幽霊少女は初恋を語れない
始まりの語り
夏の風物詩といえば、人はまず何を思い浮かべるだろうか。
青い空、眩しい太陽、熱い砂浜に雄大な海。学校に行けば野球部が白球を追いかける声が聞こえ、夜になればいずこかで花火が上がるだろう。
蝉のやかましい鳴き声も気付けば慣れ、照り付ける陽光の下で食べるアイスの甘さは至高に感じられた。
さて、そんな夏の風物詩の中で、忘れてはならないものが一つ存在する。それは既に古典とされるような昔から暑さを忘れるために人が語り、綴り、映す物。
即ち、怪談だ。
これは多くの人が恐ろしいもの、悍ましいもの、気味が悪いものといった印象を持っているのではないだろうか。
実際それは間違っていないだろうし、真実の一端である。
読んで字の如く、怪しい談。
人が最も恐怖するものは、未知なるものであるとさえ言われるのだから、己の理解を超えた怪しい話を怖がるのは当然の話だろう。逆に幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはよく言ったもので、真実を知ってしまえばどうということも無かったりする。
結局うだうだと何が言いたいのかと言えば、怪談というものは何も怖い話だけを指すものではないという話である。近所で連続殺人事件が起きたとして、それを恐ろしいとは思っても、怪談と言う人は居ないということだ。
怪談とは、己の常識を遥かに超えた所で起きる超常の現象を示すものだ。
だから、やはりその日から夏休みの終わりまでを〝彼女〟とともに過ごした久藤隆弘が語る体験は、怪談と称するべきなのだろう。
これは怖くも恐ろしくもない、けれどわけの分からない、そんな少女との一夏の思い出を語る、正真正銘の怪談である。
本章
うだるような暑さと蝉のやかましい声に起こされたのは、日も高く昇った午前十一時といったところだった。
電気代節約のためにエアコンは昨日コンセントを抜いていたので、部屋は蒸し風呂にも似た暑さだったことも良く覚えている。
寝ぼけ眼で枕元の携帯で時間を確認し、シャワーでも浴びるかとベッドから足を降ろしたのだ。
さて、自分の今日の行動を何となしに思い返してみても、おかしなところは見当たらない。
そもそも起きてベッドから降りただけという行動の中で、変なところを見つける方が難しいだろう。これは、俺が確かに目を覚ましているという事実確認に過ぎない。
1Kの大して広くも無いアパート。俺は取りあえず混乱する頭を落ち着けるために、キッチンに置かれた小さな冷蔵庫まで歩き、作り置きの麦茶をグラスに注いで飲み干した。
よく冷えた麦茶が喉を通る感触が心地よく、寝起きで水分の足りていなかった身体に染み渡る。
すると、部屋から声がかけられた。
「あ、麦茶。私も飲みたい」
聞こえてきたのは、年若い女の声。
「………」
俺はその声に応えることなく、無言で新たにグラスを取り出し、麦茶を注いでやる。
ついでに自分のものにも注ぎ直し、二つのグラスを手に部屋へと戻った。
まず目に入るのは、中央に置かれたちゃぶ台。そして、先程まで俺が寝こけていたベッドである。小さなテレビが昼のワイドショーを垂れ流し、電灯もついていない部屋で唯一明かりを放っていた。
「……ここ、置いておくぞ」
「あ、ありがとう」
俺は持っていた麦茶をちゃぶ台に乗せ、改めて状況を再確認した。
今日は高校二年の夏休み、その初日である。壁にかけられたカレンダーを見てもそれは間違いないし、そうでなければこんな時間まで寝ていられることもない。
昨日は深夜までテレビゲームをやっていて、今日は不健康上等とばかりに遅く起きたのだ。
そして、起きて部屋を見やれば、見知らぬ少女が一人。
まるで自分こそがこの部屋の主だとでも言いたげに、テレビを付けて、その前にだらしなく寝転がっていた。
これが先ほどから俺の混乱している理由である。初めはまだ寝ぼけて夢の続きを見ているのではとも思ったが、十分頭が覚醒した今も、少女は変わらずそこに居た。
どこの学校のものか分からない夏服の制服に、肩甲骨を超す程度に伸ばした黒髪が、カーペットに乱雑に投げ出される。
少なくとも俺の通う高校の生徒ではないし、覚えている限りで親族にこの年頃の少女は居ない。そもそも、実の姉を除けば親族が自分を訪ねて来ることなどあり得ないのだから。
「……ふむ」
これがもし寝転がっていたのが筋骨隆々なおっさんであれば、通報待ったなしである。いや、恐らく子供でなければ男の時点で通報一択だ。
しかし、今俺の目の前で無防備に寝転がっているのは、自分よりも年下のような少女だ。
なにはともあれ、まず事情を聞くところから始めるべきだろう。
「ん……よっ……」
そんなことを考えていると、少女の方に動きがあった。
もぞもぞと身体を動かし、横たえていた身体を気だるげに起こす。
そうして、お茶を飲むためにかこちらを向いた。
「なに? どうかしたの?」
「い……いや、なんでもない」
いや、他に言うことがあるだろうと自分に内心で突っ込みを入れながら、しかし頭の中はそれどころではなかった。
眠そうでありながら、十分に大きいと分かる黒い瞳、つんとした鼻に、ぷっくりとした桜色の唇が小さな顔の中で違和感なく纏まっていた。
幼さの残る顔立ちであるが、それがまた愛らしさに拍車をかけていた。
突然であるが、俺の趣味は年上の包容力がある優しい女性だ。イメージとしては、養護教諭あたりを想像すれば大体間違いないだろう。無論、大きいか小さいかで言えば大きいに越したことはない。何がとは言わないが。
さて、そんな俺の好みとはほぼ真逆に居る少女は、しかしどうしてか俺の心を強く揺さぶった。
――可愛い。
もう目に入れても痛くないのではと思う程に、本能を直撃する愛らしさ。そんな魅力が、少女にはあった。
「変なの」
放心した俺をおかしな物でも見るような目で眺めつつ、少女はグラスに手を伸ばした。白く細い指が、窓から差し込んだ陽の光に透き通る麦茶を取ろうとして、そこで違和感を抱いた。
「おい、ちょっと待て」
「なっ、突然なによ」
少女が驚いた声を上げた後、不満そうな目でこちらを見て来るが、こっちはそれどころではなかった。
反射的に掴んだ少女の手。運動などほとんどしない俺でも、下手に力を入れれば折れてしまうのではないかという白魚の如きそれは、エアコンもついていない部屋の中で酷く冷たかった。
しかし、真に驚嘆すべきはそんなことではない。
「……す、透けてる?」
思わず、確認するような声が出た。掴んだ少女の手は、これまで部屋の暗がりにいたせいで分からなかったが、太陽の光に照らされると、うっすら背後の景色が見える。
これまでの人生で、一度も外に出たことがないのではないだろうかという程に、いっそ病的なまでに白い少女の肌は、陽光を反射することもなく、透過させているのだ。
改めて少女の身体をよく見てみれば、分かりにくいが、全身が透けているのが分かった。
そのくせして、俺の手には冷たくも柔らかい少女の手の感触がしっかり存在するのである。
まるで、何かに騙されているような気さえした。
無遠慮な視線に晒されて、少女が居心地悪そうに身を捩る。
「さっきからなに? 透けてるって一体なにが……」
「いや、お前の話だよ」
「はい? そんなエロイ服着てるわけないじゃない。暑さで夢でも見てるんじゃないの?」
まさか夢のような存在に頭を心配される日が来ようとは思わなかった。本当に夢を見ているというのなら話は早いのだが。
俺は少女にも分かりやすいように、少女の手を高く上げて、陽にかざしてやる。
「……透けてるわね」
「スッケスケだよな」
「言い方がやらしいのが気になるけど……」
少女はそう呟いてから徐に立ち上がると、窓の側に歩いて行って、全身を隈なく確認した。
「……本当に透けてる」
いや、そもそも何故本人がこの事実に対して気付いていなかったのか、小一時間程問い詰めてやりたいが、それよりも、ようやく俺の聞きたいことを聞けるタイミングがやってきた。
一つ呼吸を大きくして心を落ち着けつつ、問う。
「それで、あなたは一体どこのどちら様なわけ?」
確認作業を止めて、くるりとこちらを振り向いた少女は、陽の下にあって酷く儚げに見えた。透けているせいか、今にも消えてしまうのではないかとさえ感じる。
そんな雰囲気も相まってか、俺はどうしてか恐怖や不安という感情を抱くことはなかった。
そして少女は、問うてくる俺の方を不思議そうに見つめ、答えた。
「どこのどちら様もなにも、織姫よ。隆弘に会いに、わざわざ来てあげたんでしょ」
まるで当たり前の事実を述べるように、少女はそう告げる。
しかし、こちらにその心当たりは一切存在しなかった。
織姫、という名前には当然聞き覚えがあるが、それは七夕の夜にリア充するお星様のことである。少なくとも現実の少女でそんな名の子と知り合った覚えはない。
だが、向うは俺の名を知っているようだし、こうも確固とした口調で断言されると、自分の方が疑わしくなってくるから不思議なものだ。
そのために、俺は次に別の問いを発した。
「じゃあ、君――織姫ちゃんとやらは……その……幽霊だったりするのか?」
身体の透けている、そして同時に、とても常人とは思えない程に体温の低い少女は、今度の質問には少しばかりの迷いを見せた。
暫く考えるような様子を見せた後、こちらを見て、こてんと首を傾げる。
「さあ、分かんない」
そうか、分からんか。でも可愛いからいいや。
自分でも驚くほどに、織姫の言葉をすんなり納得してしまった。良くないだろうという思いがある反面、しかしどうしてもこの織姫の存在を否定する気にはなれない。
さながら魔法でもかけられたのではないかという程に、俺はこの時既に少女の存在を受け入れていたのだ。
身体が透けている少女なのだから、そんな魔法の一つや二つ使えても、もしかしたらおかしくはないのかもしれないが。
さて、ではこれからどうしたもんかと思っていると、織姫が何かを思い出したように、俺に声をかけてきた。
「そういえば隆弘」
「ん? どうかしたのか」
何か重要なことかと身構えると、織姫は自身のその薄い腹を撫でつつ、
「お腹減った」
時計を確認すれば、時刻はもう十二時近く。言われて初めて自覚したが、俺の腹も随分前から空腹を訴えている。
成程、道理な話だと俺は顔を洗うために立ち上がった。
俺と織姫の二人が遅い朝ごはんとも昼食ともつかないブランチを食べるためにやってきたのは、近所のファミレスだった。
織姫の要望でここにしたのだが、到着して一つ問題が発生する。
そう、どうやらこのスケスケ少女、俺以外の人間には見えないようなのだ。
つまり俺はファミレスに入った時点で店員のお姉さんに「お一人様ですか?」と聞かれる存在なわけで、注文したハンバーグセットも一人前である。
どうすりゃいいんだ、これ。と悩んだのも束の間。ファミレスらしいスピードでハンバーグセットが運ばれてくる。
じゅうじゅうと鉄板の上で音を立てる肉厚のハンバーグに、つやつやとした白米から立つ湯気を前にして、思考どころではなく腹の虫が辛抱堪らん、と暴れ出した。
しかし、俺は自分が食べるよりも先に、対面で口を開ける少女のためにハンバーグを切り分けてやることになった。雛鳥のように、織姫が口を開いてこちらを見ているのだ。
かかっているソースを零さないように、慎重に小さな口の中へ肉を放り込んでやる。
「あつっ……! はふ……」
どうやら、思ったより熱かったようで、織姫はしばらく口を上に向けて湯気を吐きつつ、ハンバーグと格闘する。
自分の分を切り分けながら、これ他の人から見たらどうなってんだ、と少し考える。今のところ、ハンバーグが空中で消えてるだのなんだの言われる様子はない。
まあ、考えてみたところで分からないものは分からないかと、俺も空腹に突き動かされるようにしてハンバーグセットに取り掛かった。
そうして二人でご飯を食べつつ、お互いの知っていることを確認していくと、俺個人の意見としては、織姫幽霊説が堅固たるものへとなっていった。
というのも、
「それじゃあ、お前はその隆弘くんとやらとの約束を守るために、ここに居るんだよな」
「隆弘は隆弘じゃない。なに変なこと言ってるの?」
「いや、俺は織姫の知ってる隆弘くんとは別人だと思うが」
話を要約してしまえば、ただそれだけの事。幽霊が出て来るような物語としては、使い古された典型のようなものだ。
どうやらこの織姫は生前は病気かなにかだったらしく、覚えていることといえば、白い病室と、隆弘くんとの曖昧な思い出ばかり。
そしてそんな隆弘くんとの約束を果たすためにここに居る、ということは間違いないらしく、間違いなのは俺がその隆弘くんではない事だろうか。
自慢じゃないが、これまでの人生で入院するような怪我や病気はなったことがないし、もし物心つく前の頃にあったとしても、その年頃の自分がこの少女と約束することが出来るとは思えない。
故に、結論としては人違いである。
「ところで、織姫はなんで制服姿なんだ? というかどこの学校のだ、それ」
「どこの学校なのかは覚えてないけど、制服なのは、隆弘が見てみたいって言ったからじゃない。忘れたの?」
おいマジかよ、隆弘くん。ナイスなチョイスだ。
内心で顔も知れぬ少年に礼を言いつつ、俺たちは会計を終えて店を出た。
無遠慮に照り付ける太陽が肌を焦がし、アスファルトから立ち上る熱気が身体を撫でる。
俺はふとあることを思い出して、ジーンズのポケットから携帯を取り出した。
電話を掛けるのは、久藤真由美。
両親はそれぞれ愛人作って離婚して、後は適当に金だけ出している身なので、実質的に唯一の肉親らしい肉親である俺の姉だった。
既に独り立ちしていて、今度結婚すると聞かされていたが、弟としてはよく猫被って相手を騙し切ったもんだと感心するばかりである。人の好さそうな彼氏だったので、もしかしたら弱味でも握っているのかもしれないが。
「………」
数度のコール音の後で、電話が繋がった。
『もしもし? そっちから電話かけてくるなんて珍しいじゃない』
「いや、一つ聞きたいことがあんだけどさ」
『なによ』
「俺って昔病院に通ってるような時期ってあったっけ? ついでにそこで仲の良い女の子作ったりしてなかった?」
『……なにあんた、夏の暑さで頭やられたんじゃない?』
自分で言っててもその通りだと思うが、全く以て失礼な姉である。
『そんなことより隆弘、あんたあの日の予定はちゃんと開けてあるわよね?』
「あの日?」
『とぼけないで。結婚式よ。随分前から言っておいたでしょ』
「ああ」
汗が流れ落ち、水分がどんどん失われていくせいだろうか、口から出たのは、なんとも言えない生返事だった。
『幸太郎さんもあんたが来るの楽しみにしてるし、何より――』
私の、たった一人の家族でしょ。
姉はその後、予定開けておきなさいよと念押しして、電話を切った。
確かに、両親がお互いに不倫をして離婚するようなふざけた輩である。そんな娘の結婚式に行こうという親族が居るとは思えなかった。
「どうかしたの? 隆弘」
「……いや、なんでもねーよ」
傍らの織姫にそう答えつつ、携帯をしまう。
これで本当に俺と織姫の関連性が否定されたわけだが、ご飯を食べてお終いというわけにもいかないのだろう。
というか、彼女の方が勝手に付いて来るだろうし、なにより俺自身がそういう気分にはなれなかった。
「なあ織姫」
「なに?」
「隆弘くんとしてた約束って、どんなだ?」
出し抜けに問いかけると、織姫は分かり易く表情を輝かせる。
「付き合ってくれるの!?」
「まあ、どうせ予定も無いしな」
長い夏休みである。部活にも入っていなければ、さほど友達も多くない俺のカレンダーはほとんど空白だ。無論、家族旅行など物心ついたころから覚えはない。暇つぶし、というわけではないが、織姫に付き合って夏を過ごすのも、そう悪くはないだろう。
織姫は暫く唸っていると、そうだとばかりに過去の約束を一つ口に出した。
「駄菓子屋! 隆弘が連れて行ってくれるって前に言ってたわ!」
織姫の願いは、願いと言うのも憚れるほどに、ささやかなもの。
この少女が一体生前にどんな生活をしてきたのか、気にならないと言えば嘘になるけれど、今はそれを問いただすこと程野暮なこともあるまい。
「じゃあ、まずは駄菓子屋に行きますか」
「了解!」
目的地の決まった俺たちは、炎天下の中駄菓子屋を目指して歩き出した。
俺が子供の頃は、駄菓子屋というのもさほど珍しくはなかったが、最近では見かけることも少なくなった。
素人目に見ても、個人経営の駄菓子屋というのは利益が出ているのか疑問なので、これも時代の流れというものなのかもしれない。後に残るのは、そこはかとない寂寥感だけである。
そういうわけで、正直まだその駄菓子屋が経営しているのかは不安だったのだが、行ってみれば、そこには数年前の姿そのままに、駄菓子屋が開いていた。
スライド式の木製扉には『開けたら閉める』と手書きで書かれた紙が貼られており、店先には盗難が心配になるようなアイスの入った冷蔵ボックス。
いっそ溜息を吐きたくなるほどに記憶のままの駄菓子屋を暫く呆けたように見ていると、織姫はひょこひょこと歩いて行って、店先に飾られたチープな玩具やアイスなどを面白そうに観察し始めた。
「これが……駄菓子屋……」
「ほら、あんま見ててもしょうがないだろ。暑いんだからとっとと入ろうぜ」
扉を開けると、中からは冷房の効いた冷たい空気が溢れて来る。先ほどまでうっとうしい程に流れていた汗が引いて行き、無意識の内に吐息が口から洩れた。
どうやら店主のおばあちゃんは奥に引っ込んでいるようなので、店内には誰も居なかった。
「ちょっと、隆弘邪魔」
待ちきれないとばかりに、俺の身体を押すようにして、織姫も店内に入って来る。
そうして店の中をぐるりと見回すと、
「おお、凄い」
そう感嘆の声を漏らし、忙しなく商品を手に取って商品を見始めた。
こうして見てみると、意外に見たことのない駄菓子などが並んでいたり、新鮮である。しかしコンビニ等だとまずは新商品に目が行きがちだが、駄菓子屋だと昔ながらの菓子の方が魅力的に映るのは、やはり思い出補正というもののおかげだろうか。
「おっ、これ好きだったんだよな」
昔は良く食べていた卵型のチョコレート菓子。中には食玩が入っているのだが、流石に記憶の物とは違っていた。
それでも味は変わらないのだろうと眺めていると、くいくいと服の裾を引っ張られる。
「隆弘、隆弘」
「どした?」
「これ、いくら?」
ぐいと織姫が突き出して来たのは、小さな容器に入ったヨーグルト菓子だった。ヨーグルトととは言っても、味が似せてあるだけで乳製品は一切使われておらず、ある意味駄菓子らしい駄菓子である。
「えーと……確か二十円くらいじゃなかったか」
この駄菓子屋に来ていたのも随分昔のことなので、正直あまり自信はないのだが、織姫は信じてくれたようである。
「これが二十円かー、じゃあこのでっかいお煎餅は?」
「三十円じゃねーかな。あんま覚えてないけど」
「この大きさで三十円とか、めっちゃ安いじゃん」
それから数度俺に商品の値段を聞き、その度にとても物珍しそうにする織姫は、まるで箱入りのお嬢様だった。
そんな織姫は幾つかの駄菓子を見繕い、突然大きな声を上げる。
「あ! 隆弘、これ!」
「突然なんだよ。生産停止した駄菓子でも売ってたのか?」
声に釣られて織姫の方に歩いて行くと、彼女は手に持っていた一つの菓子を誇らしげに掲げる。
「うんまい棒のカルボナーラ味!」
少女が持つそれは、日本人ならば誰もが知る国民的スナックだった。十円という安さと、チープながらも癖になる味付けで今も昔も駄菓子の王者に君臨する存在である。
だが、そんなうんまい棒の種類の中でも、織姫が選んだそれは、一切聞いたことのない物だ。
「……何、それ。美味しいのかどうかという以前に、そんなもんが売られてたのか」
「隆弘は駄目だなあ。うんまい棒と言えばカルボナーラ味でしょ。……まあ、私も売店とかで売ってるのは見たことないけど」
「これまで生きてきて、存在自体が初耳だよ」
実際美味しいのだろうか。組み合わせとしてはそこまでミスマッチではなさそうだが、なんというか、色モノ感が半端ではない。
「まさかこんなところでまた会うことが出来ようとは……」
――まあ、嬉しそうだから良いか。
織姫の楽しそうな姿を見ながら、俺は手に持っていた買い物かごにカルボナーラ味のうんまい棒を何本か放り込んでやる。
その後、おばあちゃんを呼んで俺は買い物かご一杯の駄菓子と、外で売っていたアイスを二人分購入した。
駄菓子屋に来たのなど思い出すのも難しい程に久しぶりだったが、織姫と二人で来るのなら、悪くないと思えた。案外、娘を連れて買いにくるのは、こういう気分なのかもしれない。
「ふんふんふふーん」
先ほどから隣を歩く織姫が、機嫌良さそうに鼻歌を歌っている。アイスは既に食べ終わっていたが、その手にはうんまい棒のカルボナーラ味が握られていた。
こちらとしては、いつ空中浮遊するうんまい棒(カルボナーラ味)が騒ぎになるか心配だったが、どういう原理なのか、誰もこちらに注目する様子はなかった。
今日の夕飯はどうしようか。二人居るのなら、冷蔵庫の食材が足りるか微妙なところだった気がする。
そんなことを、ぼうっと考えていた時の事だった。
「あれ、久藤くん?」
織姫と反対側から聞こえた俺を呼ぶ声に、反射的に隣を向く。
そこには、ちょうどすれ違おうとしていたらしい一人の少女が立ち止まっていた。
さらさらとした栗色の髪を揺らす少女は、見慣れた制服姿ではなかったが、その名は間違えようもなく俺の口を突いて出る。
「……八代」
八代美月。高校に入学してから同じクラスになり、そして偶然俺と同じ図書委員になった少女だった。
八代美月は人懐こい笑みを浮かべて、口を開く。
「こんなところで奇遇だね。久藤くんもお買い物?」
「い、いや。買い物というか……」
突然の事態に、情けなくも言葉が纏まらない。だが、そんな俺の様子に頓着することなく、八代はにこにこと笑顔のままで、俺の持つビニール袋に視線を向けた。
「あ、駄菓子。久藤くん、駄菓子屋とかよく行くの?」
「ま、まあな」
「へえ、私も好きなんだあ、駄菓子。たまに凄い食べたくなる時ってあるよねー」
「あ、じゃあ」
俺は慌ててビニール袋に手を突っ込み、適当に掴んだものを八代に差し出す。
「これ、やるよ。どうせ安いもんだし」
「え? 良いの?」
「ああ、持ってけ泥棒」
「それなんか使いどころ間違ってるよ、久藤くん。……あれ、なんだろうこれ。……うんまい棒のカルボナーラ味?」
八代が、渡された物をしげしげと不思議そうに眺めた。それはそうだろう。偶然会ったクラスメイトからわけの分からないフレーバーの駄菓子を渡されれば、当然の反応である。
「騙されたと思って食べて見ろよ。美味いから」
俺は食べたことないのだが、ここは織姫を信じるしかあるまい。
「へー、そうなんだ。じゃあ、ありがたく貰ってくね」
それじゃあ、これから夕飯の買い出しなんだ、と八代は笑顔のまま去っていった。
正直何を話したのかもあまり覚えていないが、よく分からない幸福感ばかりが胸の内に残っている。
すると、
「隆弘」
「おっ、おお、どうした織姫」
突然横から存在を忘れていた少女に話しかけられ、心臓が跳ねた。
そちらを見やれば、織姫が何とも言えない表情でこちらを見ていた。うんまい棒をあげたことを怒っているのだろうか。
だが、少女から感じるのは怒りではなく、もっと沈鬱なもの。
「隆弘、八代さんのこと好きなの?」
そして言い放ったのは、予想とは随分違う直球な質問だった。ただ、こういった話題に付き物な、甘い雰囲気というものは全く感じられない。
「いや、好きとかじゃないんだが」
反射的に俺は答えていた。これは咄嗟の言い訳ではなく、事実だ。
言うのであれば、気になっている、というのが最も当てはまるだろう。それは恐らく、これまでの人生で彼女以上に他人の女性と会話をしたことがないからだ。だから、意識してしまう。
そもそも俺には人に恋をするという感情が、よく理解出来なかった。もしも本当に恋に落ちることがあって、それが真実の愛だというのなら、何故両親は上手くいかなかったのだろうか。
愛だけで結婚は上手くいかない、などとどこかで聞いたことがあるが、それなら恋も愛も、成り立つのは利害関係や他の要素が前提に存在することになる。
そうやって全ての様子が噛み合って、一つの塊になれるのなら、それこそが真実の愛なのだ。恋愛感情だけで人は結ばれないし、利害だけでも人は一つになれない。歪な形で、色が複雑に混じってマーブルになった醜悪にも美しくも見えるものが、真実の愛なのだ。
ならば一時の感情に身を任せて、他の要素を無視して行う恋愛は、その先に何があるのだろうか。激しく燃えた炎の後に残るのは、全てを壊して積もる灰だけである。
「………」
先程まで高揚していた感情が、波が引くようにして冷めていく。
結局のところ、こんなことを考える時点で恋という感情に発展することはないのだろう。
「……これが、隆弘の初恋?」
そんなことをうつらうつら考えていると、服の裾を握った織姫が、顔を俯けて再度聞いてきた。
「話聞けよ。別に好きとかじゃない」
「もしまだなら隆弘、どこかで初恋はしておいた方が良いよ」
は? なんの話をしてるんだ。と口にしようとした瞬間、織姫がこちらを見上げた。今までに見たことがない、どこか憂いを帯びた瞳が、俺のそれを覗き込む。
「初恋は、上手くいかないんだ。……だから、いつかのために、しておいた方が良いよ」
「……なんだよ、それ」
「隆弘が言ったんだよ、体験談だって。……それと、私のも、体験談」
「………」
それは、顔も思い出せぬ隆弘くんのことを言っているのだろうか。恐らく、いや十中八九、織姫と思い出の中の隆弘は過去、結ばれぬ運命にあったはずだ。
それがお互いにとって初恋だったのだろう。それも、俺のように余計な考えは一切抱かない、純粋な恋心。そこには、俺が有り得ないと切って捨てた、混じりっ気のない真実の愛があったのかもしれない。
ただの迷信だと言う気には、なれなかった。
「なあ織姫」
「……なに?」
「明日は、どこ行きたい?」
聞くと、沈んでいた少女の表情が変化した。服の裾を掴む指が微かに緩む。
「……明日も、私に付き合ってくれるの?」
「明日と言わず、夏休みが終わるまでは嫌になる程付き合ってやるさ。……それが、約束だったんだろ?」
「……隆弘」
織姫の過去がどういったものであれ、今ここに居る俺がたとえ偽物の隆弘であったとして、それで彼女の顔を曇らせるのは、なにかが間違っている気がした。
「じゃあ、水族館に行ってみたい」
「おお、いいんじゃないか。冷房も効いてるしな」
既に昼間の熱さは形を潜め、辺りは夕暮れの橙色に染まる。
歩道に落ちる影は一人分だったが、確かにその時、俺の身体はもう一人の存在を感じていた。
それからの毎日は、充実していたように思う。
傍から見れば一人ではしゃいでいる痛い人間だが、その隣には俺だけが見える少女が確かに居たのだから、別段気にもならない。
水族館だけでなく動物園にも行ったし、映画も見に行った。ホラー映画を織姫と見るのは流石にシュール過ぎるので、アクション物である。
それから海や市民プールにも行った。どういうわけか、織姫は制服姿以外にはなれないようで、水着姿は拝めなかったが、それでも十分に行った価値はあると思う。
そして意外なことに、織姫は俺の夏休みの宿題もやりたがった。生前まともに学校に行ってなかったのか、それとも単純に高校生になっていなかったのか馬鹿だったのか、まるで戦力にはならなかったが、俺がやる宿題を楽しそうに横で見ているのである。
ドオォン、と鼓膜を揺らす音と、視界の中で鮮やかに散る色彩が、俺を回想から現実へと引き戻した。
見上げる空は黒く、草木を揺らして頬を撫でる風が心地よい。
視界の下の方では、出店の煌々とした灯が行き交う人々の顔を照らし出す。先ほどまで聞こえていた雑踏の音も、今は幾分静まっていた。
そして、再び夜空を背景に花火が上がる。
三色の花弁が黒いキャンパスを一瞬だけ彩り、そして消えていくそれの印象を塗りつぶす様にして新たな花が咲く。
刻一刻と、絶えず変化し続ける光の演舞に皆が視線を奪われる中、俺はそっと横を見やった。
「………」
そこには、花火の明かりに顔を照らされる一人の少女が、無言で空に目を奪われていた。
黒曜石のように艶やかな瞳が、光を反射する度きらきらと輝く。濡れ羽色の髪は、夜の闇に溶けて消えるのではとさえ思えた。
「どうかしたの?」
俺の視線に気づいた織姫が、花火から視線を剥がしてこちらを向く。この一月で、この顔も随分と見慣れてしまった。
「いや、花火が見れて満足かと思ってな」
向かい合っているのが何となく気恥ずかしくて、視線を空の花火に戻す。
すると、肩に軽い重みが乗っかった。冷たい感触が、服を通して半身へと広がっていく。
「うん、満足した」
聞こえてきた声は、先程よりもずっと近い位置にあった。
心臓の刻む鼓動も、吐息が漏れる音も、聞こえるはずがないのに、今は織姫の全てが触れあった場所を伝って流れ込んでくるような気さえする、
視線は戻したはずなのに、目に映る光景も花火の音も、遠ざかっていった。
「ねえ隆弘」
「なんだよ」
その先の言葉は聞きたくない、そんな思いが、確かに俺の中で渦巻いている。だが、その言葉が口から出ることはない。それはきっと、織姫の想いを踏みにじることに等しいのだ。
続いた無言は、ほんの数秒程度だっただろうか。それは今の俺にとっては、酷く長いものに感じられた。
そして、言葉は耳元で紡がれる。
「ありがとう」
「……っ!」
何かを言おうとして、けれどここで何かを言葉にしてしまったら、それと一緒に全てが決壊して溢れ出してしまいそうだった。
肩の重みが消えた瞬間、弾かれたように横を見れば、そこにあるのは、この一月見続けていた織姫の顔だ。
けれど、その表情は哀しみでも喜びでもない、これまでに見たことのない不思議なもの。
花火が上がったのだろう、横顔が明るくなり、そしてまた暗くなる。大人びた顔の織姫は、これまでに見てきたどの織姫よりも、どうしてか織姫らしいと感じられた。
「………」
――ああ。
彼女にあの言葉を言われたのは、ちょうど一月前ぐらいのことだっただろうか。
初恋は叶わないなんて、あの時の俺は自分には無縁の話だと思っていた。
たとえ燃えた後に灰しか残らなくても、今持っている何もかもを壊してでも、手に入れたいと思えるものがあるなんて、思いもしなかった。
こんな強く、純粋で、巨大な感情が自身の中で眠っていたなんて、これまで気付きもしなかったのだ。
こんなにも馬鹿な話があるだろうか。
きっと同じ親を見ながらも、姉は俺より先にこの想いを知ったのだろう。
だが、全ては遅すぎた。織姫に会うのも、この感情を自覚するのも、勇気を絞り出すのも。
「……っ」
言いたい言葉があった。伝えたい想いがあった。
しかし、その全てを俺は喉で飲み込む。
この想いを告げるのは、本当の気持ちを言葉にするのは、俺であってはならない。
織姫の求めているだろうその言葉は、本物の隆弘だけが口にすることを許される。
彼女にとって俺は思い出の中の隆弘であって、俺はそれを受け入れたのだ。嘘を吐いたのなら、最後まで突き通さなければならない。俺の本当を今ここで言うのは、あまりに卑怯だ。
考えるべきは、たった一つである。
織姫が、笑って終われるように。
「……なあ織姫」
「なに?」
透き通るような笑みを浮かべて、織姫は首を傾げた。動きに合わせて、髪が肩を流れ落ちる。花火は、いつしか終わっていた。
俺は、血を吐くような思いで、聞いた。
「約束は……果たせたか……?」
すると、織姫は少し驚いたような顔をして、そしてそれを満面の笑みに変えて、頷いた。
「うん」
九月一日、夏休みが終わって新学期が始まる朝。
花火大会から一夜明けてみれば、俺の部屋は何事もなかったかのような平穏を取り戻していた。
テレビが勝手についていることもないし、ちゃぶ台の向こう側に人影などありはしない。
まるで全ては夢幻であったかのように、彼女の痕跡は朝の光の中に溶けて消えたようだった。
「………」
朝の支度をするためにベッドから立ち上がった時、足に何かが当たる。
目を向ければ、そこにはゴミ箱に入れ損ねたのか、細長いビニールの包装がくしゃくしゃになって落っこちていた。ここ一月で何本買ったかも覚えていない、うんまい棒のカルボナーラ味。
「……あ」
俺はふとあることを思い出して、携帯を取り出す。姉のアドレスを開くと、メールを打つ準備をした。
そう、結婚式の日取りを聞くために。
終章
幽霊の正体見たり枯れ尾花、ということわざは全く以て的を射ている。
今年で三十二になる久藤隆弘は、最近ことにそう思うのだ。
それは別段今が怪談の季節真っ只中であるから、というわけではない。窓の外から見える青々と茂る樹木の葉が陽の光を受ける様を見て、ホラーを連想する人間はそう居ないだろう。
原因は、偏に今隆弘のベッドを占領して、テレビを見ている人物に起因した。
「隆弘ー、暇ー」
だらしなく四肢を投げ出し、十分に一度は同じセリフを繰り返すパジャマ姿の少女。
白いシーツに黒髪が広がり、大きく艶やかな黒曜石を思わせる瞳は、半開きで宙をさまよっていた。
ついに耐え切れなくなった隆弘が、窓から視線を外して振り返る。清潔感のある白で統一された部屋の中で、薄桃色のパジャマを着る少女は妙に浮いていた。
「織姫、人の部屋に来て暇だなんだと嘆くなら、自分の病室に帰れ」
「えー、戻ったらもっと暇になるじゃん」
隆弘は分かってないなーとぼやきながら、少女はぽちぽちとチャンネルを変える。平日の昼間から、十四歳の少女が見て楽しい番組がやっているとも思えないが。
隆弘に宛がわれた病室に毎日のように来てはゴロゴロするこの少女の名は、新条織姫。
隆弘の姉である新条真由美と、その夫である新条幸太郎の一人娘である。
つまり、隆弘にとっては姪に当たる少女だ。生まれつき心臓に病を持っていて、これまでの人生をほぼ病院の中で過ごして来た。両親は治療費を稼ぐために二人とも遅くまで働いていて、中々会える時間も少ない。
そのため、織姫にとって最も身近な存在と言えば、同じ病院に入院する叔父の隆弘なのである。
「ねー、隆弘」
「どうした?」
「隆弘はさ、海って行ったことある?」
「そりゃ行ったことはあるけど」
突然どうした、と織姫の見ている番組に目を向ければ、そこでは夏のビーチを特集する番組が流れていた。
織姫は生まれついてから、激しい運動を禁止されている。遠出もほとんどしたことがなく、あるとすれば病院を移動することが一番多いだろう。
当然、海水浴はおろか、直射日光の厳しい真夏に外に出ることもほとんど経験がなかった。
「行きたいのか?」
「連れてってくれるの?」
期待に輝く目で、織姫がこちらを見る。隆弘は「ああ」と頷き、
「お前が外に出れるくらい元気になったらな」
すると、織姫はみるみるうちに不機嫌な表情を作った。頬を膨らませ、「ぶう」と唸る。
「そんなの、ずっと行けないじゃん」
「分かんねーぞ、医学は日々進歩してるんだからな。お前だって海に行ける日が来るよ」
「それなら、隆弘も治るの?」
「あー、可能性はあるかもな。そしたらお前、あれだよ。超仕事してるから、連れていけなくなるかもしれないな」
「じゃあやっぱり嘘じゃん」
「冗談だよ、そうなったら休みの日に連れてってやる」
「……なら、動物園も?」
「良いぜ」
「水族館は?」
「任せろ」
「夏祭りは? 私、花火も見たい」
「それも良いな、出店の商品は無駄に高いけど、なんでか美味く感じるんだぜ」
「約束だからね?」
「ああ、約束だ」
ぽふぽふと、少女の脚が交互に振られる。顔を枕に埋めて、にやけている様子だった。
「あ、そうだ織姫」
「なに?」
「こないだ面白いもんをネットで注文したんだけどさ、そこの段ボールの中に入ってるから見てみ」
「えー、面倒くさい」
ぼやきながらも、それでも興味はあるのか織姫はベッドから降りて部屋の隅に置かれた段ボールへと歩いてく。一度開封したので、開けるのは簡単だろう。
そうして、織姫は段ボールの中身を取り出した。
「うわ、うんまい棒のカルボナーラ味!」
「もう生産停止したみたいだけど、たまたま在庫があってな。好きだろ?」
「何年か前にお母さんが買って来てくれてから気に入ってたんだけど、お母さんに聞いたの?」
早速とばかりにうんまい棒に齧りつく織姫に、隆弘は笑って答える。
「いや、お前から聞いたんだよ」
「え? 私言ったかなあ」
「ああ、大分前にな」
「ふーん、でもいつかは駄菓子屋さん行ってみたいとかは言ってたかも」
「へーへー、ちゃんと治ったら連れてってやるよ」
そう言って、隆弘は再び視線を窓の外に向けた。どこからか飛んできた蝉が樹に張り付き、魂をすり減らすようにして鳴き声を上げる。
「……まさか、約束を破ったのは隆弘の方だったとはなあ」
無意識の内にぼやきつつ、隆弘は手を横腹に当てた。肝臓がんで余命三年を言い渡されてから、もう四年目になる。どうせならと織姫のために親からの手切れ金と自身の貯蓄で入院生活を続けてきたのである。
案外自分でも驚くほど長く生きた方だと思うが、そろそろ限界だろう。この人生にさほど後悔が残っていないというのが、一番の問題かもしれなかった。
ただ一つ心残りがあるとすれば、それは、
「隆弘、これ全部食べても良いの?」
「まさか一日で食うつもりじゃねえだろうな。ご飯が食べれなくなるだろ」
「えー、病院食美味しくないし」
ぶーたれる織姫を見て、思う。彼女がこれから先の人生を幸せに生きることが出来るのかどうか。それを見届けてやれないことだけが、心残りだった。
そこで、隆弘は一つ織姫に言っておかなければならないことがあることを思い出した。
「織姫、うんまい棒と引き換えに、一つだけ頼みがある」
「んー、何?」
「いつかで良いんだ、俺に制服姿を見せてくれ。どうせならウェディングドレスでも良いんだが……いや、駄目だわ。幸太郎さんと血の涙を流す未来しか見えねえ」
「……突然なに言ってんの?」
「良いんだよ。機会があれば思い出してくれれば」
未だに納得していない様子の織姫が、うんまい棒を齧る。
窓を開ければ、この優しくも無機質な白い部屋に、夏の風が舞い込んだ。
樹に張り付いていた蝉が飛び立ち、雲一つない青空へと吸い込まれるように消えていく。
「隆弘」
「なんだよ」
「喉渇いたから、麦茶飲みたい」
「……はいはい」
願わくば、明日も明後日もこんな日々を送れますように。そう思いつつ、隆弘は織姫のために備え付けの冷蔵庫へと向かうのだった。
了
随分昔に書いた短編を読んでもらいたいと思い、投稿しました。
とても好きな作品で、夏はこの二人を今でも思い出します。