩き出した。
暗闇に紛れて姿が消えてからも、しばらく三善は妹の残像を見つめていた。